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斯かる不祥事について 第九話(完結)

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 青木先輩は不出来な後輩への短いアドバイスを残して、勤務時間内には、なるべく大きな隙間は作るまいと、やや足早に階段を降りていった。須賀日巡査は身体を膠着させて、後ろからその様子を見送っていた。この二人の二年近くに及ぶ人間関係は、決して悪いものではなかった。ただ、年長者から後輩や部下への親切心や温情が、必ずしも良い方向へと働くとは限らないものだ。逆に勤務中には絶対に許されざる、気の緩みの温床になることさえある。ホストクラブから金を受け取った、不埒な三名の署員が、詳細な理由のままならないままに、厳重に処罰されてからというもの、この新人警官には、公務員にはあるまじき不祥事というものが、潔癖な自分にとっては、全く及ばない、とまではいわないが、およそ、相当な悪運を伴わない限りは、傍に寄って来ないと信じるようになっていた。自分は恩賞を受けた聖人であるから、今後はつまらない失態など犯さないであろう、という何の確証もない思考に支配されてしまったことも、一つの事実であるが、他人の無様な失態を目にした人間は、往々にして、それを特殊な悪事と決めつけ、自分の未来には無縁なものであると感じ、そのような愚にもつかない過ちに付きまとわれることはないだろう、と考えてしまいがちなものである。もっと言えば、『他人の失態から教訓を得た者は、やがて、成功者や賢人となる資格を得るものだ。そして、決して失脚はない』と……。他人の失敗を体験した際に、自分の成功を紡いでいくために、どのような夢想に満ちた、新しい格言を作り上げてしまうのも、当人の自由である。嫌な言い方をすると『思わず、調子に乗ってしまう』という意味であるが。しかし、残念ながら、現実的な可能性の問題で語るならば、大きな不祥事が起こった現場においては、システム自体に根本的な改善が施されない限り、何度でも、深刻な事態が起こり得るものである。

「バカバカしい。こんな見通しのいい交差点で、わざわざ悪事を働く奴なんているわけがない。こんな場所には監視カメラなど備えていないだろうと、良い方に考えていたとしても、都心である限り、他人の目は無数に在るわけだ。交番の密度も高い。こんな目立つ通りを高速で突っ切っていけば、自分の方から、捕まえてくださいと言わんばかりではないか。無数の通行人に囲まれて、自分だけが悪人になる。ましてや、世界で一番治安のよい国で……。しかも、あと十五分も経てば、この監視室にも、苦痛労働の全てを拒絶する解放の光が射しこみ、緊縛業務の呪いは自然と解けていく……。例え、その最悪のタイミングで、酔っぱらいで賑わう交差点で乱闘騒ぎが起きようとも、自分が現場近くの交番に通報したり、ここから駆けつけたりする必要は完全になくなる。まともな判断すら出来ない、無能な上司たちにその詳細を報告する義務など、なおさらなくなる……。つまり、後は野となれ山となれ、だな……」

 仕事の終わり間近の時間帯は、ストレスを紛らわすために、いつもこんな楽観的なことを考えているが、今夜も同じようなことを思った瞬間、四谷方面へと抜けていくB-5交差点を、派手な迷彩をした改造車が、ものすごい速度で突っ切っていった。信号は明らかに青だったが、カメラに微かに写っていた運転手の身なりからして、暴走族の一味であったのかもしれない。『多少面倒くさくても、映像を今一度解析して、ナンバーや車種をチェックした方が良いのかもしれない』そういう思いが瞬時に働いた。今の時刻が、もし、監視員としての気持ちが、しっかりと入っている、午前十時頃であったなら、ナンバーを細かくメモして、他の部署に通達するくらいはしただろう。ただ、残業の恐れまで抱きながら、わざわざ映像を巻き戻して、高速で駆け抜ける違反車のナンバーをじっくりと凝視する作業を今から行うことには、言い知れぬ煩わしさを感じた。業務への根本的な嫌悪感と表現しても良いくらいだ。今となっては、むしろ、カメラの前でも、堂々と悪事を働く勇気を持った、違反者の方に親近感を感じてしまう……。自分だって最新式のフェラーリを駆っていたとしたら、都心の煌びやかな道路を200キロ以上の速度で走り抜けて、庶民にその真っ赤なボディを見せびらかしてやりたい。

 結局、午後のほとんどの時間は、仕事らしきことをすることは、ほとんどなかった。この広大な国土の上から、たった一匹のウジ虫をピンセットでつまんで取り払ったからといって、この国土のあちこちに雲霞の如くはびこる悪党どもを、一網打尽にできるわけではない。性悪な人間の大多数が、この都心に集まっているわけでもない。北海道にも北九州にも、おそらく沖縄にも、大量の悪質違反者がいるのだ。今や、『自分の機嫌のためなら、他人に不快感を与えても一向に構わない』という思考においては、交通ルール違反を繰り返す人間の免許証の点数を、少しずつ削っていくという程度では、不心得者たちへの警告になどは到底ならないのだ。『交通事故は年々減少している』などという科学的根拠の薄いデータが毎年発表されているが、現状を眺めている限り、それが現実的なデータとは思えない。本当に目に見える形で事故数を減らしたいのであれば、悪質な違反者から免許証を取り上げていったとしても、おそらくは無駄なのだろう。本当に交通事故ゼロを実現したいのであれば、全人類的な人間改造が必要だ。

 隣の第二監視室からは、また、渋谷地区担当員たちの与太話が響いてくる。日々同じ場所でその愚にもつかない話を聴かされていて、確認していることなのだが、彼らの集中力は、たかが二十分さえも持たないのだ。同期で一番酒が強いのは誰だとか、今年の新卒採用で配属された女子警官たちは、皆プロポーションが良く、なかなかの粒ぞろいだとか……。そんな話ですら、時間を潰せなくなってきたら、自然と今期のプロ野球の順位予想の話題に移行する。あの連中の口から、真面目な業務の話など、一度も聴いたことはない。仮に連中の口から、突如として、刑法改正に関する、難解な議論が聴こえてきたならば、それこそ、こちらの心臓の働きが狂ってしまわぬように、今から気を付けなくてはならぬほどだ。しかし、他の部署の人員も、必ずしも勤務態度が良いわけではない。警察という権力をかさに着て、どいつもこいつも、庶民の生態を嘲笑っているわけだ。この忌まわしい疫病が、いったい、どこから始まったのかは、すでに知る由もないが、まるで、治りの悪いインフルエンザのように、ウイルスの発生地も判明しないうちに、それが次々と他部署へと伝染していく。人事異動などなくとも、おバカのウイルスは警察署内を高速で巡回していく。幹部たちも部下の不祥事には、はっきりと気がついていながら、それに目を背けて、悪しき流れを止めようとはしない。つまり、『安全』だとか『正義』だとか、どれだけ立派な建前を掲げたとしても、所詮はその程度の組織である。せっかく設けられている、組織内部における、二重三重の監視機構は、まったく生かされてはいない。『外部の機関に知られていない不祥事とは、不祥事にはあたらない』という認識を持つ側面においては、民間の大企業の上層部の思考とほぼ一緒である。不景気になると、必要のない人材から順序良く切られていくとは、よく言われる提言であるが、実際には、勤務時間の大部分において、手を抜いて働いていても、そこそこの年収が得られる閑職に、多くの無能な人間があてがわれているのも事実なのである。与えられた仕事に対して、いっさいのやる気を見せず、どんなに手を抜いている人間も、悪事を考えている人間も、お上がそのクビに手をかけない限りは、立派に食い扶持は存在するのである。まあ、幹部に言わせれば、ゴミ捨て場への捨てどきを、今か今かと探しているだけなのかもしれないが。この時点において、そこまで思いが至った須賀日巡査が、警察組織そのものに対して、ようやく愛想を尽かしたのも当然である。

『自分はダメ人間になるために、この組織に就職したわけじゃない。この社会のどこにいても通用するような、有能な人材になるために、もっと成長していきたい。こんな愚かな連中と一緒に無意味な作業を続けていくことが、心底バカバカしくなってきた。よし、明日にでも、課長の机の上に辞表を叩きつけてやる。あいつがそれを読んで、どんな顔をして見せるのか、それとも、まだ笑っていられるのか、今から楽しみだ。監視員の業務を担当しているスタッフ全員が、こんな違法な映像を撮って、それを始終見張るなんてことはやりたくない、と辞表を叩きつけることになれば、法律に抵触するような監視カメラを、狭い敷地内に何十台も設置して、隙だらけの一般庶民の行動を見張るなどというあくどい監視活動が、結局は誰の利益にもならないことが、いい加減わかるはずだ。それでも反省を見せずに、まだこんなことを続けたいのであれば、自分がいなくなる代わりに、この地の底にある精神病室には、新たなる従順な囚人を連れて来て、組み入れるのだろうが、組織ぐるみのこんな陰険な悪どさは、どうせ、あと数年で写真週刊誌によって大々的にバラされるに決まっている。上級官吏たちも、正義と卑怯の間の、綱渡りのようなこの仕組みが、世間一般に露見してしまったときの言い訳や身の振り方を、今からじっくりと考えておけばいい。そうだ、自分がマスコミ関係の企業に転職できるのであれば、このシステムをそのまま密告して、最初の手柄にしてしまうという手も……』

 そんなとき、不意に携帯電話が鳴った。上司からは勤務用に使用する携帯電話以外の電源は、休憩時間以外の時間帯は、必ず切っておくようにと指示を受けている。そんな規則に違反することが怖くて、嫌々ながらにそれを守ってきたのは最初の一年だけだったのである。もし、青木先輩がすぐ隣にいて指摘を受けたなら、『申し訳ない。スイッチを切るのを忘れていました』と、きちんと謝罪をして、即座に電源を切るところだ。しかし、今や組織全体に背を向ける決意をした若い巡査は、並べられた多くのモニターの前で、堂々とその相手方の呼び出しに応じた。もし、隣の部屋に待機している、渋谷地区の同僚たちに話し声が聴こえてしまえば、規則違反がばれてしまうかもしれないのに……。その電話をかけてきたのは、今日は休暇を取っている、一年年下の同僚からであった。簡単な挨拶を済ませた後で、先週の麻雀での負けをなるべく早く返して欲しいとせっつかれることになった。勤務時間中に、突然かかってきた電話の内容としては、正直、拍子抜けであった。

「あれ、もちろん、覚えてるよ。えっと、それで、いくらだったっけ? たった二千円? それだけのために、今電話してきたの? なんで、そんなに急いでんのよ……。なるほど、時間を持て余してるから、話し相手が欲しかったってか……、君もよほど無趣味なんだなあ……。お互い独り身だもんな……。ああ、わかってるよ、今度顔を合わせたら、負け分は絶対返すから。じゃあ、次の休みにでも、またやろうや。なあ、せっかく賭けるなら、もっと、レート上げようぜ。今度は返り討ちにしてやるよ」

 麻雀をやるのはいつでも構わないが、人数がうまく揃うかどうかは、わからないという返事だった。さらに理由を聞いてみると、一週間ほど前に、同期三人で掛け金が100万円を超える(もちろん違法の)マンション麻雀に足繫く通っていたことが、逮捕された同業者の密告によって、同署の上司にまでばれてしまい、逃げそこなった自分以外の二人は、給料五か月減額の上に、始末書まで書かされる羽目になったのだという。そのこともあって、自分としても、例え、直接の被害はなかったにしても、しばらくは麻雀目的で集まるのは遠慮したい、とのことであった。いつもより、声に覇気がないのは、そのせいであるらしい。

「あはは、どこも同じような不祥事で、立ちいかなくなってるのな。今どき、賭けマージャンぐらいで部下を処分するなんて、ちゃんちゃらおかしいよな。だって、警察幹部たちは、おそらく、休みがあるごとに高級料亭に仲良く集まってさ、もっと高額の賭け金レートでだみ声で笑いながら打ってるはずなのにな。違法が露見したときに処分するのは、まず、下からってわけか。まあいいや、俺の負け分については、顔を合わせたときにでも、いつでも払えるから、また、近いうちに遊ぼうぜ。美味しい面子が揃ったら、すぐに電話くれよ」

 電話を切っても、顔の温度がまだ熱い気がした。ひとりの社会人として、警察署に配属されてからというもの、後ろめたさからか、賭け事に誘われたときは、断れないのであれば、先輩方や他の馬鹿正直な同僚には極力バレないように、寮の端の方の部屋に集まって、こそこそとやっていた。もしかすると、まだ底を知らぬ、警察組織全体への畏敬の念もあったのかもしれない。ただ、もう今の自分は、何の忠誠心も持たない宙ぶらりんの手長サルである。来月もこの職業で監視ロボットとして任務に就いている保証はまったくない。普段より、ずいぶんとやけくそ気味の自分がそこにいた。なぜ、怒っているのだろうか。それはもちろん、規則に則って、正義に従ってきたにも関わらず、『同僚に背を向けた背信者』として、恥をかかされ、頭を下げさせられたことである。自分の仕事への一途な情熱が、結局は組織の隅へと、のけ者にされる要因になってしまったことだ。『それは、どんな職に就いていたとしても、起こり得ることではないのか?』との声も聴こえてきそうだが、この屈辱感から這い上がるには、結局、一度全てをリセットする以外にない。つまり、この職場を去ることしか思い浮かばなかった。さあ、魑魅魍魎ひしめく、この墓場の中において、無理やり働かされるのも、もう、それほど長くはない。つまらない上下関係や内部規則に惑わされる必要もない。同僚に因縁を付けられたら、今度からはその胸を掴んで弾き飛ばしてやる。上司にこれ以上怒鳴られるようなら、『わかりました。それでは、今日限りで辞めさせていただきます』と冷静に言い返せばよい。残り少ない期間は、公園のベンチに腰を掛け、転職情報誌でも読みながら、伸び伸びと過ごそう。

 まだ、5時までは7分ほどもある。勤務をここで放棄して外套を着るにはまだ早い。外の自販機へと向かった青木先輩は帰ってくる気配もない。タバコを一箱買って来るにしては、少しばかり時間がかかっているような気もする。リラックスのために、外の空気を吸いながら散歩しているのかもしれない。しかし、それほど気にはならなかった。自分がアフターファイブをいかに過ごすか、ということに再び意識は戻ってくる。では、あとたった数分、どのように時間を潰すと良いのだろうか。都心での勤務というのは、外国客や国内の遠地からの訪問客が多いということだけで、事件の発生率を飛躍的に跳ね上げているので、田舎の交番と比較すれば、自然と勤務はせわしなくなる。つまり、みんな勝手を知らないのだ。トラブルが起きたら、警察の方で、都会の常識とやらを説明してやらなければならないこともある。その点については、勤務地として褒められたものではないが、仕事終わりに、気楽に女性と遊べる歓楽街がほど近いというのは、実に良いことだ。私服に着替えてしまえば、もう、『都会の嫌われ者』である警察官だと、ばれることもない。風俗嬢を厳しく取り締まる立場からも解放される。今度は自分が客になって癒される番だ。彼の心は警察官からも監視業務からも、すでに離れてしまっていた。難しいことをいっさい考えず、革財布のポケットから、先月店を訪れた際に、帰り際に渡されたばかりの、歌舞伎町にある人気キャバクラ店のチラシを取り出して、その店への電話を始める。3回もコールさせずに、スタッフは受話器をとる。声を潜めて、話し始める。

「もしもし、ピーチクラブAですか? 私です、須賀日です。どうも……、ずっと気にはなっていたのですが、最近はご無沙汰しちゃって……。来店は春先以来でして……、何度か顔を出そうとは思っていたのですが……、すっかり、ご無沙汰してます……。それで……、今日はRyouちゃんは来店してますかね? あ、来てますか。そりゃ、よかった……。でしたら、ぜひ、今夜の予約を取りたいんですけど……。はい、はい、そうです。午後八時半くらいからで……。二時間のコースで……。はい、それで結構です。その時間前には、必ず参りますので……」

 通話が切れると思いもかけず笑みがこぼれた。満足のいく時間帯に予約を入れることに成功したからである。今夜は混んでいるから、お嬢は相手が出来ないと、断りを入れられたときの落ち込みは大きい。一番お気に入りのレディとは、個室を予約して、一対一で会うに限る。自分が庶民を取り締まる、特別な職にあるということは、店側には当然伏せてあるが、フロアレディと会う時には、自尊心の向上に繋がっている気がする。彼女だって、いつもいつも、ダメサラリーマンとばかり応対させられて、愛想を振りまいているのは精神的にキツイはずだ。決して、楽しくはないだろう。その猫のような愛嬌のある仕草で笑っていても、心中においては、完全に嫌気がさしていることくらいは、客自身にもわかるはずだ。余程のバカでなければ、本人の魅力がまったく足りていないことくらい……。自分だって、もし、工場勤務で月収20万円程度の安男だったら、新宿の風俗街を代表するようなレディと向き合う勇気は持てない。そういう意味では、公務員という職業に属していることは、非常に良かったと思っている。ただ、正直に自分は警察官だと名乗ってしまうと、おそらく、その時点でかなり引かれてしまうに決まってる。少なくとも、二人の関係にとって、良い方向には向かない。誰しも心中には他人に見せられぬ、後ろ暗いことがあるからだ。警察の目にはそれが映ってしまうと恐れるかもしれない。あるいは、金銭やキャバ嬢の身体目当てに、ゆすりを続けて来た、汚い奴なんだと思われるかもしれない。そうだ……、アルコールの勢いに乗せられて、思わず、自分の職について、口を滑らさないようにしなくては……。先月会った時の彼女の印象は決して悪くなかった。自分と久しぶりに会えたことを、心底喜んでいるように見えた。他のつまらない奴らに、あんな屈託のない笑顔を見せやしないだろう……。もう少しで、あの姫さまを落とせるところまで来ているのかもしれないのに……。近いうちに警察なんて辞めて、転職活動をするのなら、今度この街に来たときには、彼女に名刺を見せて、堂々と伝えられるような職業に就きたいものだ。そうだ、贈り物に見栄えのするアクセサリーでも買ってから、店に向かわなくては……。幸い総合デパートもすぐ近くにある。少しでも値の張るものをプレゼントして、二人の距離を今夜だけで、ぐっと近づけたいものだ。

 若くて愚かな巡査は、こういった実にくだらない妄想に長時間にわたって浸っていたことにより、まだ、自分が勤務中であることと、モニターの中の世界げんじつが、今現在、どのような状況にあるのか、ということを完全に忘れ去ってしまっていた。現実の一瞬一瞬というものは、それがどんなに特別で、どんなに奇怪なものであっても、それを人間如きが気分や感情で操作することなど、どんな手段においても、出来はしないのだ。ただ、太古の昔より、山頂から下ってくる冷たい谷川を流るる冷水のように、一切の乱れもなく、全てのものに影響を与えつつ、淡々と流れ過ぎていくだけである。この数分間の失態において、人生の大半をふいにすることになった、この若い男の後悔など、決して意に介さずに……。

「ちょっと、…レビ! 早く、付……みろ!」

「おい、……が、…………だってよ!」

「わからん、そんな……、……こと、ほんと?」

「誰か! 誰か! …………する前に、出動命令出さないと……」

「……だ! とにかく、……係長を……、呼んで来い……」

 誰かが必死で叫ぶ声が、ここまで途切れ途切れに響いて来ている……。『大丈夫、自分には関係ないことだ……。きっと、また、中華料理屋の小僧でも来て、隣室のサルどもが盛り上がっているんだろう……』もう一度、今度はほど近い廊下を走り回りながら、別の誰かが多くの人員に対して、出来したばかりの重大事を伝えようと叫んでいる。ここは警察署の内部である。この国の中で、もっとも、安全と規則が行き届いている空間のはずである。であるならば、署員の心は常に安定していて然るべし。叫び声を必要とするような、想定外のことなど、絶対に起こらないはずだ。しかし、廊下で響き渡っているのは、現実に起こっていることとは、とても思えないような、非日常的な叫び声にも聴こえるのである……。まるで、超のつくほどの緊急事でも発生したかのような……。それは、今始まったわけではなく、何度も何度も、この部屋の内部と外部との境界をすっかり貫通して、おそらく、かなり以前から、彼の耳にまで、しっかりと届いていたはずなのだ。だが、須賀日巡査の脳内神経が現実逃避を伴い、違った方面へと連想を重ね、執拗な妄想に捉われているあまり、その重大情報が耳の外壁まででとどまり、脳の奥までは、まったく届いていなかったのだ。すぐ隣の部屋でも、同僚の一人が、およそ現実離れした危機を叫んでいて、寒気を生み出す気配を感じてきた。他人から他人へと渡っていく不安と、至急の対応を求める声。このような緊急時における、上司からの的確な指示を求める声。目を覆うばかりの異常事態の出来を、あらゆる部署に伝えようと懸命に走り回る靴音。現在起きている最悪の事態を、この若造が完全に理解出来るようになるまで、幾度となく騒ぎ立てる声。しかしながら、彼には無縁とも思える遠い声。もう何が起きたとしても、自分は警察官としての判断をしたくないという思いが、自分もとうに知らなければならなかったはずの情報を、出来るだけ遠ざけようとしてしまったのか。

 そういった喧騒を肌で感じても、監視員としての、いや、それ以前に社会人としての責任感はいまだに戻ってこなかった。お気に入りの風俗店の人気嬢に予約を入れることに成功したことへの意識が先走り、自分が今、どういった立場にいるのか、がまったく認識できなかった。『誰かが騒いでいるようだが、自分には関係のない問題だよな?』若い巡査の中で、誰かがそう呟いた。外から聴こえてくる緊急を告げる騒ぎ声は、やがて、職場全体が揺らぐような、危うさと極度の不安を伴ったまま、もっともっと大きくなっていく。この扉の外、二階のフロアでは、極度の混乱と焦燥感を引き起こすような、大人数によるどよめきが、手の付けられない津波のように引き続き起こっている。その次には「信じられん、意識不明の重体だってよ! これって、本当に今起こっていることなのか……?」「鑑識と捜査班は早く出動しろ!」という幾つかの怒鳴り声が重なって聞こえてきた。どうやら、テレビの緊急ニュースを見て、その内容に驚いているらしい……。職場の全員が、つい先ほど、この界隈で起きたらしい、何らかの異変に動揺しているのだ……。自分がまるで知らないところで、日本中を揺るがすような大事件が起きたらしい……。しかし、あらゆる監視カメラに見張られている、この界隈において、いったい何が起きたというのか……? 

 そこまで想いが届いても、なお、この巡査の脳内では、いまだに我関せずの思考が全ての前に優先されてしまい、思考が本題に移れなかった。『大事件がこの界隈で起きたというのなら、その監視責任は、おまえにあるのだろうが!』墓場の骸骨たちが、いよいよ、そう訴えかけてきた。『そろそろ、帰宅してもよい時間なのかな?』しかし、皆が騒ぎまくっているのに、このまま、引き揚げてしまって良いのだろうか? 一度、この部屋の外へ出てみて、他の署員の話を聴いてみて、自分とは無関係の事件であることを確認してみた方がいい……。ほら、これからのお楽しみの前に、気持ちを落ち着けるために……。だが、そう決断しても集中力は戻らない。終業間際の浮ついた気持ちが、すっかり肉体の全てに染み付いてしまっている。彼は今何をするべきなのだろうか。とにかく、震える足を少しずつ動かして、壁にすり寄っていく。そして、外の声に耳を傾けてみる。

『すると、どうあれ、新宿班の監視員の連中が、事件現場をモニターで確認しているはずだろ? なぜ、報告が上がって来なかったんだ?』

 上司たちのそんな声がはっきりと聴こえてきた。その尖った台詞が、もうすぐ、自分の眼前に突きつけられる刃になるとは、とても思えない。『もしかして、自分は何かとてつもない過ちをしでかしたのか?』新人警官が脅えながら、たった一人で立ち竦んでいる、暗くて狭い室内。いつまでも、戻ってこない青木先輩。『モニターから目を離すな』何度も聴かされたはずの戒め。事実の破片を綿密に並べていけば、目の前に並べられた真実を映すモニターを、自分の目で確認することが出来るはず。幾つかのモニターには、マスコミのカメラよりも鮮明に残酷な事実が映し出されている。すぐに、恐ろしい現実に気づくはずのに、それすら出来ない。何という、愚か者!

『速報です。午後四時五十分頃、新宿三丁目の交差点付近で、新宿署の三十代の警察官が刃物を持った男に背後から刺され、病院に運ばれました。出血多量のため、意識不明の重体ということです。男は警官から拳銃を奪い、事件に使用した凶器を持ったまま逃走中という……、繰り返します……』

「おい、おまえの担当地区だぞ! ちゃんと見ていたのか?」

 やっと、公共放送が繰り返し流しているニュースの内容が、彼の頭脳でも理解できるようになってきた。新宿三丁目の交差点で、歩道を歩いていた、青木先輩が見知らぬ男に背後から刺されて、拳銃を奪われたという内容の事件であった。ようやくそれを理解した頭の中は、一瞬にして真っ白くなり、しばらくの放心状態が続く……。何度もそう説明されて、ようやくわかったことだが、被害に遭ったのは間違いなく先輩だった。出血がひどく、意識が戻らないまま病院に搬送されたということであった。

『自分が起こした不祥事だ。自分が起こした、大事件だ』

 蟻の歩みのようではあるが、頭の中で少しずつ現状認識が出来てきたため、ようやく、その悲惨な事実にまで、考えが届いてきた。だからといって、もはや、この場を巧妙に切り抜ける言い訳や手段など存在しない。輝かしい将来のことや、成功や転職のことなどをずる賢く考えていた、先ほどまでの自分が、ずいぶんと幼稚な存在に思えてきた。いや、気を抜いてしまえば、起こり得るはずと、薄々ではあるが理解していたはずの失態を、みすみす犯してしまうなんて、なんて愚かだったのだろう。謝るか言い訳をしてごまかすか、それとも、ここから走って逃げるか、早く決めなくては……。ただ、その全ての選択肢は、今となっては、もう過酷な現実によって押しつぶされ、遮断されているのだ……。

 ついに、監視室のドアが開かれ、鬼の上司たちが主犯の顔を拝むべく、次々と入り込んできた。説明も言い訳も、脅え切った新人の口から、今さら出てくるはずはなかった。ただ、モニターを監視するという業務を忘れて、少しの間気を抜いて、サボっていただけなのだ。だが、そんなことを臆面もなく言えるはずもなかった。身体は余りの恐怖で強張っていた。突如として起こった、一大事件の詳細の全てを見逃してしまっていた。新米警官は後悔の意識さえも、まだ半ばで、ただうつむき、立ち尽くすしかなかった。現実として起きてしまった最悪の出来事を、自分が主犯の事件として認識することは難しかった。おそらく、警察史に残るほどの失態になるだろう。人生における最大の悪夢であっても、これほど禍々しくは感じられないはずなのだ。今や、多くの同僚が仏頂面をして、この監視室内に入り込んで来ており、モニターのチェックをする前に、まず、この愚かな新人警官を取り囲んで、ただ無機質な表情で睨みつけていた。今となっては、ここにいる誰とも、視線を合わせることすら出来ない。彼らはいったい何を言いたいのだろう。徐々にではあるが、この事件の最大の要因を理解しつつある強面の上司たちも、この場で最初に切り出す必要のあるセリフを、いまだに脳内の奥で探しているようだった。新人警官はただ屠殺場で処理される直前の羊のように、また、まな板の上の鯉のように、せめて、自分の心に絶望を呼び込むための恐怖心だけでも早く感じてみたくて、ただ、足を細かく震わせながら、じっと立ち竦んでいるしかなかった。

 顔を上げて、上司や同僚の顔を見つめることは、最大の勇気を振り絞れば、もしかすると出来るのかもしれない。ただ、この位置から後ろを振り返って、あの恐ろしいモニターたちを眺めるのだけは、あるいは、モニターたちに見つめられるのだけは……、もう、許して欲しいと願っていた。やはり、自分が映像を見ていたのではなかった……。自分の全ての行為が外界を歩く全ての存在から見られていたのだ。ありとあらゆる過怠と怠慢が……。そうでなければ、こんなおそまつで愚かしい失態を、この自分が犯すはずがない……。

 つまり、『やばい』などという安直なセリフなどでは、到底済まされない不始末とは、このような案件をいうのである。
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