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斯かる不祥事について 第四話
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『多数のモニターの映像をチェックしていくことで、(一般的な都民が起こしうる)規則違反や事故を、法律の名のもとに逐一暴き出していく。その過程において、凶悪な犯罪を未然に防ぐ確率を上げていく』という、単純で卑怯で卑猥な作業が淡々と続いていく中で、ほとんど毎日のように、いや、毎時間のように、同じことを繰り返し思考してしまう。一つは、自分がこの疑惑に染まった仕事を、今後も続けていくことのプラス点は何か。もちろん、心の隙を突かれたことによる失態さえなければ、今後数十年に渡って、安定した給料は得られる。それに加えて監視員の一人として、この部屋に引きこもっている限り、肉体的な疲労はほとんどない。自分の持ち分にある区画で、交通事故などが突発的に起きたとしても、専用回線を使用して、関係職場にすぐ通報するだけのことであり、実際に現場に向かうのは、さして同情する必要もない、他の職場の人間である。その後の対応についても、自分がすぐに動き出す必要はない。ちっぽけな道交法違反に関しては、『俺のことを誰も見ているはずはないのだ』という思い込みに頼り、意気揚々と走り去った、違反車のナンバーを的確にメモしておく。後日悪質ドライバーを本署に呼び出してやり、真っ青な顔に変わったところを容赦なくひっ捕らえて、道交法の下に次々と処罰していく。そういった冷酷無比な行為こそが正義そのものであると思い込み、そんな毎日に対して、一滴の罪悪感さえ感じないのであれば、ほとんど一日中、椅子にだらしなく寄りかかり、視線を映像のどこかに向けて、ただ座っているだけだ。もし、目が疲れてきたなら、しばらくの間ならば、視線を天井に向けて、ぼーっとしていたとしても、誰からも警告は受けない。この長く深い不景気の中で、他の職業の勤め人は、会社の業績が悪くなってきたなら、リストラを回避するために、自分の評価を少しでも高めようと、上司や同僚の視線を気にしながら、神経をすり減らす毎日を送らなくてはならない。給料が一割二割と減らされていくくらいで済めば良いが、予期せぬタイミングで職を失う羽目になり、何の温情も存在しない砂漠へと放り出される人だって、ざらにいるわけだ。
モニター監視員にとって、世間に対して誇れる、他のプラス材料を探してみるとなると、例えば、職業上の秘密を自分だけが手にできる、というのはどうだろうか? 人間の動きの全てを詳細に把握することにより、一般人のプライバシーを全て握った気になれる。ナンパによって生まれた、決して綺麗とは呼べぬ恋愛、道路の隅に落ちていた一万円札をバレないようにさらって、こっそりと財布に収めたOLさんの一コマ、旦那と映画鑑賞に出てきたのに、浮気相手とすれ違ってしまい、不自然に目を逸らす若奥さん。そういった人間味あふれる場面にこそ興味を持つ神経があるのなら、この長時間に渡る監視作業も、悪くない趣味となりうる。他には、犯罪行為を犯した人間の秘匿性の高い情報。例え、スピード違反だろうが、見知らぬ女性の尻を一回触っただけの痴漢であろうが、そのデータは全て当人の汚点として警視庁のコンピューターに残されていく。当然、有事の際の脅しにも使える。言い方としては、かなり大袈裟だが、この国の未来において、今後十数年のうちに、誰が重要人物となるかは、確実にはわからない。ぼろくずのように落ちぶれている失業者が、予想もつかぬ天命により、次の月には株でひと財産築いてしまうかもしれない。駅前の小規模なコンビニの廃棄品の弁当箱を毎日のように漁っていた、売れない画家がいたとして、彼が無心で描いた絵に、突然、信じがたい値段がつくかもしれない。そういった奇跡の繰り返しは、やがて社会そのものを変えていくだろう。保存された膨大なデータは、これまでも権力の壁の裏で、国家を牛耳る者たちのために、上手く利用されてきたはずだ。警視庁がカメラの映像から得た情報を一手に握って、その全てを脅しの道具として使用することが出来るのならば、手先となって働いている、この自分もその一翼を担っているはずだ。今はパッとしない、この自分だって、大企業の幹部や裏社会の重要人物から、あるいは、恐れられるような存在になれるのかもしれない。ここに就職してから、まだ一年と半年足らずだが、これまでも大衆のプライバシーに関わる多くの事件を見てきた。今後とも、脳裏に刻まれるであろう奇妙な事件も多い。いつか、これを情報として役立てる日が来るのかもしれない。上級官吏は、都合が悪くなれば、この監視室のデータを自在に消すことは出来るが、自分がこれまで見てきた多くの記憶を消すことは出来ないだろう。知らんフリさえ出来るのなら、裏社会と繋がっていくことも出来るだろう。自分がそのような悪意を起こしたとしても、そもそも、自分を監視員として採用しているのは、警察幹部たちであるし、万が一、脳に刻まれた記憶が警察側にとって最悪の反乱となったとしても、それを防御する手段は存在しないはずだ。
この監視室に閉じ込められている間、ここのところ毎日のように、このような決して有り難くはない思考に囚われていた。どんなに深く掘り下げても、プラスにもマイナスにもなり得ない思考……。須賀日巡査としては、この事実が持つ重要性を、もっと深く理解して善後策を講じることの出来る人間が、自分のすぐ周囲にいるとは、まったく思えなかったのである。モニターに視線を戻しても、集中力は戻らない。それどころか、様々な記憶から創られる微々たる思考は、更なる妄想を創り出していく……。
この業務のマイナス点としては、精神的な疲労、ミスを犯すことへの不安感、それが増長していく恐怖、そして、自分たちは全く表情を変えることなく、直属の部下たちにだけ、このようなくだらない作業をやらせている上司達への不信感の増大。さらに言うなら、自分が毎日、その行動の一部始終を覗き見てしまっているはずの、世間一般の人々に対する罪悪感というのもあるかも知れない。心の底のどこかでは、彼はこの仕事を恥じていて、両手で顔を隠して懺悔しているのかもしれない。自分より先に頭を狂わせてしまった同僚の誰かが、いつ何時、この汚れ切った業務の詳細を、テレビ番組や週刊誌において暴露してしまうかもしれない。その瞬間に自分もこれまでの立場を失い、加害者となる。この恐るべき事実が、マスコミを通じて世間一般に対して公になった場合、警察幹部たちは、自分に向けられたマイクの前で、いったい、どのような言い訳をするつもりなのだろう。
『今回の一件にはさすがに驚きました。自分たちの知らないところで行われていたことだと思われます。まったく、許されないことであり、遺憾であります』
仏頂面をしながら、記者会見でそんなことを言うつもりか? まだ、平静を保っていられるのか? 一夜にして、実行犯となってしまった、下っ端の警官たちとて、無事で済むとは思えない。まったく有り難くはない、カメラのフラッシュを全身に浴びることになるかもしれない。そういった身に迫りつつある破局を現実的だと思えるのなら、早いうちにこの組織を抜けて、実直な企業に乗り換えた方が良いかもしれない。自分の姿がカメラに写されているなどとはまったく知らない世間の人々に対して、少しでも背徳感を持っているのならば。これらを全て加味した上で、自分は今後どのような人生航路を歩んで行けば良いのだろうか。
自分はまだ二十代前半だが、例えば、ある日、こんな仕事に我慢がならなくなり、突如として転職活動を始めるとしたら、いったい、どのくらいの確率で成功するものなのだろうか……。末永い幸福を手に入れたければ、安定など選ばずに、若いうちに株に投資しろ、あるいは起業しろ、なんて大それたことを書いてあるビジネス書が、本屋の売れ筋の棚には、びっしりと並んでいる。事実、若いうちから、型にはまらない行動をとることで、結果としては、投資によって大きな成功を収めて、莫大な資産を手に入れた人々は多くいる。最近のテレビ番組のゲスト陣は、そんな人種に支配されているように思える。社会人になったからには、日々上役の視線に脅えながら、毎月数万ずつ、せこせこと貯蓄を増やしていくのではなく、遥かなる未来に向かって一気に駆け出して、多額の資産を得るための行動を取らなければならない、そんな時代なのだろうか? 十年先の未来など、今は朦朧としているが、本当にこの陰険な仕事を続けていて良いのだろうか? もっと、他人に誇れるような仕事に就きたと思わないか? 四十代も間近になったときに、投資で大儲けした同級生から、数億円が振り込まれた通帳を見せられ、『それで、君の職業は何だったっけ?』と尋ねられたら、自分の仕事の利点を正直に主張できるだろうか?
『毎日のように、罪もない人々の生活をくまなく監視しています』
自分はリスクだけを与えられているような気がする。このままクビにならずに、長い間勤め続けたとしても、十年先に、精神的な充実感は得られているのだろうか? 競争社会において、一番わかりやすい指標である貯金額は、いくらくらいになっているだろうか? 親族や同僚に勧められて、無理に多額のローンを組んで、都内に中古のマンションを購入していたとして、そのローンを身体がまともに動くうちに払いきるためには、もう、別の道は選べなくなっている気がする……。せっかく得た、権力と同伴できる職ではあるが、この安定をきっぱりと捨て去るのなら、それは今なのかもしれない。新卒で警察官として配属されたことなど、完全になかったことにする。ただ、仮に別の道に進んでいたとして、十年後にそれが当たって成功者になっていたとしたら、過去にこのような陰湿な仕事に就いていたことは、はっきりとした汚点として残るような気もする。企業社会において、重要な存在になればなるほど、過去の秘密は耐え難く深い傷となってしまう。自分の過去を知り尽くしている権力機構が、これを巧妙に利用してくる可能性すらある。元はといえば、自分たちが考案した監視職場のくせに……。経歴に深い傷を負う前に、今まさにこの瞬間、道を変えてしまうべきか、それとも、歯を食いしばって変えずにいくのか。どうしたものだろうか……。
新米の須賀日巡査の思考は、いったん動きを止めた。その全てが人の群れ、車の群れ、ビルの群れであり、こちらの視角が変化するごとに、まるで生物のようにせわしなく動いているのだ。再び左右の壁際に整列している多数の液晶モニターに視線を移した。その刹那、左側上部のモニターの一つで、新作アニメの公開で賑わう映画館前の広場において、知人に話しかけるフリをして、行き過ぎる若い女性のお尻を背後から触ってすり抜けていく男が目に入った。卑怯極まりない行為に対して、感情は怒りで湧き立つが、こんな奴の相手はしていられない。当然スルーだ。今から、本部で待機している署員に緊急連絡をして、あの人混みの中にまで、数人の警官を走らせてみても、その頃には、容疑者は脱兎のごとく逃げ去っているに決まっている。上手くひっ捕らえたと仮定しても、犯罪としてこれほど微妙なケースは不起訴になる可能性の方が遥かに高い。当人の脳みその内部を覗き見ることが出来ない以上、ここで録画されている映像だけでは、『女性の身体に微かに触れたように見えた』という、こちらの訴えが、痴漢行為なのかどうかを明確に判断することは難しい。法律を守る気など、元よりさらさらなく、ルール無用で生きているあんな小物連中を、一人残らずひっ捕らえていくために、警察という組織が存在するわけじゃない。ここ数か月の勤務で、実務を踏まえながら、何度もそう教わってきたじゃないか。法律を踏みにじり、社会にとって害をなす人間を捕まえるのではなくて、警察組織の名誉に貢献するような、従順なる仕事を積み上げていくこと、それが警察官に与えられた職務である。何の利害にもならない羽虫の行為は見えないふりをして捨てていき、マスコミを巧く操り、組織全体と足並みを揃えるのが、長く働くために、もっとも重要なことである。それを肝に銘じて、これから先の十年、二十年と着実に歩んでいければ、自然とそれが理解できるいくのだろう。
しかし、須賀日巡査は先ほどのモニターから、なかなか目が離せないでいた。先ほど、運悪くチンピラに下半身を触られてしまった女性は、映画館入り口付近でチケット購入のために並んでいる、大勢の来客に囲まれ、揉みくちゃにされながらも、ロビーへと歩を進めようとはせず、すでに現場から姿を消した不審な男をその目で探しながら、その場に足をとどめていたのだ。触っていった男が振り返りもせず、猛スピードで人混みをかき分けるように走り去っていったことで、自分が痴漢の被害に遭ったのだ、ということを、徐々に認識し始めたようである。自分の身が安泰であれば、他人の不幸には誰も手を差し伸べようとはしない。そんな冷徹な都会のど真ん中で、不安げな表情になり、辺りを見回して、誰か助けになる人を探している。こういう突発的な軽犯罪について詳細な知識があり、頼りになる人間が近くにいるのであれば、自分の身に起きたことについて相談したがっている。自分だけでは解決しえない不幸に直面して、困惑している都民の話を、その身に寄り添って聞いてあげるのが、警察官の本来の役目ではないだろうか? その疑問はこういう場面を見せられるたびに拭えなくなっていった。『自分の行為は、都民を守るための監視ではないのか?』もし、この問いかけが上層部によって簡単に否定されてしまうのであれば、この組織は自分が勤めたかった職場では無いような気がした。犯罪行為を防ぐのは、権力による監視ではなく、法律に基づいた適切で地道な活動であると思っていた。警察というのは、一つの商品が売れたら、いくらの儲けが出るといったような、単純な数式によって答えが出せる仕事ではないのだ。
高木先輩は相も変わらず右前方の木製の丸椅子に座っていたが、勤務には使われない身体の部位を微動だにさせずに幾多のモニターを監視し続けている。数分に一度ほどの割合で、手元のリモコンを慣れた手つきで操作することで、気になったモニターを一時停止させ、そこから得た何らかの情報を、テーブルの上に置かれた用紙に速やかに書きつけていった。彼が動かしているのは、ほとんど視線と右腕だけである。そのカチカチっというペン先の音だけが、時計の針の音をわずかに掻き消して、室内に響いている。それはまるでプログラミングされたように意思のない動き。新米としては、実に手際が良い仕事だ、と思わず感心してしまう。良いお手本ではあるが、須賀日巡査はまだまだ仕事中の雑念が多く、当分、ああはなれないだろう。本当は今だって先輩の実直な働きぶりに目を取られている暇など無いのだが。近い将来、速度違反の車を自動的に感知して、本部のHDに録画していくシステムや、街頭カメラの音声認識機能がさらに進んで、警察機関が利己的に定めたキーワードを、うっかり口にしてしまった人物の顔と声を自動的にHDに録画しておくシステムが生まれたとしたら、自分のような陳腐な存在は、この組織には完全にいらなくなるのかもしれない。事件の前後に関わらず、目撃情報の少ない、難解な事件を捜査することに多くの人員が必要なのであって、監視カメラから得た情報によって、証拠が自動的に揃えられたり、容疑者がすぐに絞られ、その家まで身柄の確保をしに行くだけなら、元々、それほどの人数は要らないのだ。おそらく、警察行政は現在の三分の一ほどの人員によって、犯罪の発生率を大幅に減らすことが出来る時代が来るのだろう。だが、それは本当に社会全体の進歩と言えるのだろうか? という複雑な思いが彼の中にはあった。ほんの少数の悪を無数の監視の目によって感知するために、大多数の一般市民の行動にまで、大きな制限を加えているだけのような気がした。
須賀日巡査は自分の悩める思いを、すぐ隣の椅子に腰かけている先輩の背中に伝えたかった。おそらく、自分が期待しているような返事は返ってこないだろう。『おまえも、あと三年も真面目に勤めれば、この組織のことがわかってくるよ』無愛想な表情で、視線も向けてもらえず、そう伝えられるに決まっている。高木巡査は昼食休憩以降は、短い休憩すら取らずに、それどころか、ほとんど微動だにせずに、まるで、機械ロボットのようにモニターの監視を続けている。須賀日巡査が知人から聞いたところでは、この青木先輩にも若い頃には権力構造と自分の理想との狭間で、深く悩める日があったのだという。長い実直な勤務の結果、個々の力では手の付けられないほど恐ろしい権力機構に対する、家畜のような従順と、自分の感情のすべてに優先させるような狡猾な思想を身に付けたのだ。そして、誰かを助けたいとか、こいつは許せないとか、一時の短絡的な感情には簡単に左右されない、現在のような勤務姿勢を得たのだろう。まだ若き巡査は自分も出来るならそうなりたいのだが、短期間における簡単な思考訓練くらいでは、到底なれない気もした。また、長期間にわたる徹底的な思想操作によって、組織の命令には絶対に逆らわない完璧な警察官になれたとして、そのような洗脳ともいえる教育を自分の脳神経に及ぼすことは、本当に望ましいことだろうか? 初めは漠としていた疑念は、決して停止させることは出来ず、思考空間の内部を絶え間なく連鎖的に伸びていって、ほんのひと月半前に我が身で体験したばかりの、次のような生々しい記憶を呼び起こすことになった。
『自分はとくと見せられたではないか。この組織の裏側にひそむ、真の腐敗を……』
今から一か月ほど前、その日は夕方出の夜番勤務であった。勤務についてからの数時間は特に何ごとも起こらず平和だった。ところが、午後九時をまわった頃、新宿三丁目の界隈で酔客同士の小さなトラブルが発生した。受けた連絡をそのまま他部署に回すことも出来たのだが、何度も鳴り続ける呼び出し音が煩わしく、捨て置けないため、現地にある三人詰めの交番に出動命令が出した。しかし、人手が足りないため対応できずとの返事があったため、新宿署のベテランの職員が一人現場に派遣されることになった。そのおかげで、須賀日巡査が割を食う形で、たった一人でこの監視室での勤務にあたることになった。ただ、彼にとっても、すでに配属から一年を超え、慣れてきた業務内容であるし、夜間は人通りも車通りもめっきり減っており、警察の手を必要とするような、危険な事故が起こる可能性は、ほぼ繁華街の一画だけに絞れるので、それほどの危機感は感じていなかった。
その不気味な事態は、午後十一時頃に起きた。歌舞伎町の交差点付近に設置されているカメラの内の一つが、キャバクラやホストクラブが立ち並ぶ、酔客で湧き立つ一角を明瞭に映し出していた。終電も近づき、他のモニターに映し出される勤め人の姿は、次第にまばらになってきたので、須賀日巡査はこの一番賑やかな風俗街を注視するモニターに神経を集中していた。それほど広くはない画角には、黒いスーツを着込んだ、二十人以上の客引き、ホスト、ナンパ狙い、すでに前後不覚により、帰宅をあきらめた酔客などが、何か大声で騒ぎながらもみ合い、群れており、スリや口喧嘩程度のことは、もう、すぐにでも起こりそうな気配はあった。もちろん、この時間帯においては、歌舞伎町の通りでは、日々このような光景が繰り広げられており、経験の上でいえば、こちら側が必要以上に警戒を強めるだけで、結局のところは、何も起こらない日の方が多いのだ。
しかし、万が一に備えて、集中は切らせない。少なくとも、風俗街で働く人種や、そこを練り歩く人々は、キャバクラという存在の意味すら知らないような、一般の真面目な勤め人の何倍もの危険性を備えているのである。しばらく、そのモニターを注視しているうちに、彼はカメラから対極の(つまり遠目の)道路わきにおいて、電信柱を盾にするような形で、身体を半分ほどそれに隠しながら、陰で密談をこらしている数人の男性グループに目を留めた。その場所は、歌舞伎町でも、もっとも流行っているホストクラブの前を走る、広い通りにある高層ビル群の影だった。柱に完全に身体が隠れていないために、このモニターにより、一番見やすい位置にいる黒いスーツの男性は、体格の良い金髪の長髪の外見であり、推測にはなるが、ホストクラブの客引きの一人ではないかと思えた。もちろん、彼らはひしめき合っているだけで、言い争っている様子はないし、繁華街では誰が誰と群れようが、それが顔見知りであれ、完全な他人であれ、基本的には自由である。他人とどれだけ卑猥な言葉を言い合っても、決して法律違反ではない。しかし、その話し相手が、人気ホスト目当ての派手に着飾った若い女性客ならよくわかるのだが、一見サラリーマン風の複数の男性グループであることには、少し奇妙な印象を受けた。しかも、金髪のホストに向けて、薄ら笑いを浮かべながら、時折腕を組んで話している三人の男性は、その対談の場として、わざわざ監視カメラから一番遠目にある暗がりを選び、しかも、上半身は電信柱の陰に潜めて、その位置から、なかなか出て来ようとはしない。もちろん、その行動については、一つの憶測が生まれることになる。
『少なくとも、あの中の数名は、この監視カメラの存在を知っているのではないか?』
須賀日巡査の思考は、やがてそこまで辿り着き、暗がりに身を潜めて話している三人の様子を角度を気にしながら、何度も録画していくことにした。真顔や笑顔を織り交ぜた、その密談は約二十分ほどに及んだが、録画と映像の巻き戻しを繰り返しているうちに、客引きと思われるホストと三名の男性客は、ごく自然な振る舞いにより、その有名ホストクラブの入り口へと歩み寄っていった。無理やり勧められ、自腹で購入した高級な酒に酔わされた大勢の女性客で盛り上がる、入り口の喧騒を横切る際、派手な看板のネオンライトに照らされて、怪しげな数名の客のうち、二人の顔がモニター上に明るく映し出された。それが確認できたのは、瞬き二回ほどもできぬような一瞬であった。三名は案内されるままに、クラブの奥へと消えていった。羽振りの良い、若い女性目当てのホストクラブに、スーツ姿のサラリーマンが堂々と訪れるだけで、十分黄色信号ではあるが、須賀日巡査の気持ちを激しく高ぶらせたのは、訪れた三名の男性を、自分の記憶の内で、明らかに見知っていたからである。
元々、彼らが暗がりに潜んでいた頃から、背丈や顔の輪郭や細かい仕草などを観察しているうちに、薄々感づいてはいたのだが、先ほど、ネオンに照らされた横顔をはっきりと見せられたとき、これはゆゆしき一大事と察した。私服こそ着てはいたが、あの三人は須賀日巡査と同じ、この新宿署内の警察官であった。各々がどの職場の人間かについての記憶は定かではなかったが、少なくとも、そのうちの二名は地域相談課の職員であったはずだ。何度か書類の受け渡しに訪れたことがあって、簡単な会話も交わしたことがある。もし、刑事課の署員であれば、今夜のこの一件も、何らかの疑わしい事案において、ホストクラブの立ち入り検査に向けた、私服捜査に訪れた可能性もあったろうが、彼らは内勤業務であるし、それ以上に、自らの姿を監視カメラから隠しての密談というのは、どうも解せなかった。彼の思考の中で、疑惑は黄色から赤へと変わっていこうとしていた。その夜はすでに時刻も遅く、報告すべき上司も、すでに帰宅の途に就いており、不在であったことから、現地の映像をなるべく多く録画して、保存しておくだけに留めた。
モニター監視員にとって、世間に対して誇れる、他のプラス材料を探してみるとなると、例えば、職業上の秘密を自分だけが手にできる、というのはどうだろうか? 人間の動きの全てを詳細に把握することにより、一般人のプライバシーを全て握った気になれる。ナンパによって生まれた、決して綺麗とは呼べぬ恋愛、道路の隅に落ちていた一万円札をバレないようにさらって、こっそりと財布に収めたOLさんの一コマ、旦那と映画鑑賞に出てきたのに、浮気相手とすれ違ってしまい、不自然に目を逸らす若奥さん。そういった人間味あふれる場面にこそ興味を持つ神経があるのなら、この長時間に渡る監視作業も、悪くない趣味となりうる。他には、犯罪行為を犯した人間の秘匿性の高い情報。例え、スピード違反だろうが、見知らぬ女性の尻を一回触っただけの痴漢であろうが、そのデータは全て当人の汚点として警視庁のコンピューターに残されていく。当然、有事の際の脅しにも使える。言い方としては、かなり大袈裟だが、この国の未来において、今後十数年のうちに、誰が重要人物となるかは、確実にはわからない。ぼろくずのように落ちぶれている失業者が、予想もつかぬ天命により、次の月には株でひと財産築いてしまうかもしれない。駅前の小規模なコンビニの廃棄品の弁当箱を毎日のように漁っていた、売れない画家がいたとして、彼が無心で描いた絵に、突然、信じがたい値段がつくかもしれない。そういった奇跡の繰り返しは、やがて社会そのものを変えていくだろう。保存された膨大なデータは、これまでも権力の壁の裏で、国家を牛耳る者たちのために、上手く利用されてきたはずだ。警視庁がカメラの映像から得た情報を一手に握って、その全てを脅しの道具として使用することが出来るのならば、手先となって働いている、この自分もその一翼を担っているはずだ。今はパッとしない、この自分だって、大企業の幹部や裏社会の重要人物から、あるいは、恐れられるような存在になれるのかもしれない。ここに就職してから、まだ一年と半年足らずだが、これまでも大衆のプライバシーに関わる多くの事件を見てきた。今後とも、脳裏に刻まれるであろう奇妙な事件も多い。いつか、これを情報として役立てる日が来るのかもしれない。上級官吏は、都合が悪くなれば、この監視室のデータを自在に消すことは出来るが、自分がこれまで見てきた多くの記憶を消すことは出来ないだろう。知らんフリさえ出来るのなら、裏社会と繋がっていくことも出来るだろう。自分がそのような悪意を起こしたとしても、そもそも、自分を監視員として採用しているのは、警察幹部たちであるし、万が一、脳に刻まれた記憶が警察側にとって最悪の反乱となったとしても、それを防御する手段は存在しないはずだ。
この監視室に閉じ込められている間、ここのところ毎日のように、このような決して有り難くはない思考に囚われていた。どんなに深く掘り下げても、プラスにもマイナスにもなり得ない思考……。須賀日巡査としては、この事実が持つ重要性を、もっと深く理解して善後策を講じることの出来る人間が、自分のすぐ周囲にいるとは、まったく思えなかったのである。モニターに視線を戻しても、集中力は戻らない。それどころか、様々な記憶から創られる微々たる思考は、更なる妄想を創り出していく……。
この業務のマイナス点としては、精神的な疲労、ミスを犯すことへの不安感、それが増長していく恐怖、そして、自分たちは全く表情を変えることなく、直属の部下たちにだけ、このようなくだらない作業をやらせている上司達への不信感の増大。さらに言うなら、自分が毎日、その行動の一部始終を覗き見てしまっているはずの、世間一般の人々に対する罪悪感というのもあるかも知れない。心の底のどこかでは、彼はこの仕事を恥じていて、両手で顔を隠して懺悔しているのかもしれない。自分より先に頭を狂わせてしまった同僚の誰かが、いつ何時、この汚れ切った業務の詳細を、テレビ番組や週刊誌において暴露してしまうかもしれない。その瞬間に自分もこれまでの立場を失い、加害者となる。この恐るべき事実が、マスコミを通じて世間一般に対して公になった場合、警察幹部たちは、自分に向けられたマイクの前で、いったい、どのような言い訳をするつもりなのだろう。
『今回の一件にはさすがに驚きました。自分たちの知らないところで行われていたことだと思われます。まったく、許されないことであり、遺憾であります』
仏頂面をしながら、記者会見でそんなことを言うつもりか? まだ、平静を保っていられるのか? 一夜にして、実行犯となってしまった、下っ端の警官たちとて、無事で済むとは思えない。まったく有り難くはない、カメラのフラッシュを全身に浴びることになるかもしれない。そういった身に迫りつつある破局を現実的だと思えるのなら、早いうちにこの組織を抜けて、実直な企業に乗り換えた方が良いかもしれない。自分の姿がカメラに写されているなどとはまったく知らない世間の人々に対して、少しでも背徳感を持っているのならば。これらを全て加味した上で、自分は今後どのような人生航路を歩んで行けば良いのだろうか。
自分はまだ二十代前半だが、例えば、ある日、こんな仕事に我慢がならなくなり、突如として転職活動を始めるとしたら、いったい、どのくらいの確率で成功するものなのだろうか……。末永い幸福を手に入れたければ、安定など選ばずに、若いうちに株に投資しろ、あるいは起業しろ、なんて大それたことを書いてあるビジネス書が、本屋の売れ筋の棚には、びっしりと並んでいる。事実、若いうちから、型にはまらない行動をとることで、結果としては、投資によって大きな成功を収めて、莫大な資産を手に入れた人々は多くいる。最近のテレビ番組のゲスト陣は、そんな人種に支配されているように思える。社会人になったからには、日々上役の視線に脅えながら、毎月数万ずつ、せこせこと貯蓄を増やしていくのではなく、遥かなる未来に向かって一気に駆け出して、多額の資産を得るための行動を取らなければならない、そんな時代なのだろうか? 十年先の未来など、今は朦朧としているが、本当にこの陰険な仕事を続けていて良いのだろうか? もっと、他人に誇れるような仕事に就きたと思わないか? 四十代も間近になったときに、投資で大儲けした同級生から、数億円が振り込まれた通帳を見せられ、『それで、君の職業は何だったっけ?』と尋ねられたら、自分の仕事の利点を正直に主張できるだろうか?
『毎日のように、罪もない人々の生活をくまなく監視しています』
自分はリスクだけを与えられているような気がする。このままクビにならずに、長い間勤め続けたとしても、十年先に、精神的な充実感は得られているのだろうか? 競争社会において、一番わかりやすい指標である貯金額は、いくらくらいになっているだろうか? 親族や同僚に勧められて、無理に多額のローンを組んで、都内に中古のマンションを購入していたとして、そのローンを身体がまともに動くうちに払いきるためには、もう、別の道は選べなくなっている気がする……。せっかく得た、権力と同伴できる職ではあるが、この安定をきっぱりと捨て去るのなら、それは今なのかもしれない。新卒で警察官として配属されたことなど、完全になかったことにする。ただ、仮に別の道に進んでいたとして、十年後にそれが当たって成功者になっていたとしたら、過去にこのような陰湿な仕事に就いていたことは、はっきりとした汚点として残るような気もする。企業社会において、重要な存在になればなるほど、過去の秘密は耐え難く深い傷となってしまう。自分の過去を知り尽くしている権力機構が、これを巧妙に利用してくる可能性すらある。元はといえば、自分たちが考案した監視職場のくせに……。経歴に深い傷を負う前に、今まさにこの瞬間、道を変えてしまうべきか、それとも、歯を食いしばって変えずにいくのか。どうしたものだろうか……。
新米の須賀日巡査の思考は、いったん動きを止めた。その全てが人の群れ、車の群れ、ビルの群れであり、こちらの視角が変化するごとに、まるで生物のようにせわしなく動いているのだ。再び左右の壁際に整列している多数の液晶モニターに視線を移した。その刹那、左側上部のモニターの一つで、新作アニメの公開で賑わう映画館前の広場において、知人に話しかけるフリをして、行き過ぎる若い女性のお尻を背後から触ってすり抜けていく男が目に入った。卑怯極まりない行為に対して、感情は怒りで湧き立つが、こんな奴の相手はしていられない。当然スルーだ。今から、本部で待機している署員に緊急連絡をして、あの人混みの中にまで、数人の警官を走らせてみても、その頃には、容疑者は脱兎のごとく逃げ去っているに決まっている。上手くひっ捕らえたと仮定しても、犯罪としてこれほど微妙なケースは不起訴になる可能性の方が遥かに高い。当人の脳みその内部を覗き見ることが出来ない以上、ここで録画されている映像だけでは、『女性の身体に微かに触れたように見えた』という、こちらの訴えが、痴漢行為なのかどうかを明確に判断することは難しい。法律を守る気など、元よりさらさらなく、ルール無用で生きているあんな小物連中を、一人残らずひっ捕らえていくために、警察という組織が存在するわけじゃない。ここ数か月の勤務で、実務を踏まえながら、何度もそう教わってきたじゃないか。法律を踏みにじり、社会にとって害をなす人間を捕まえるのではなくて、警察組織の名誉に貢献するような、従順なる仕事を積み上げていくこと、それが警察官に与えられた職務である。何の利害にもならない羽虫の行為は見えないふりをして捨てていき、マスコミを巧く操り、組織全体と足並みを揃えるのが、長く働くために、もっとも重要なことである。それを肝に銘じて、これから先の十年、二十年と着実に歩んでいければ、自然とそれが理解できるいくのだろう。
しかし、須賀日巡査は先ほどのモニターから、なかなか目が離せないでいた。先ほど、運悪くチンピラに下半身を触られてしまった女性は、映画館入り口付近でチケット購入のために並んでいる、大勢の来客に囲まれ、揉みくちゃにされながらも、ロビーへと歩を進めようとはせず、すでに現場から姿を消した不審な男をその目で探しながら、その場に足をとどめていたのだ。触っていった男が振り返りもせず、猛スピードで人混みをかき分けるように走り去っていったことで、自分が痴漢の被害に遭ったのだ、ということを、徐々に認識し始めたようである。自分の身が安泰であれば、他人の不幸には誰も手を差し伸べようとはしない。そんな冷徹な都会のど真ん中で、不安げな表情になり、辺りを見回して、誰か助けになる人を探している。こういう突発的な軽犯罪について詳細な知識があり、頼りになる人間が近くにいるのであれば、自分の身に起きたことについて相談したがっている。自分だけでは解決しえない不幸に直面して、困惑している都民の話を、その身に寄り添って聞いてあげるのが、警察官の本来の役目ではないだろうか? その疑問はこういう場面を見せられるたびに拭えなくなっていった。『自分の行為は、都民を守るための監視ではないのか?』もし、この問いかけが上層部によって簡単に否定されてしまうのであれば、この組織は自分が勤めたかった職場では無いような気がした。犯罪行為を防ぐのは、権力による監視ではなく、法律に基づいた適切で地道な活動であると思っていた。警察というのは、一つの商品が売れたら、いくらの儲けが出るといったような、単純な数式によって答えが出せる仕事ではないのだ。
高木先輩は相も変わらず右前方の木製の丸椅子に座っていたが、勤務には使われない身体の部位を微動だにさせずに幾多のモニターを監視し続けている。数分に一度ほどの割合で、手元のリモコンを慣れた手つきで操作することで、気になったモニターを一時停止させ、そこから得た何らかの情報を、テーブルの上に置かれた用紙に速やかに書きつけていった。彼が動かしているのは、ほとんど視線と右腕だけである。そのカチカチっというペン先の音だけが、時計の針の音をわずかに掻き消して、室内に響いている。それはまるでプログラミングされたように意思のない動き。新米としては、実に手際が良い仕事だ、と思わず感心してしまう。良いお手本ではあるが、須賀日巡査はまだまだ仕事中の雑念が多く、当分、ああはなれないだろう。本当は今だって先輩の実直な働きぶりに目を取られている暇など無いのだが。近い将来、速度違反の車を自動的に感知して、本部のHDに録画していくシステムや、街頭カメラの音声認識機能がさらに進んで、警察機関が利己的に定めたキーワードを、うっかり口にしてしまった人物の顔と声を自動的にHDに録画しておくシステムが生まれたとしたら、自分のような陳腐な存在は、この組織には完全にいらなくなるのかもしれない。事件の前後に関わらず、目撃情報の少ない、難解な事件を捜査することに多くの人員が必要なのであって、監視カメラから得た情報によって、証拠が自動的に揃えられたり、容疑者がすぐに絞られ、その家まで身柄の確保をしに行くだけなら、元々、それほどの人数は要らないのだ。おそらく、警察行政は現在の三分の一ほどの人員によって、犯罪の発生率を大幅に減らすことが出来る時代が来るのだろう。だが、それは本当に社会全体の進歩と言えるのだろうか? という複雑な思いが彼の中にはあった。ほんの少数の悪を無数の監視の目によって感知するために、大多数の一般市民の行動にまで、大きな制限を加えているだけのような気がした。
須賀日巡査は自分の悩める思いを、すぐ隣の椅子に腰かけている先輩の背中に伝えたかった。おそらく、自分が期待しているような返事は返ってこないだろう。『おまえも、あと三年も真面目に勤めれば、この組織のことがわかってくるよ』無愛想な表情で、視線も向けてもらえず、そう伝えられるに決まっている。高木巡査は昼食休憩以降は、短い休憩すら取らずに、それどころか、ほとんど微動だにせずに、まるで、機械ロボットのようにモニターの監視を続けている。須賀日巡査が知人から聞いたところでは、この青木先輩にも若い頃には権力構造と自分の理想との狭間で、深く悩める日があったのだという。長い実直な勤務の結果、個々の力では手の付けられないほど恐ろしい権力機構に対する、家畜のような従順と、自分の感情のすべてに優先させるような狡猾な思想を身に付けたのだ。そして、誰かを助けたいとか、こいつは許せないとか、一時の短絡的な感情には簡単に左右されない、現在のような勤務姿勢を得たのだろう。まだ若き巡査は自分も出来るならそうなりたいのだが、短期間における簡単な思考訓練くらいでは、到底なれない気もした。また、長期間にわたる徹底的な思想操作によって、組織の命令には絶対に逆らわない完璧な警察官になれたとして、そのような洗脳ともいえる教育を自分の脳神経に及ぼすことは、本当に望ましいことだろうか? 初めは漠としていた疑念は、決して停止させることは出来ず、思考空間の内部を絶え間なく連鎖的に伸びていって、ほんのひと月半前に我が身で体験したばかりの、次のような生々しい記憶を呼び起こすことになった。
『自分はとくと見せられたではないか。この組織の裏側にひそむ、真の腐敗を……』
今から一か月ほど前、その日は夕方出の夜番勤務であった。勤務についてからの数時間は特に何ごとも起こらず平和だった。ところが、午後九時をまわった頃、新宿三丁目の界隈で酔客同士の小さなトラブルが発生した。受けた連絡をそのまま他部署に回すことも出来たのだが、何度も鳴り続ける呼び出し音が煩わしく、捨て置けないため、現地にある三人詰めの交番に出動命令が出した。しかし、人手が足りないため対応できずとの返事があったため、新宿署のベテランの職員が一人現場に派遣されることになった。そのおかげで、須賀日巡査が割を食う形で、たった一人でこの監視室での勤務にあたることになった。ただ、彼にとっても、すでに配属から一年を超え、慣れてきた業務内容であるし、夜間は人通りも車通りもめっきり減っており、警察の手を必要とするような、危険な事故が起こる可能性は、ほぼ繁華街の一画だけに絞れるので、それほどの危機感は感じていなかった。
その不気味な事態は、午後十一時頃に起きた。歌舞伎町の交差点付近に設置されているカメラの内の一つが、キャバクラやホストクラブが立ち並ぶ、酔客で湧き立つ一角を明瞭に映し出していた。終電も近づき、他のモニターに映し出される勤め人の姿は、次第にまばらになってきたので、須賀日巡査はこの一番賑やかな風俗街を注視するモニターに神経を集中していた。それほど広くはない画角には、黒いスーツを着込んだ、二十人以上の客引き、ホスト、ナンパ狙い、すでに前後不覚により、帰宅をあきらめた酔客などが、何か大声で騒ぎながらもみ合い、群れており、スリや口喧嘩程度のことは、もう、すぐにでも起こりそうな気配はあった。もちろん、この時間帯においては、歌舞伎町の通りでは、日々このような光景が繰り広げられており、経験の上でいえば、こちら側が必要以上に警戒を強めるだけで、結局のところは、何も起こらない日の方が多いのだ。
しかし、万が一に備えて、集中は切らせない。少なくとも、風俗街で働く人種や、そこを練り歩く人々は、キャバクラという存在の意味すら知らないような、一般の真面目な勤め人の何倍もの危険性を備えているのである。しばらく、そのモニターを注視しているうちに、彼はカメラから対極の(つまり遠目の)道路わきにおいて、電信柱を盾にするような形で、身体を半分ほどそれに隠しながら、陰で密談をこらしている数人の男性グループに目を留めた。その場所は、歌舞伎町でも、もっとも流行っているホストクラブの前を走る、広い通りにある高層ビル群の影だった。柱に完全に身体が隠れていないために、このモニターにより、一番見やすい位置にいる黒いスーツの男性は、体格の良い金髪の長髪の外見であり、推測にはなるが、ホストクラブの客引きの一人ではないかと思えた。もちろん、彼らはひしめき合っているだけで、言い争っている様子はないし、繁華街では誰が誰と群れようが、それが顔見知りであれ、完全な他人であれ、基本的には自由である。他人とどれだけ卑猥な言葉を言い合っても、決して法律違反ではない。しかし、その話し相手が、人気ホスト目当ての派手に着飾った若い女性客ならよくわかるのだが、一見サラリーマン風の複数の男性グループであることには、少し奇妙な印象を受けた。しかも、金髪のホストに向けて、薄ら笑いを浮かべながら、時折腕を組んで話している三人の男性は、その対談の場として、わざわざ監視カメラから一番遠目にある暗がりを選び、しかも、上半身は電信柱の陰に潜めて、その位置から、なかなか出て来ようとはしない。もちろん、その行動については、一つの憶測が生まれることになる。
『少なくとも、あの中の数名は、この監視カメラの存在を知っているのではないか?』
須賀日巡査の思考は、やがてそこまで辿り着き、暗がりに身を潜めて話している三人の様子を角度を気にしながら、何度も録画していくことにした。真顔や笑顔を織り交ぜた、その密談は約二十分ほどに及んだが、録画と映像の巻き戻しを繰り返しているうちに、客引きと思われるホストと三名の男性客は、ごく自然な振る舞いにより、その有名ホストクラブの入り口へと歩み寄っていった。無理やり勧められ、自腹で購入した高級な酒に酔わされた大勢の女性客で盛り上がる、入り口の喧騒を横切る際、派手な看板のネオンライトに照らされて、怪しげな数名の客のうち、二人の顔がモニター上に明るく映し出された。それが確認できたのは、瞬き二回ほどもできぬような一瞬であった。三名は案内されるままに、クラブの奥へと消えていった。羽振りの良い、若い女性目当てのホストクラブに、スーツ姿のサラリーマンが堂々と訪れるだけで、十分黄色信号ではあるが、須賀日巡査の気持ちを激しく高ぶらせたのは、訪れた三名の男性を、自分の記憶の内で、明らかに見知っていたからである。
元々、彼らが暗がりに潜んでいた頃から、背丈や顔の輪郭や細かい仕草などを観察しているうちに、薄々感づいてはいたのだが、先ほど、ネオンに照らされた横顔をはっきりと見せられたとき、これはゆゆしき一大事と察した。私服こそ着てはいたが、あの三人は須賀日巡査と同じ、この新宿署内の警察官であった。各々がどの職場の人間かについての記憶は定かではなかったが、少なくとも、そのうちの二名は地域相談課の職員であったはずだ。何度か書類の受け渡しに訪れたことがあって、簡単な会話も交わしたことがある。もし、刑事課の署員であれば、今夜のこの一件も、何らかの疑わしい事案において、ホストクラブの立ち入り検査に向けた、私服捜査に訪れた可能性もあったろうが、彼らは内勤業務であるし、それ以上に、自らの姿を監視カメラから隠しての密談というのは、どうも解せなかった。彼の思考の中で、疑惑は黄色から赤へと変わっていこうとしていた。その夜はすでに時刻も遅く、報告すべき上司も、すでに帰宅の途に就いており、不在であったことから、現地の映像をなるべく多く録画して、保存しておくだけに留めた。
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