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Y先生の入学式 第三話 完結
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いよいよ、廊下の方から、子供たちが賑やかに行進してくる足音が届くようになった。未知の世界への驚きを含んだ笑い声も聴こえる。いままでは静まり返っていた校舎全体が、徐々にざわついてきたような気がする……。まるで、大森林の鳥たちが、一斉に目覚め始めたかのように……。対面の時はもう間近に迫ってきた。私は緊張を解くためのおまじないとして、新品のチョークの封をゆっくりと開けて、それを黒板にセットした。前方の扉が勢いよく開かれると、先導してきた上級生が顔を覗かせて、元気のよい声が響いてきた。私は大勢の生徒たちに満面の笑みだけで反応した。
「はーい、皆さん、ここが1年2組ですよ。番号順に前から座っていってください~」
もちろん、初めて教室の空気に触れる、新入生たちは、そんな単純明解な指令にも、すぐには従うことはない。派手な色彩で飾られた、初めて我が目で見る教室内を、きょろきょろと見回し、入り口付近で、ぼけ~とした顔で立ち尽くす生徒が多かった。出会ったばかりのはずの隣の女の子に早くもちょっかいをだす生徒、自分のとはまったく違う番号の机に堂々と座ってしまう生徒など、彼らの反応は実に様々だ。このまま放置しておくと、数分を待たずに動物園と化してしまうわけだ。だが、私はこの日のことを何度も頭の中でシュミレーションしてきた。校長先生から、扱いの難しい新入生の担任を任されたベテランには、何も恐れる事態ではない。例え、泣き出す生徒や、些細なことで喧嘩を始めてしまう生徒がいたとしても、私がパニックに陥ることはありえない。
「こらこら、君の席はそこじゃないでしょ」
「隣の子にいじわるしちゃだめだよ」
私はそんなふうに優しく声をかけながら、教室内をじんぐりとまわっていく。どんな暴れん坊も、一人ずつ優しく頭を撫でながら席につかせていく。座らされた後も、まだ暴れ足りずに、ブーブー言っている子もいるわけだが、様々なイベントを体験する中で、この場の雰囲気に馴染んでくれば、直に大人しくなるだろう。
生徒全員が無事に席につき、ここまで案内してきた上級生たちが、私の合図によって、役割を終えて立ち去っていくと、それを待っていたかのように教室後方の扉が開き、どやどやと保護者さんたちが入ってきた。本日のもう一方の主役である。そして、生徒たちの後方を取り巻くように、各々の位置を占めて、壁や窓を背にして順序よく並んでおられた。もちろん、この場にいる誰しもが、今日という日を迎えて極度に緊張している。ただし、生徒たちのそれに比べて、父兄さんたちの表情には、若干の余裕がある。これまでの半生の中で相当な場数を踏んでいるからだろう。私が苦労して準備をした、壁紙の飾りつけを興味深く眺めておられる父兄さんもいる。生徒たちはまだ緊張から抜けきれず、なかなか視線も定まらず、みんなそわそわとしていたが、後方に自分の両親の姿を見つけ、嬉しそうに手を振る子もいた。
生徒も親御さんたちも、ここに集まった全員が過度の緊張によって、理解力や認識力が低下している。新入生の担任を任された者として、こんな間の悪いタイミングで、これからの教育方針などの重大なことを話し始めるのは、あまり得策とは言えない。子供は今なにが起きているかもわからずに、ほとんど上の空であるし、父兄の皆さんは我が子の可愛らしさと未来への不安によって、浮ついておられるからだ。この雰囲気の中で、子供たちの将来に関わる大切な話をしても、誰の脳にも受け付けてもらえない可能性の方が高いだろう。記憶に残らない挨拶などは、やるだけ無駄である。今はしばし待つときだ。私は賢明にそう判断して、にこやかに生徒たちを見渡し、その時が来るのを静かに待つことにした。進行役が静寂を保つと、この後にどのようなイベントが待っているかを、知るものはいなくなる。しかし、父兄の方々は、自分が受け持つ生徒と初めて対面する教師の気持ちを多少なりとも理解されているので、この静寂に包まれた空間を不安とは感じていない。やがて、がやがやとうるさく騒いでいた生徒たちも、『何も起こらないことによって』次第に意識を教壇の方に引かれ始め、皆きょとんとした目を私の方へと注ぐようになってきた。
そんなとき、教室の後方で、この様子を見守っていた保護者さんの一人が、肩にかけていたカバンから、用意してきたビデオカメラを取り出そうとしたらしいのだが、相当に慌てていたのか、手が滑って、それを床に落としてしまった。ガツンという大音量が室内に響き渡り、和んだ雰囲気に一瞬の亀裂が入った。一同の視線が当たり前のように、そこに注がれた。その男性は決まり悪そうに床に落としたカメラを拾い上げた。すぐさま、今の落ち度は、なかったことにしようという暖かい空気が、その場に流れたわけだが、私はこの瞬間を己れのチャンスと捉えて、見逃さなかった。
「なんでしょうね。どうも今日のイベントでは、親御さんの方が緊張してらっしゃるようですね?」
私が絶妙のタイミングで教室全体に向けてそう声をかけると、これは上手いことを言うものだ、とばかりに教室内がどっと湧いた。両親らが互いに顔を見合わせ、頷き合い、重苦しい緊張から解かれた笑顔で笑っているのを見て、子供たちを過度の緊張によって縛っていた呪縛も、今や、すっかり解けてきたようだ。まるで、豪雨の後の草原にそれを忘れさせるような明るい光が刺すように、教室内の雰囲気が好転していったわけだ。私はこの弛んだ空気の隙をついて、誰にも悟られぬように、視線を右から左へと動かしていった。父兄の方々の顔を一瞬のあいだに滑るように眺め回した。すると、教室の右奥の方に薄っすらと見覚えのある、見栄えのする中年男性のお顔が確認できた。街角のボードに貼られている、選挙用ポスターやチラシなどで何度も拝見しているお顔だ。やはり、覚悟していた通り、県会議員さまは今日の式に自ら来ておられたのだ。次いで、私の目は出席番号15番の席に座っている、MT君の姿を瞳の中心で確認した。紺色のブレザーを着て、坊ちゃん刈りに整えられた、可愛いお子さんだ。他の庶民臭い騒がしい子たちに囲まれて、少し緊張気味にしておられる……。小さな手を膝の上にきちんと乗せて、とても品がよく、大人しく座っておられた。
『議員様、大丈夫ですよ。あなたのご子息様は確かにお預かり致しました。他の汚れた子供たちの垢のついた手には、決して触れさせはしません。私がきっと守ってみせます』
心の中で強くそう念じてから、大きく息を吸った。いよいよ、この時が来たのだ。
「はーい、皆さん、初めまして! 私がこのクラスの担任のYと申します。今日はね、まだ名前を覚えられなくてもいいんですよ。出来たら、あと一週間くらいで、この名前を覚えてくださいね。皆さんの心は今日の澄んだ空のようにまっさらですが、これからの6年間では、勉強だけじゃなくてね、いろんなことを学んでいくことになります。このクラスでは一切の差別やいじめはありません。周りのお友だちの顔を見てください。悪い子なんてひとりもいないんだよ。学校ではね、みんな平等なんだよね。平等というのは難しい言葉だよね。これは、いつも同じことを学び、同じように遊び、まったく同じチャンスを与えられるということなんです。何があっても、クラスみんなで手をつないで、ジャンプアップしましょう。あとでみんなの夢を先生にきかせてください。その夢が叶うように応援していくのが、私の仕事なんです。学校生活の最初の2年間を、この私と楽しく過ごしましょう」
私が最初の挨拶を言い淀みなく終えると、教室の後方からは、想定していた通りの、大きな拍手が起こった。私は誰にも悟られぬように、ちらっと流し目を右奥の方向へと送った。議員様は感心した様子で、何度か頷きながら、この雰囲気に呼応して、大きく拍手してくださっている。あれはきっと、合格サインの合図だろう。これならば大丈夫。きっとうまくやっていけるはずだ。私はそう確信していた。
「はーい、皆さん、ここが1年2組ですよ。番号順に前から座っていってください~」
もちろん、初めて教室の空気に触れる、新入生たちは、そんな単純明解な指令にも、すぐには従うことはない。派手な色彩で飾られた、初めて我が目で見る教室内を、きょろきょろと見回し、入り口付近で、ぼけ~とした顔で立ち尽くす生徒が多かった。出会ったばかりのはずの隣の女の子に早くもちょっかいをだす生徒、自分のとはまったく違う番号の机に堂々と座ってしまう生徒など、彼らの反応は実に様々だ。このまま放置しておくと、数分を待たずに動物園と化してしまうわけだ。だが、私はこの日のことを何度も頭の中でシュミレーションしてきた。校長先生から、扱いの難しい新入生の担任を任されたベテランには、何も恐れる事態ではない。例え、泣き出す生徒や、些細なことで喧嘩を始めてしまう生徒がいたとしても、私がパニックに陥ることはありえない。
「こらこら、君の席はそこじゃないでしょ」
「隣の子にいじわるしちゃだめだよ」
私はそんなふうに優しく声をかけながら、教室内をじんぐりとまわっていく。どんな暴れん坊も、一人ずつ優しく頭を撫でながら席につかせていく。座らされた後も、まだ暴れ足りずに、ブーブー言っている子もいるわけだが、様々なイベントを体験する中で、この場の雰囲気に馴染んでくれば、直に大人しくなるだろう。
生徒全員が無事に席につき、ここまで案内してきた上級生たちが、私の合図によって、役割を終えて立ち去っていくと、それを待っていたかのように教室後方の扉が開き、どやどやと保護者さんたちが入ってきた。本日のもう一方の主役である。そして、生徒たちの後方を取り巻くように、各々の位置を占めて、壁や窓を背にして順序よく並んでおられた。もちろん、この場にいる誰しもが、今日という日を迎えて極度に緊張している。ただし、生徒たちのそれに比べて、父兄さんたちの表情には、若干の余裕がある。これまでの半生の中で相当な場数を踏んでいるからだろう。私が苦労して準備をした、壁紙の飾りつけを興味深く眺めておられる父兄さんもいる。生徒たちはまだ緊張から抜けきれず、なかなか視線も定まらず、みんなそわそわとしていたが、後方に自分の両親の姿を見つけ、嬉しそうに手を振る子もいた。
生徒も親御さんたちも、ここに集まった全員が過度の緊張によって、理解力や認識力が低下している。新入生の担任を任された者として、こんな間の悪いタイミングで、これからの教育方針などの重大なことを話し始めるのは、あまり得策とは言えない。子供は今なにが起きているかもわからずに、ほとんど上の空であるし、父兄の皆さんは我が子の可愛らしさと未来への不安によって、浮ついておられるからだ。この雰囲気の中で、子供たちの将来に関わる大切な話をしても、誰の脳にも受け付けてもらえない可能性の方が高いだろう。記憶に残らない挨拶などは、やるだけ無駄である。今はしばし待つときだ。私は賢明にそう判断して、にこやかに生徒たちを見渡し、その時が来るのを静かに待つことにした。進行役が静寂を保つと、この後にどのようなイベントが待っているかを、知るものはいなくなる。しかし、父兄の方々は、自分が受け持つ生徒と初めて対面する教師の気持ちを多少なりとも理解されているので、この静寂に包まれた空間を不安とは感じていない。やがて、がやがやとうるさく騒いでいた生徒たちも、『何も起こらないことによって』次第に意識を教壇の方に引かれ始め、皆きょとんとした目を私の方へと注ぐようになってきた。
そんなとき、教室の後方で、この様子を見守っていた保護者さんの一人が、肩にかけていたカバンから、用意してきたビデオカメラを取り出そうとしたらしいのだが、相当に慌てていたのか、手が滑って、それを床に落としてしまった。ガツンという大音量が室内に響き渡り、和んだ雰囲気に一瞬の亀裂が入った。一同の視線が当たり前のように、そこに注がれた。その男性は決まり悪そうに床に落としたカメラを拾い上げた。すぐさま、今の落ち度は、なかったことにしようという暖かい空気が、その場に流れたわけだが、私はこの瞬間を己れのチャンスと捉えて、見逃さなかった。
「なんでしょうね。どうも今日のイベントでは、親御さんの方が緊張してらっしゃるようですね?」
私が絶妙のタイミングで教室全体に向けてそう声をかけると、これは上手いことを言うものだ、とばかりに教室内がどっと湧いた。両親らが互いに顔を見合わせ、頷き合い、重苦しい緊張から解かれた笑顔で笑っているのを見て、子供たちを過度の緊張によって縛っていた呪縛も、今や、すっかり解けてきたようだ。まるで、豪雨の後の草原にそれを忘れさせるような明るい光が刺すように、教室内の雰囲気が好転していったわけだ。私はこの弛んだ空気の隙をついて、誰にも悟られぬように、視線を右から左へと動かしていった。父兄の方々の顔を一瞬のあいだに滑るように眺め回した。すると、教室の右奥の方に薄っすらと見覚えのある、見栄えのする中年男性のお顔が確認できた。街角のボードに貼られている、選挙用ポスターやチラシなどで何度も拝見しているお顔だ。やはり、覚悟していた通り、県会議員さまは今日の式に自ら来ておられたのだ。次いで、私の目は出席番号15番の席に座っている、MT君の姿を瞳の中心で確認した。紺色のブレザーを着て、坊ちゃん刈りに整えられた、可愛いお子さんだ。他の庶民臭い騒がしい子たちに囲まれて、少し緊張気味にしておられる……。小さな手を膝の上にきちんと乗せて、とても品がよく、大人しく座っておられた。
『議員様、大丈夫ですよ。あなたのご子息様は確かにお預かり致しました。他の汚れた子供たちの垢のついた手には、決して触れさせはしません。私がきっと守ってみせます』
心の中で強くそう念じてから、大きく息を吸った。いよいよ、この時が来たのだ。
「はーい、皆さん、初めまして! 私がこのクラスの担任のYと申します。今日はね、まだ名前を覚えられなくてもいいんですよ。出来たら、あと一週間くらいで、この名前を覚えてくださいね。皆さんの心は今日の澄んだ空のようにまっさらですが、これからの6年間では、勉強だけじゃなくてね、いろんなことを学んでいくことになります。このクラスでは一切の差別やいじめはありません。周りのお友だちの顔を見てください。悪い子なんてひとりもいないんだよ。学校ではね、みんな平等なんだよね。平等というのは難しい言葉だよね。これは、いつも同じことを学び、同じように遊び、まったく同じチャンスを与えられるということなんです。何があっても、クラスみんなで手をつないで、ジャンプアップしましょう。あとでみんなの夢を先生にきかせてください。その夢が叶うように応援していくのが、私の仕事なんです。学校生活の最初の2年間を、この私と楽しく過ごしましょう」
私が最初の挨拶を言い淀みなく終えると、教室の後方からは、想定していた通りの、大きな拍手が起こった。私は誰にも悟られぬように、ちらっと流し目を右奥の方向へと送った。議員様は感心した様子で、何度か頷きながら、この雰囲気に呼応して、大きく拍手してくださっている。あれはきっと、合格サインの合図だろう。これならば大丈夫。きっとうまくやっていけるはずだ。私はそう確信していた。
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