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第一章 婚約破棄編

見舞いに来て早々喧嘩を吹っ掛けるようなことを言っておいて、いきなり無視したら怒りたいのも分かるけど。

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 わたしの渾身の訴えに反応し、それまでの呆けた表情が嘘だったかのように、一気に顔を高揚させ、憎々しげに眉間に皺を寄せたアイリーシャの鋭い声が静養室に響く。

「こっっのぉ、泥棒猫!よくも私の前に堂々と姿を現せたものね!!」
神殿司しんでんし、こちらですっ!」

 アイリーシャの叫びと同時に、バタバタと足音が響いて、先程去っていった巫女ともう一人が駆け込んで来た。
 今、神殿司って言葉が聞こえた様な。まさか‥‥?

「馬鹿か、治癒院で患者に大声を張り上げる暴挙に出るなど、令嬢にはとても見えん見下げ果てた行儀マナーだな。」

 ぎぎぎっと音が漏れ出そうな鈍い動きで首を戸口へ巡らせると、いつかの暗がりで目にした片眼鏡モノクルがキラリと光り、呆れた視線を向けられていた。

「性悪片眼鏡‥‥。治癒院長もやってたのね。」

 オリーブ色のショートカットの髪に、わたしと変わらない年齢に見えるにもかかわらず、インテリっぽく片眼鏡を付けた姿は、背伸びして自分を大人に見せようとする微笑ましさも若干感じられないこともない。けれど鬱金うこん色の瞳は忌々し気に眇められているし、口はへの字に曲げられている。まったくもって友好的な要素を感じるものは一つもない。

「泥棒猫!ちょっと!ちゃんとこっちを見なさいよ!わざわざここまで来たんでしょ!?」
「ああ、はいはい!聞こえてますし、聞いてます!?あなたの迷惑な婚約者が商会活動を都合の良い様に勘違いしてくださっていたって申し上げたんですけど?それを伝えるためにわたしはアイリーシャ先輩にわざわざ会いに来たんですよ。元気そうでなによりですわ!」

 よそ見していたら、目ざとくそれに気付いたアイリーシャになじられた。
 まぁ、見舞いに来て早々喧嘩を吹っ掛けるようなことを言っておいて、いきなり無視したら怒りたいのも分かるけど、ちょっと前までほうけていた割に、いきなりしっかりしすぎじゃない!?

「アイリーシャ様?もう‥‥お加減は宜しいのですか?」
「はっ‥‥バネッタ、え・ええ。どこにもおかしなところはありませんわ。」

 恐る恐るといった感じにバネッタが話しかけると、アイリーシャは急にわたし以外の存在を思い出したのだろう。きょろりと視線を周囲に巡らせて小さく息を吸うと、慌てたように乱れた髪をさっと手で撫でつけた。

「それで、アイリーシャ先輩はどこまでのことを覚えていらっしゃるんですか?」
「え?何を言っているの、泥棒猫‥‥え?あら、あなたバンブリア男爵令嬢よね。生きている‥‥の?私、目障りだった貴女を消してしまえば道は開けるって祈祷師が言って‥‥玉の枝‥‥を。」
「アイリーシャ様!?」

 記憶を手繰り寄せるように、ぽつぽつと話し出したアイリーシャの瞳が驚愕に大きく見開かれる。戦慄わななき出した彼女に慌ててバネッタが駆け寄り、背に手を当ててさするが、震えは益々強くなるばかりだ。

「アイリーシャ先輩?言いたいことはいっぱいあるけど、わたしは生きてるし、あの時は貴女もメルセンツ先輩も正気じゃなかった。取り敢えず、それだけが今の事実です。悔やみたいことは一旦横に置いておいて、事実を見てください。」

 わたしを凝視するアイリーシャの瞳がじわりと潤んで行き、やがて静かに一滴涙が零れ落ちると、ようやくアイリーシャは「よかった‥‥。」と小さく呟いて、両掌で顔を覆った。寄り添うバネッタの笑みを象る瞳からも、涙が流れ落ちる。

「アイリーシャ様、やっと正気に戻られて‥‥良かった。」
「ニスィアン伯爵令嬢、わたしの役目は無事終わったみたいなので、これで失礼しますね。」

 感動の場面も見られたことだし目出度し目出度し、と立ち去ろうとした時、がばりとアイリーシャが顔を上げる。

「おまちなさい!貴女の言い分なんてこれっぽっちも信じちゃいないわ。人を‥‥雇ったのは過ちだったと思うけれど、それは本当に頭にもやがかかっていたみたいにはっきりしなくて、けど私が対価に家宝を持ち出したこともしっかり覚えていて、取り返しのつかないことをしてしまったと胸が苦しいし、貴女が無事で良かったとも思うけれど‥‥。けど、メルセンツ様の事は別よ!」
「だから本当に何もないんですってば!夜会のエスコートだって、ただの新参男爵家の娘が、伯爵家嫡男からの申し出を断れると思います!?しかも、勧めれば色々ご購入くださる上得意様ですよ?力関係の面でも、売り上げの面でも、無下に出来ないに決まっているじゃないですか!わたしだって困ったんですよ?しっかり捕まえておいてくださいよっ!!」

 ふんすっと鼻息荒く捲し立てると、また傍から片眼鏡モノクルのうんざりした視線が向けられていることに気付いた。静養室で騒ぐなと言いたいのは分かるけど、これってわたしだけの責任じゃないはずだと、開き直って胸を張ると、片眼鏡は更に苦々しそうに一度、口をへの字に引き結んでから改めて口を開く。

「馬鹿か、当事者のお前が言ったところで、白々しく聞こえるだけだろ。」

 呆れた心情を殊更強く訴えたかったのか、大げさにため息をついた片眼鏡は、アイリーシャのベッドの側まで歩み寄ると、静かに彼女を見下ろす。

「待ち人かどうかは分からないが、ここひと月ほど毎日のように決まった時間にラシン伯爵令嬢の見舞いに来る者がいる。そろそろ、その時間になるはずだが会ってみると良いだろう。」

 わたし相手の時とは全く違う、落ち着いた声と、丁寧な話し振りにぎょっとしていると、廊下の向こうからバタバタという音と、誰かを引き留めるかのような声の混じった喧騒、そして聞いたことのあるアイリーシャを呼ぶ声が聞こえて来た。
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