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I 伯爵邸の虐げられ令嬢
第9話 心を染める黒と光
しおりを挟むミリオンは激怒した。
かつてここまで腹を立てたことは無い。そうはっきり断言出来るくらいの、どす黒い憎しみの感情に心が支配された。さらに、身体中の血液が沸騰したと錯覚するほどの怒りをも覚えた。
婚約者であるミリオンを前にして、義姉ビアンカと親し気に寄り添うセラヒムの不貞を目にしたからでは無い。彼らの心の内を思い知らされたからだ。
「私の決めた筋書きはこうだ。君……つまりミレリオン・オレリアンは、1年前の母君が亡くなった事故で、自由に動けないほどの大怪我を負っていたんだ。けれど心優しい義姉が父親を悲しませまいと、かねてより結ばれる予定であった私とミレリオン嬢の婚約式に、彼女のふりをしてこっそり出席した」
質の悪い出鱈目な作り話を、決定事項を報告する淡々とした口調で語り続けるセラヒム。向けられた優しい笑顔とのチグハグさに、ミリオンは言い様の無い不快感を抱いた。
隠しきれない嫌悪感に眉根を寄せ始めたミリオンの反応などお構い成しに、さらに作り話の筋書きは続く。
「ビアンカ嬢は、妻子が見舞われた不運に深く傷ついた父君のため、家のための尊い自己犠牲の精神で、動くこともままならないミレリオンの名を婚約届に記載したんだ。当然公式書類としてはそんなもの無効になる。本来当人が神官監視の元、署名する婚姻届けで代筆が成されることなど不可能であるはずなのに、いとも簡単に実行出来たのは、ビアンカの天使の如く慈愛が引き起こした奇跡だ。けれどそんな彼女の献身も空しく、ミレリオン嬢は今日、儚くなってしまうんだよ」
彼の形良く弧を描いた唇から、物語を読み上げるように語られたのは、一切の情もない殺害予告だった。「素敵な筋書きだとは思わないかい?」との言葉が終わらないうちにミリオンの脳天に向けて、セラヒムの渾身の力が込められたロングソードの一閃が振り下ろされ――
ガギン
硬質な音とともにブレイドが眉間の数センチ手前で止まった。
何が起こったのか分からない一瞬の出来事だった。けれど鈍く光る刃を認めるや否や、ミリオンの身体は即座に反応し、唯一の私物「古びた魔導書」をひっつかむ。そのまま呆然とするセラヒムの脇をすり抜け、ビアンカを突き飛ばして、転げるように屋根裏部屋から飛び出した。生存本能の命じるまま、息つく間もなく階段を降り、屋敷を飛び出したところでようやく恐怖と怒りが沸き上がって来る。
(お母様が護ってくれた命を、嘘で塗り固めて奪われるなんて冗談じゃないわ!!)
幸いにも、秘密裏に事を済ませようとしていたのか、ミリオンの私室となっている屋根裏部屋周辺には使用人たちの姿は全く見えなかった。
この一年、母親の遺言となった言葉を心の支えに必死に生きてきたけれど、まさかその母の置土産である婚約者から命を取られそうになるとは思ってもみなかった。
我慢し、心穏やかにさえあれば救われると妄信的に過ごしていたミリオンにとっては、全ての価値観がひっくり返された青天の霹靂に等しい出来事だった。
(信じられるものはもう何もないわ! こんな家なんていらない! 家族なんていらない! 婚約者なんていらない!)
存在を全否定され、心が引き裂かれて叫びを上げる。その声に呼応した魔道書が、先程セラヒムの一撃を防いだときと同じくフワリとほの黒い光に包まれた。けれど、悲しみに捕らわれたミリオンは、そのささやかな異変に気付くことはない。
(わたしの味方なんて何にもないのよ!!)
心の中で強い怨嗟の声を上げ、同時に悔しい気持ちを込めて掌を握り込む。
魔導書から一層濃く、黒い光が放たれようとしたその瞬間、ミリオンは冷たくなった指先に当たる手の平以外の感触――魔導書の存在を思い出した。
「あ……そっか、身近になりすぎてて忘れるところだったわ。わたしには、この本があったのよね」
ふとその存在に気付けば、魔導書を入手するにあたって出会った不思議な老婆や、これまで出会った誰よりも綺麗な緑色の少年の姿がふわりと脳裏によみがえる。更に、少年に不思議な力で助けられたり、お姫様抱っこをされて恥ずかしくも嬉しかった記憶が次々と溢れて来る。
「そうよね! わたしを助けてくれた人たちもいたのよね」
言葉に出してみれば、冷たくなっていた指先に体温が戻り始め、何より極寒の海よりも凍えていた胸の奥がふわりとあたたかくなる。
(よし! 無事に屋敷から逃げ出せたら、まずはこの不思議な本を勧めてくれた古書店へ行きましょう! あの辺の場所を探せばなんとかなるわ、きっと。あの緑の綺麗な男の子にも、もう一度会いたいもの!)
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