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I 伯爵邸の虐げられ令嬢
第1話 天使のなりそこない
しおりを挟む「ミリオン、君との婚約を白紙に戻したいんだ」
(白紙に戻したいんだ……とは?)
ふいに背後から掛けられた理解不能な言葉を心の中で反芻する。
自室での読書中、文字の海の中を漂っていたミリオンは、突然投げ付けられた言葉に反応をすることが出来なかった。だから、それまで視線を落としていた本の難解な古代文字と、複雑な図形の列挙された紙面を凝視したままピタリと静止する。
ミリオンと呼び掛けられたのは、新雪の燐光を纏う肌に知性の輝きを宿す黒曜石色の瞳が印象的な14歳の少女だ。けれど、残念なことに艶のない黒髪を無造作に色褪せたリボンで一括りにし、古びてサイズの合わない使用人のお仕着せを着たみすぼらしい格好が、彼女の醸し出す雰囲気の全てを台無しにしている。
(わたしの部屋に来る人たちにノックを期待するのは無理な話だけど、それにしたって急に何?)
理解の範疇を越えた言葉に、思考が追い付かない。
目の前に開いていたのは、なけなしの持ち金全てと引き換えに手に入れた、虫食いのある魔導書。偶然辿り着いた古書店で手に入れた、不思議な本だ。何百回と読んだその紙面から、視線をゆるゆると声の主――戸口で佇む金髪の王子然とした男へと向ける。視線が合うと、彼はフワリと華やかな笑みを浮かべて眉根を垂らした。聞き分けの無い子供をあやす母親ならこんな表情だろうけれど、彼は王子様でもなければ母親でもない。この国が誇る四大公爵家のひとつプロトコルス家の次男、セラヒム・プロトコルスだ。
いくら身分が高く、黒いものを白と言わせることができる権力者であっても、一度書いたものを真っ白に戻すことはできない。いや、宮廷魔道士と呼ばれる人ならば、緻密な紙の繊維からインクの悉くを取り除いて分離することは可能だろう。
「私たちの婚約を無かったことにしたいんだ」
再度、ゆっくりと噛んで含めるようにミリオンに向かって言葉を紡ぐセラヒム。その背後に2人のゆっくりとした遣り取りに焦れたのか、柔らかに波打つストロベリーブロンドが見え隠れし始めた。
一度結んだ契約を解消ではなく「無かったこと」にするのは不可能だ。もしそれを実行するとしたなら、婚約が結ばれた1年前に遡って人々の記憶から消し去り、神殿での神への誓いすら消し去る、神以上の力の行使が必要なのではないだろうか?
(さすがに、今のわたしにそこまでの力は――)
これまで数々の無茶ぶりをされたけれど、今回ばかりは一筋縄ではいかないとんでもない無理難題だ。そう首をひねり始めたミリオンだったが、ストロベリーブロンドの小さすぎる許容心は対応策を思考する時間も許してくれなかったらしい。
「相変わらず意地の悪い娘ね! セラヒム様がこんなに丁寧に貴女を思いやって優しく声をかけてくださっているのにっ! ご返答どころかご挨拶もしないなんて、義妹ながら恥ずかしいわ!!」
甘く高い声に似つかわしくない、ミリオンを咎める言葉が響いた。
「ビア? そう目くじらを立てるものではないよ? ほら、可愛い顔が台無しだ。笑っておくれ、私の天使さん」
「まぁ、セラヒム様ったら……けれど、ハッキリと言った方が良いのです。ミリオンは伯爵家に在りながら家同士のつながりである婚約を蔑ろにし、このようにセラヒム様のお顔に泥を塗るような真似ばかりして。どれだけ私たちが苦言を呈しても、一向に改心する気配も見せないのですから!」
声と共に現れたのは、ぷくりとバラ色の頬を膨らませる、零れんばかりの藍色の瞳を持つ美少女。彼女は媚びを売る様にセラヒムの腕に自身の両腕を絡ませて、彼の肩越しにミリオンを睨み付けて来る。
(わたしの婚約者にべったりと張り付いて何を言っているのかしら)
冷めた目で2人の様子を見るミリオンの耳に、更に信じがたい言葉が次々飛び込んで来る。
「別に彼女がどんな態度をとろうが構わないさ。私の婚約者は、この使徒を生む家系であるオレリアン伯爵家の血を引いていれば良いんだから。運命の恋人である可愛い君が、彼女に代わって婚約者となり、私の腕のなかで微笑んでいてくれさえすればそれで良いんだよ」
「まあ! セラヒム様ったらぁ」
既に婚約者交代となった後を想像したのだろうか。2人が現婚約者の目を憚らずいちゃつき出したのを見て、ミリオンはひっそりとため息をついたのだった。
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