ただ、そばにいさせて。

こすもす

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58 杏さん

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 口の中に残っていたものをよく噛まずに飲み込んでしまって焦った。
 涙目になりながら咳き込むと、杏さんはおしぼりを渡してくれた。

「き、聞いたん、ですか」
「はい。青山さんが自分の家で寝ているから、様子を見に行ってくれって電話があって。その時に『店長は俺のだから、変なことするなよ』って釘を刺されました」

 なんだその恥ずかしいセリフは。
 どうしてそれを妹に話してしまうのだ。変に思われるのかとか考えなかったのか。

 杏さんは何でもない風に軽く言って、再びお粥を口に運んでいる。
 昨日の大沢店長といい杏さんといい、どうしてみんなそんなに冷静なのだ? マイノリティに対する偏見などは無いんだろうか。
 
 些細ないたずらがバレてしまった幼児みたいな気持ちだった。
 気まずいけれど、思い切って杏さんに言った。

「すみません、お兄さんの将来を奪ってしまって」
「え? お兄ちゃんの将来?」
「僕じゃなくて、女の人と付き合った方がいいに決まってるのに」

 そうは言いながらも、今のこの気持ちは揺るがなかった。
 たとえ杏さんに『別れてください』とお願いされたとしても、もう無理だ。彼が求め続けてくれる限り、ぼくは彼のそばにいたい。

「それ、誰情報ですか?」

 杏さんに若者風に尋ねられて、僕は返答に困ったが言葉を紡ぎ出した。

「森下くんに夏頃、聞きました。お母様がいい人を紹介してくれる機会があったのに、彼は乗り気じゃないから断ったって。お母様は、普通の幸せを送ってくれることを願っているんですよね。杏さんだってきっと……」
「私はどうでもいいですよー。お兄ちゃんが男と付き合おうが女と付き合おうが、一生一人でいようが」

 冷たい言葉だが、投げやりに言っているような感じではなかった。
 兄は兄でいれば、それでいい。
 そんな思いを胸に抱いているんじゃないかと、口の両端を上げる杏さんを見て思った。

「いいんですか。僕は、森下くんと付き合っても」
「もちろん。それに、相手が青山さんだって分かって安心しましたよ。聞いた瞬間こそはびっくりしましたけど、本当にそれだけ。むしろ、あんなお兄ちゃんで大丈夫ですかってこっちが聞きたいです」
「大丈夫です。彼はちゃんと、優しいし」
「もし気に入らないことがあって言いづらかったら、私に言ってくださいね! 私がバシッとあいつに言ってやりますから」

 受け入れられるだなんて、そんなの奇跡だと思っていた。
 僕に好かれたと分かった男は、すぐに逃げるのが普通だと思っていた。
 杏さんのたおやかな眼差しに涙が滲んでしまったが、杏さんはそれにはあえて何も触れてこなかった。

「あんな人ですけど、ずっと付き合ってくれたら嬉しいです」

 追い討ちをかけてこないでほしい。
 腫れぼったかった目は余計にひどくなった。
 杏さんが、彼の妹で良かった。
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