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【3】セルフ・コンパッション

54 文哉の過去の話

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「まず、俺が精神科医を目指そうとしたきっかけを話そうか」

 心も体もようやく落ち着いたころ、フカフカのベッドに寝そべった僕の隣で、肘枕をした文哉さんは自身の過去についてポツポツと語っていった。

 文哉さんは小さいころ、極普通のしあわせな家庭のもとに生まれたと感じていた。

 なにかで不自由をしたこともない。
 やりたい習い事は一通り習わせてもらえたし、両親は優しくて、だが叱るべきところは叱り、良い人間のお手本のような存在だった。

 転機が訪れたのは、父親と、父親の不倫相手の死だった。
 文哉さんが高校に上がった頃、交通事故で亡くなった。

「父親が運転する車の助手席には、母親ではない女の人が乗っていて、その人も一緒に亡くなってしまった。不倫は、とても長い間続いていたんだ。それが分かってから、いろいろと変わった。あんなに優しくて笑顔を絶やさなかった母親だったのに、人が変わったように常に目を尖らせて、何かが気に障ると声を荒らげて泣き続けた」

 文哉さんの母親はその後、新しい恋人を作っては別れてを何度か繰り返したみたいだ。
 人は何かのきっかけで、良くも悪くも簡単に変わるものなのだと知り、助けたいと思ったのだそう。

 結局、その母親も病気で数年後に亡くなってしまったけれど、文哉さんの『人を救う仕事がしたい』気持ちは、変わらなかった。

「患者として俺のところに訪れたすずねは、少し、母親と笑い方が似ていた。それだけじゃなくて、急に泣き出したり、訳もなく怒り出すのも一緒だった。俺がどうにかしてあげたいと思ったんだ。だから辛いことがあっても、別れようとは思わなかった」

 母親を、助けられなかったからな。
 文哉さんはそう言って、少しだけ笑う。

「だけどある時から、知らない男を家に連れてくるようになった。俺が家に帰ると、ソファーで寄り添って座っていた。すずねには仕事の話をしていただけだと言われたが、数日後も同じことが起こった。今度は、別の男だった」
 
 僕だったら、耐えられるだろうか。
 文哉さんの帰りを待ち構えるように、知らない男性とすずねさんが笑い合っているところを想像すると、ゾッとした。

「アタッチメント障害って、聞いたことあるか」

 僕は首を横に振った。
 文哉さんは、どこかに思いを馳せているような目をする。

「幼少期に、親と安定した絆を築けなかった人などがなりやすいのだけど、他人に依存して、知らない人に対しても必要以上に親密な態度をとることがあるんだ。
 彼女は、幼い頃に辛い思いをしていたようだった。だから俺は、それなら仕方ないと分かっていたのに、いつのまにか自分の心がついていかなくなってた。理解をしてやりたいのに、精神科医のくせに、それが出来ずに足掻いていた」

 あんなに穏やかで優しい父親だったのに、実はずっと別の女性と不倫をしていたという、裏の顔があったこと。
 声を荒らげたことなど1度も無かった母親だったのに、裏切られたことによるショックで、人が変わってしまったこと。

 そして、すずねさんのこと。
 自分には理解の追いつかないことが、文哉さんの身に立て続けに起こってしまったのだろう。
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