いつまでも青空の下で待っている

灰湯

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第三話 偽りの夕暮れで

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「ねぇ、此処で何をしてるの?」

 翌日、誰かの声で環夜は目が覚めた。低くて艶のある声。でも、男とは違う。人間のものとは思えないほど美しい声だった。

 目を開けると視界に飛び込んできたのは大きな人だった。寝転がる環夜の横に座っている。座っていても、起き上がった環夜の二倍ほどはあった。
 その大きな人は寝転がっている環夜のことを覗き込んでいた。美しい蒼みがかった銀髪が、人工の太陽の光に照らされて輝いている。比率的に当たり前だが、瞳は大きく、髪と同じような蒼色をしている。睫毛も長い。

 環夜は恐怖で固まった。こんな廃虚にいる人は強盗か。なんにせよ、悪人である可能性は高い。それとも化物か。本当に、物語に出てきそうなほど美しいので、怪物と呼んでもおかしくなさそうだ。いや、怪物と言うより、妖精か。

 環夜は震える手で硬直した体をゆっくりと起こし、少しずつ距離を取る。腕に埋め込まれている液晶の時計画面にふと目がいった。時計は十五時三十分と表示されて、環夜は驚いて目の前の人のことなど忘れて時計を食い入るように確認した。恐ろしいほど寝坊してしまったらしい。
 環夜は寝坊したことよりも、それだけの間、熟睡できたことに驚いていた。

「答えないと君を射殺しないといけない。答えられないってことは疚しい事があるってことだからね。此処は立入禁止区画なんだよ」

 環夜は慌てて時計から目を離し、大きな人の方へ向く。そこで気が付いた。目の前に座る人の頭から生えている真っ赤な兎耳に。

 それは紛れもなく貴族と呼ばれる身分の人の特徴に一致していた。赤い兎耳のような触角に黒いひし形の模様、白黒の縞模様をした尻尾に先端は鳥の翼のようになっている。この日本皇国で天皇の次に高貴な人々。第四次世界大戦の英雄で国の守り神。服装は上衣と裳が繋がった服を着ていて裾は地面につくほど長い。袖も大きく膨らんでおり手の先端が見えないほど長い。刺繍や装飾品が多数ついている、いかにも貴族らしい・・・・・服装だった。そんな人がなぜ廃墟にいるのだろう。

「僕は亜奏 環夜です」

 環夜は寝起きでまだはっきりしない意識を活性化させながら、ひとまず答えた。貴族ならば答えても問題ないと判断した。国の中枢にいる貴族は当たり前のように国民の情報を持っている。調べようと思えばいつでも調べられてしまう。名乗らなかったところで分かってしまうのだ。それにこんなところで死を選ぶほど馬鹿ではない。

「……じゃあ、環夜。君は此処で何をしているの?」

 貴族の質問に環夜は答えるべきか迷った。家出だと判断されれば強制的に戻される可能性もある。それは絶対に避けたい。

「暮らしています」

 ひとまずそう答えた。これは家出ではなく、暮らしているだけ。此処が今の自分の家なのだと環夜は思う。
 貴族は環夜の言葉に一瞬納得した顔をして、その後驚いたように目を見張った。

「へー、暮らしているんだ。……ん?え、暮らすっ?え、いや…いやいや、此処廃墟だよね?貧民街のほうがまだ暮らしいやすいと思うけど、何で立入禁止の廃墟で暮らしているんだい?」

 やはり理由を聞かれてしまった。環夜は言い出せない。言葉が詰まってしまう。

「事情があるの?君はまだ成人してるようには見えないけど…」

 環夜は身長が低い為、幼く見えるのだろう。今朝で成人したというのに、まだ未成年に見られている。

「もう成人です」

 環夜ははっきりとした口調で答えた。初めて会う貴族の前だからか、緊張して声が堅くなる。

「親はいないの?」

 貴族は質問攻めだった。環夜の事情を察する気配は欠片もない。

「血の…繋がっている親は今、此処にはいません」

 環夜は言葉を濁らせながら言った。
 だが、環夜の濁した言い方に貴族はすかさず突っ込みを入れる。

「その言い方だと、義理の親はいるんだよね。どうして家に帰らないの?」

 本当に無神経だと環夜は思った。でもそれを口には出さない。この国で二番目に偉い位に立つ貴族に逆らえば、これから向かおうとしている上層地域にはもう入れなくなるだろう。下手したらこの地下都市を追放か。もしくは貧街に追いやられるか。いずれにしてもいいことなんてない。

「貴方には関係ないことです、貴族様」

 それでもつい、慇懃無礼な口調になってしまう。環夜は後悔して俯いた。

 ――選択肢を間違えた。此処は多少腹立たしくても素直に答えるべきだったのに。

「棘のある言い方だなぁ…。私が貴族だって、分かっていたの?」

 だが、貴族は苦笑するだけで怒り散らしたりはしなかった。少し驚いた表情で環夜に訊ねる。
 環夜はその質問にどもりながら答えた。てっきり貴族のお怒りを受けると考えていたからか、微笑み優しく問う貴族を見て困惑した。

「そ、その兎のような触角を見れば分かります。それが生えているのは貴族以外いませんから」

 環夜の回答に貴族は納得したように頷いた。

「まあ、確かにそうだよね。……というか、まずその敬語やめようか。さっきから気になってたっていうか、ずっと嫌だったんだけど、なんで貴族に対して皆堅い言葉で話すの?私もいきなり高圧的に話しかけて悪かったけど…。二人しかいないんだし、もっと砕けた口調で話そうよ」

 貴族のその提案を環夜は承諾できなかった。砕けた口調で話して、後でお咎めを受けてしまった時、罰せられるのは平民だけなのだ。一時の感情でしていいことではない。

「対等な立場じゃないので、対等に話す必要はないと思います」

 環夜は丁重に断った。なるべく貴族の気持ちを逆撫でないように気をつけたつもりだった。

「堅いなぁ…。お願いだよ。私はそういう身分の差をなくしたいんだ…貴族扱いしなくていい。しないでほしいんだ」

 貴族は表情を歪ませていった。環夜は苛立った。

 ――身分差をなくす?平民がもっと苦しい生活をしている中で贅沢しているお前らがそれをいうのか。身分関係なく接して怒るのは貴族のほうじゃないのか。

「……わかった」

 心では悪態をつくが結局のところ、貴族にお願いされれば、それは命令と同じことだ。断ることはできない。

「うん。じゃあ、君たちが貴族に望むことって何?」

 貴族は満足したように頷いて、さらに質問を投げかけた。
 環夜は誤魔化すことを諦めた。きっとこの貴族は、環夜が事情を話すまでいくらでも質問してくるだろう。
 環夜はこれまでの経緯を話し始めた。

「…僕の実母は上層地域に行ったらしい。上層地域は内戦が起きていて危ないから僕のことは連れていけないって。だから僕は…」
「なるほどね…だから環夜は此処で暮らしていたんだね。…戦争をなくして欲しい?」

 途中で話の腰を折るように貴族が口を挟む。環夜は苛立ちを抑えて、首を横に振った。

「…無理なのは分かっている。今だって、上層地域では反政府軍と政府軍との戦争が起こっているんでしょ?」

 環夜の言葉に貴族は沈んだ表情になる。兎のように立っていた触角は力なく垂れ、尻尾が微かに揺れた。

「戦争…内戦ね。うん、起こっている。だから私はそれを止めたい。争いをなくしたい。…綺麗事かもしれないけど…信じてもらえないかもしれないけど…」

 力なく言う貴族に対して環夜は違和感を覚えた。内戦が起こっているのは国に不満を持つ者がいるせいだ。内戦を止められないのは政府軍が無能だからであって、貴族が贅沢をしているからでもある。
 そして、そもそも争いをなくすことなど不可能だ。人類が存在している限り、人と人の衝突は必然的なのだ。

「……信じられない」

 環夜は一言そう呟いた。これは本心だった。上層地域の現状は下層地域には部分的にしか入ってこない。だから実際はどうかわからない。でも、噂で聞く限り政府が、貴族が、内戦回避の対策を取っているとは感じられない。

「そうか、信じられないか。…そうだよね。普通はそうだ」

 貴族は拳を握り締め、肩を震わせた。眉間には皺を寄せ、唇は固く結ばれている。
 環夜は貴族の考えを堂々と否定してしまったことに気が付き、慌てて言葉を紡ぐ。

「でも、貴族に僕が望むことは戦争をなくしてもらうことだけだよ。僕たち平民には何もできないから…」

 これは本心ではない。貴族に望むことなどない。そもそも、貴族は環夜たち平民にとって雲の上の存在だ。平民などの意見を聞き届けてくれる訳がない。

「環夜。……ねぇ、環夜。私の……同志になって。私と共に国を変えて欲しい。同じ志を持つものとして共にこの国を変えていこう。……協力してくれないかい?」

 貴族は環夜の肩に手を置いて、真剣な表情で聞いた。環夜は返事に困った。自分よりも身分の高い貴族の同志になどなれる訳がないからだ。それになりたくもない。今日初めて会った人、それも貴族と同志になるなんてこと普通ではない。簡単なことではない。

「それは…」

 環夜はそれ以上何も言えなかった。承諾してしまえば、もう引き返せない。きっと貴族にこき使われることになり、実母を探すこともできなくなるだろう。
 沈黙する環夜の肩から手をどけると、貴族は立ち上がり空を見上げた。肩に薄っすら掛かる美しい蒼色の髪が風に靡く。

 「この偽りの夕暮れも、固く閉ざされた空も、全ていらないものだと思わないかい?…私は変えたいんだ。昔のような青空を全ての民が見られるような国に。今は猛毒の空気が溢れ返る地上も、昔のように緑溢れる大地に戻して、また地上で暮らせるように。私達貴族だけでなく、平民も。そんな世界を作りたいんだ」

 環夜も貴族と同じように空を見上げた。
 映像で作られた幻の空は美しいと思えば美しいが、現実ではない。薄っぺらい映像で出来た雲の上は、決して開くことのない人工的に作られた金属質の天井があるだけだった。
 太陽の光も、風も、雨も、全てが偽りのもので、この暖かな夕日さえ、人間の作った幻覚だ。
 機械質な街には微かに緑が生えているものの、美しい大自然や、花々や、海、野生動物などは一切いない。

 だが、無理もなかった。此処は地下都市なのだ。環夜にとっては、この人工的な空こそ本当の空で、地下都市の生活が普通なものなのだ。それをいらないとは判断できない。

「いいよ。でも、条件がある。…僕の実母探しを手伝って欲しい。僕は本当の母親に会えさえすれば何でも手伝うよ」

 だから、環夜は賭けに出た。本来なら交換条件など通用しない相手に向かって無謀ながら、それを試みている。
 実のところ、本当の母親を探すことは環夜一人では困難だった。下層地域の四倍以上いる人口の中でたった一人の肉親を見つけ出すことは不可能に近い。環夜は実母の仕事すら何なのか知らないのだから。

「本当…?協力してくれるんだね。ありがとうっ環夜。うん、わかったよ。君の母親は探しておく。母親の名前はわかる?」
「亜奏……亜奏 那智子。母からの手紙にはそう書いてあった」

 環夜は間をおいてから答えた。調べればわかるはずなのに、なぜ直接聞いたのか少し疑問に思った。

「那智子ね。うん、探しておくよ」

 貴族は懐から取り出した紙に名前を書き取った。
 先程まで夕焼け空だった旧地下都市区域も、すでに暗くなり始めていて、腕に埋め込まれている時計を見ると、十七時を回っていた。

「もう帰らなきゃ。…あ、そういえば環夜。君はもう成人だよね?そうしたら明日にでも上層地域に行ける。そうでしょ?」

 貴族が時間を確認して帰ろうと歩き出した時、何か思い出したように環夜に向かって引き返してきて言った。

「えっ?そうだけど」
「君にこれをあげる。昇降機の搭乗券。年間搭乗券で一年間ならいくらでも無料で乗れるやつだよ。私のだけど、無くしたらいけないから予備もあげるね」

 貴族は環夜の手の中に名刺ほどの大きさをした金属板を三枚押し込んだ。

「三枚も…絶対にこんなにいらないよ。一枚あれば十分だと思う」

 環夜は慌ててそれを貴族に返すが、貴族はそれを制した。

「君が確実に上層地域に来られるように。私はまだ持ってるし、全部あげるから」

 環夜は納得がいかなかったが、無くしたりしてしまう可能性も考えると、このまま持っていたほうが利点があると思って背負い鞄の内袋の中に入れた。目上からの施しは受けておくに越したことはない。

「わかったよ。ありがとう」
「うん、じゃあまた上層地域で会おう!私の名前はアリゾネ・シュバリエ。覚えておいてね、環夜」

 貴族アリゾネは嬉しそうに環夜に向かって手を振ると、軽々と高層住宅の廃墟を飛び越えて暗闇に消えていった。
 環夜は人工の空に浮かぶ月を見ながら、上層地域に行く支度を整えた。明日などではなく、今日行くべきだと考えたのだ。

 ――これが貴族の何かしらの策略ならば、明日になる前に行動するべきだ。あの貴族は僕が明日、上層地域に行くと思っている。だから今日行くことで貴族を出し抜ける。安全に向かえる。

 環夜は立ち上がり帽子を深く被ると、荷物を背負い公園を出た。そして月明かりの下を静かに歩き始めた。
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