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Phase:02 現実は筋書きよりも奇なり
side A 川岸家の日常(上)
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部屋の戸を閉め、荷物を手に階段を下りると、一番下の段で一頭の大型犬が「お座り」の姿勢でニコニコしながら尻尾を振っていた。
あたしが中学生になった年に我が家へやってきた、バーニーズ・マウンテン・ドッグのベルナルド。通称ルナール、男の子だ。
「おはよう、ルナール」
「ワンッ!」
元気よく吠える声に反応して、自動的に〈Psychic〉の犬語・猫語翻訳アプリが立ち上がる。ルナールの頭上に表示された吹き出しによれば、今のは【おはよう!】と言っていたみたい。
わんぱくな弟はいつも、朝の散歩を終えるとすぐにリビングで二度寝する。そして、あたしが遅刻寸前になってドタバタと慌てる足音を聞きつけ、いそいそと起きてきてここで待つのが日課だ。なにしろ――
【ねえねえ、ごはん? それとも遊ぶ?】
「ごはんにしよっか」
「ワン!【待ってました!】」
動物病院に連行される場合を除き、姉に会って損をすることはないのだから。
「あら。澪が時間どおりに起きてくるなんて、今日は雪が降りそうね」
「うっさいクソババア。もう出るの?」
「新学期は色々と準備があんのよ。アンタの入学式に出たかったのは山々だけど」
「結構ですよーだ。鈴歌も一緒だし」
入れ違いに家を出ようとしているお母さんは、家から車で五分ほどのところにあるあたしの母校、逢桜南小学校の先生。やや赤みのかった黒髪をポニーテールにまとめ、ベージュのパンツスーツにパンプスを履いて、出勤準備万端だ。
「鈴歌ちゃんねー。本当はつくばに行くはずだったんでしょ? 日本中からあらゆる分野の天才児を集めた国の英才教育研究機関、ギフテッド学園とやらに呼ばれてさ」
「それが、逢桜町民だからって理由で入学取り消しだもんなあ。出身地のせいで進路を閉ざされるなんてひどすぎるよ。こんなの差別じゃないか」
そして、キッチンから小さなバッグを持って顔を出したのが、兼業主夫系逢桜町職員・川岸一徹。白シャツに黄色いエプロンが似合う、茶色いマッシュルーム頭のお父さんです。
「それはそうと、流華さん。お弁当」
「ん。ありがと、一徹」
「あと……その胸飾り? すごく似合ってるよ」
「あ? 胸飾りって何だよおまえ、朝からいやらしいな!」
「ええ!?」
この二人、たまにこうしてヤンキーと因縁をつけられるいじめられっ子の構図になるけど、決して仲は悪くない。相手の許容範囲を超える言動は厳禁、もしも超えたらはっきり抗議。そんな川岸家のルールに則った、愛あるイジりこそが家庭円満の秘訣だ。
もちろんそれは、一人娘のあたしにも適用される。口汚くけなしても追い出されないのは、きっと十人十色な反抗期の子どもと町民相手に経験を積んだこの二人があたしの親だから、だろうな。
「誤解だよ誤解、女の人のアクセサリーなんて名前分かんないって!」
「だったら覚えときな。コサージュっていうんだよ」
「はい。すいません……」
「ま、妻のささいな変化に気づくだけでも及第点さね。役場は分からず屋で無関心な奴ばっかだと思ってたけど、アンタは見る目が――」
お父さんの胸元を歩くヒヨコのイラストを指先で小突き、お母さんが快活に笑う。でも、和やかな空気はそこまでだった。
女教師は急に顔を曇らせ、玄関の土間からきょとんとする夫を見上げる。少しくたびれた首元のネクタイが、今日も黒無地だったから。
「鈴木くん、だっけ。教育総務課の」
「うん、南小にも時々顔出してた『スズキなのにカワサキ乗り』が持ちネタの人。十時に正面玄関前でお見送りするんだ」
「これで何人目? 上司、後輩、共通の知人。アンタの同僚、何人死んだ?」
「ごめん、流華さん。守秘義務があるから家族でも言えない」
「そんなこと分かってる!」
「じきたん」では、毎日〈特定災害〉による町民の死傷者数が公表されている。ただ、年代や職業、被害に遭った場所などの詳しい内訳は、個人の特定を避けるためとして教えてもらえない。
そうして不安ばかりが増す中、あたしは不穏な噂を聞いた。あの日から役場と警察署、消防署、県の合同庁舎にはずっと半旗が掲げられ、毎日のようにそのどこかから霊柩車の警笛が聞こえると。
「本当は、役場なんて今すぐ辞めちまえって言いたい。というか今言った。次はアンタの番だって、たぶんみんな思ってる」
「……ごめん」
「総務課の課長補佐、防災担当になって二年。あの事件を受けて、アンタの部署は危機管理課に格上げされたって聞いた」
「うん。そうだね」
「正直に答えて。アンタ、本当に――」
室内に緊張が走る。お父さんの答えによっては、夫婦ゲンカ一直線だ。固唾を飲んで見守るあたしとルナールの前で、お母さんが再び口を開いた。
「人事からロクに説明もないまま庁舎外に飛ばされて、サッカーチームの運営事務局入って、駅前でグッズとチケット売りさばいてんの?」
「はぇ?」
えーと……何ですと、母上? 名前どおりマジメ一徹で平々凡々、うだつが上がらないうちの父上が、今どこで何してるって?
「売りさばいてませんー。企画・宣伝と渉外が仕事ですー」
「すっかり民間に染まってんじゃねーか!」
「ご安心ください。災害とは程遠い、エキサイティングな町おこしに従事しております。疑うなら事務所においでよ、やましいことなんてないもんね!」
本人いわく、この四月からeスポーツの一種・MRサッカーのプロクラブ「FC逢桜ポラリス」の運営事務局へ町の代表として派遣されることになったんだって。
口が裂けても言えないけど、理由はだいたい察しがつく。だって……家族にすら頭の上がらない優男が、町の防災責任者では……ね?
「総務課には同格の人がいたけど、今はいない。より大きな仕事を任せてもらえてるってことだよ。もっと喜んでよ二人とも」
「あーはいはい、おめでとうございま~す。夕飯はお祝いがてらアンタの好物にしよう」
「雑ゥ! テキトー! そして唐揚げ作るの僕なんですけど!」
「よく分かってんじゃん」
「でも、人のことなまらボロカスに叩いておいて閉店間際の酒屋に駆け込み、賞味期限間際で値引きされた安物のシャンパン買ってきてくれるツンデレドS良妻が流華さんなんだよなぁ。そういうところ大好き」
「だっ……靴ベラで引っぱたくぞオラァ!」
「いやー! 体罰反対ー!」
デジタル化が進んだとはいえ、日本の教育現場はまだまだ過酷で、未だ働き過ぎといわれる職業のひとつ。特に新学期は、サービス残業で夜の九時十時に帰ってくることなんかザラにある。
そうなると平日の夜、我が家のキッチンに立つのは比較的帰りの早いお父さんだ。北海道・帯広の牧場が実家かつ農業高校の出だから、大量の野菜を苦もなく食わせる調理法を体得しているおかげで、あたしは好き嫌いがほとんどない。
お母さんも不規則な生活なのに、肌荒れもなく体型を維持できている。これは明らかに総料理長の功績だね。
「ところで、MRサッカーってのは要するにゲームなんだろ?」
「そこはeスポーツって言ってほしいなあ」
「選手がイケメン揃いでも試合内容がクソ、実況が下手、詳しすぎて一見さんお断り……スタートダッシュでコケる要素しかない、町長肝入りの地雷プロジェクト運営とか大草原なんだけど」
「草生やさないでよ、ちゃんとした事業計画があるんだから! その一つが現役Jリーガーの起用。ポラリスには親会社を同じくするJ3のクラブから現役選手が二人も来て――」
「ああやだ、もうこんな時間! 一徹、帰ったらアタシと澪に詳しく教えなさいよ。これから注目を集めそうな話題だしね」
「はいはい。承知しました、流華先生」
そう言うと、お母さんは弁当の入ったバッグを受け取り、玄関のドアノブへ手をかけた。後ろからルナールが【行ってらっしゃい!】と吠える。
ところが、取っ手をひねる前に扉が開いて、バランスを崩した拍子に脱げたお母さんの赤い靴が後ろに立つあたしの額にクリーンヒット。廊下に転がり悶絶する娘に父は呆然、ビビりな弟は尻尾を巻いてリビングへ飛んでいった。
「あいったぁぁぁぁぁぁ!」
「澪! うるさい!」
「靴脱ぎ散らかしたのはお母さんでしょ!」
「あーあー、二人とも落ち着いて! そもそもなんで玄関が……」
「お父さんは黙ってて!」
女二人に一喝され、お父さんはすっかり縮み上がってしまった。あたしの茶碗に白米をよそいながら「ルナール! 助けて~!」と泣き言をこぼす。
そんなお騒がせドタバタ劇の渦中に、颯爽と現れたのが――
あたしが中学生になった年に我が家へやってきた、バーニーズ・マウンテン・ドッグのベルナルド。通称ルナール、男の子だ。
「おはよう、ルナール」
「ワンッ!」
元気よく吠える声に反応して、自動的に〈Psychic〉の犬語・猫語翻訳アプリが立ち上がる。ルナールの頭上に表示された吹き出しによれば、今のは【おはよう!】と言っていたみたい。
わんぱくな弟はいつも、朝の散歩を終えるとすぐにリビングで二度寝する。そして、あたしが遅刻寸前になってドタバタと慌てる足音を聞きつけ、いそいそと起きてきてここで待つのが日課だ。なにしろ――
【ねえねえ、ごはん? それとも遊ぶ?】
「ごはんにしよっか」
「ワン!【待ってました!】」
動物病院に連行される場合を除き、姉に会って損をすることはないのだから。
「あら。澪が時間どおりに起きてくるなんて、今日は雪が降りそうね」
「うっさいクソババア。もう出るの?」
「新学期は色々と準備があんのよ。アンタの入学式に出たかったのは山々だけど」
「結構ですよーだ。鈴歌も一緒だし」
入れ違いに家を出ようとしているお母さんは、家から車で五分ほどのところにあるあたしの母校、逢桜南小学校の先生。やや赤みのかった黒髪をポニーテールにまとめ、ベージュのパンツスーツにパンプスを履いて、出勤準備万端だ。
「鈴歌ちゃんねー。本当はつくばに行くはずだったんでしょ? 日本中からあらゆる分野の天才児を集めた国の英才教育研究機関、ギフテッド学園とやらに呼ばれてさ」
「それが、逢桜町民だからって理由で入学取り消しだもんなあ。出身地のせいで進路を閉ざされるなんてひどすぎるよ。こんなの差別じゃないか」
そして、キッチンから小さなバッグを持って顔を出したのが、兼業主夫系逢桜町職員・川岸一徹。白シャツに黄色いエプロンが似合う、茶色いマッシュルーム頭のお父さんです。
「それはそうと、流華さん。お弁当」
「ん。ありがと、一徹」
「あと……その胸飾り? すごく似合ってるよ」
「あ? 胸飾りって何だよおまえ、朝からいやらしいな!」
「ええ!?」
この二人、たまにこうしてヤンキーと因縁をつけられるいじめられっ子の構図になるけど、決して仲は悪くない。相手の許容範囲を超える言動は厳禁、もしも超えたらはっきり抗議。そんな川岸家のルールに則った、愛あるイジりこそが家庭円満の秘訣だ。
もちろんそれは、一人娘のあたしにも適用される。口汚くけなしても追い出されないのは、きっと十人十色な反抗期の子どもと町民相手に経験を積んだこの二人があたしの親だから、だろうな。
「誤解だよ誤解、女の人のアクセサリーなんて名前分かんないって!」
「だったら覚えときな。コサージュっていうんだよ」
「はい。すいません……」
「ま、妻のささいな変化に気づくだけでも及第点さね。役場は分からず屋で無関心な奴ばっかだと思ってたけど、アンタは見る目が――」
お父さんの胸元を歩くヒヨコのイラストを指先で小突き、お母さんが快活に笑う。でも、和やかな空気はそこまでだった。
女教師は急に顔を曇らせ、玄関の土間からきょとんとする夫を見上げる。少しくたびれた首元のネクタイが、今日も黒無地だったから。
「鈴木くん、だっけ。教育総務課の」
「うん、南小にも時々顔出してた『スズキなのにカワサキ乗り』が持ちネタの人。十時に正面玄関前でお見送りするんだ」
「これで何人目? 上司、後輩、共通の知人。アンタの同僚、何人死んだ?」
「ごめん、流華さん。守秘義務があるから家族でも言えない」
「そんなこと分かってる!」
「じきたん」では、毎日〈特定災害〉による町民の死傷者数が公表されている。ただ、年代や職業、被害に遭った場所などの詳しい内訳は、個人の特定を避けるためとして教えてもらえない。
そうして不安ばかりが増す中、あたしは不穏な噂を聞いた。あの日から役場と警察署、消防署、県の合同庁舎にはずっと半旗が掲げられ、毎日のようにそのどこかから霊柩車の警笛が聞こえると。
「本当は、役場なんて今すぐ辞めちまえって言いたい。というか今言った。次はアンタの番だって、たぶんみんな思ってる」
「……ごめん」
「総務課の課長補佐、防災担当になって二年。あの事件を受けて、アンタの部署は危機管理課に格上げされたって聞いた」
「うん。そうだね」
「正直に答えて。アンタ、本当に――」
室内に緊張が走る。お父さんの答えによっては、夫婦ゲンカ一直線だ。固唾を飲んで見守るあたしとルナールの前で、お母さんが再び口を開いた。
「人事からロクに説明もないまま庁舎外に飛ばされて、サッカーチームの運営事務局入って、駅前でグッズとチケット売りさばいてんの?」
「はぇ?」
えーと……何ですと、母上? 名前どおりマジメ一徹で平々凡々、うだつが上がらないうちの父上が、今どこで何してるって?
「売りさばいてませんー。企画・宣伝と渉外が仕事ですー」
「すっかり民間に染まってんじゃねーか!」
「ご安心ください。災害とは程遠い、エキサイティングな町おこしに従事しております。疑うなら事務所においでよ、やましいことなんてないもんね!」
本人いわく、この四月からeスポーツの一種・MRサッカーのプロクラブ「FC逢桜ポラリス」の運営事務局へ町の代表として派遣されることになったんだって。
口が裂けても言えないけど、理由はだいたい察しがつく。だって……家族にすら頭の上がらない優男が、町の防災責任者では……ね?
「総務課には同格の人がいたけど、今はいない。より大きな仕事を任せてもらえてるってことだよ。もっと喜んでよ二人とも」
「あーはいはい、おめでとうございま~す。夕飯はお祝いがてらアンタの好物にしよう」
「雑ゥ! テキトー! そして唐揚げ作るの僕なんですけど!」
「よく分かってんじゃん」
「でも、人のことなまらボロカスに叩いておいて閉店間際の酒屋に駆け込み、賞味期限間際で値引きされた安物のシャンパン買ってきてくれるツンデレドS良妻が流華さんなんだよなぁ。そういうところ大好き」
「だっ……靴ベラで引っぱたくぞオラァ!」
「いやー! 体罰反対ー!」
デジタル化が進んだとはいえ、日本の教育現場はまだまだ過酷で、未だ働き過ぎといわれる職業のひとつ。特に新学期は、サービス残業で夜の九時十時に帰ってくることなんかザラにある。
そうなると平日の夜、我が家のキッチンに立つのは比較的帰りの早いお父さんだ。北海道・帯広の牧場が実家かつ農業高校の出だから、大量の野菜を苦もなく食わせる調理法を体得しているおかげで、あたしは好き嫌いがほとんどない。
お母さんも不規則な生活なのに、肌荒れもなく体型を維持できている。これは明らかに総料理長の功績だね。
「ところで、MRサッカーってのは要するにゲームなんだろ?」
「そこはeスポーツって言ってほしいなあ」
「選手がイケメン揃いでも試合内容がクソ、実況が下手、詳しすぎて一見さんお断り……スタートダッシュでコケる要素しかない、町長肝入りの地雷プロジェクト運営とか大草原なんだけど」
「草生やさないでよ、ちゃんとした事業計画があるんだから! その一つが現役Jリーガーの起用。ポラリスには親会社を同じくするJ3のクラブから現役選手が二人も来て――」
「ああやだ、もうこんな時間! 一徹、帰ったらアタシと澪に詳しく教えなさいよ。これから注目を集めそうな話題だしね」
「はいはい。承知しました、流華先生」
そう言うと、お母さんは弁当の入ったバッグを受け取り、玄関のドアノブへ手をかけた。後ろからルナールが【行ってらっしゃい!】と吠える。
ところが、取っ手をひねる前に扉が開いて、バランスを崩した拍子に脱げたお母さんの赤い靴が後ろに立つあたしの額にクリーンヒット。廊下に転がり悶絶する娘に父は呆然、ビビりな弟は尻尾を巻いてリビングへ飛んでいった。
「あいったぁぁぁぁぁぁ!」
「澪! うるさい!」
「靴脱ぎ散らかしたのはお母さんでしょ!」
「あーあー、二人とも落ち着いて! そもそもなんで玄関が……」
「お父さんは黙ってて!」
女二人に一喝され、お父さんはすっかり縮み上がってしまった。あたしの茶碗に白米をよそいながら「ルナール! 助けて~!」と泣き言をこぼす。
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