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丘に咲き群れるブルーサルビア〜兄がいて、陽也がいて、私がいた夏
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あくる朝、私は、
光を見つけた気がした。
病室から出て、廊下を歩いていた時だ。
まっすぐ目の前に続く廊下に、窓から光がさしていた。
雨雲の多い日だったが、雲の割れ目から、金色の光が帯状にいくつも伸びていたのだ。
私は、その景色を見て、
〝きれい〟と素直に思えた。
不安や、
猜疑心や、
恐怖心のまざらない、
単色の感情だった。
その日、なぜか私はすごく頭がすっきりとしていて、頭の中が混沌としていなかった。
だから、久しぶりに現実の景色をありのままで眺められた気がした。
そのことに、私はなぜかとても安堵した。
私は窓際に立って丘を眺めた。
青いサルビアが、丘の一ヶ所に群生していた。
丘を染料で染めたような真っ青な色が、
風にいっせいに揺れていた。
その色はあまりに鮮やかで、この世の景色と思えないくらいだった。
奇妙で独特で現実味がない。それでいて、夏のにおいがする色だった。
私がいて、兄がいて、陽也がいた、
今年の夏を凝縮したような景色だった。
私は長い間、丘に群れ咲くその花々を眺めていた。
そして、ゆっくりと今年の夏を噛み締めていた。
気がつけば、八月がもう終わりかけていた。
• • •
兄との思い出の話をしたい。
私の右のふとももの付け根あたりには、ほくろが一つある。
私は、そのほくろの存在に、四歳くらいの時に初めて気がついた。
四歳のある日、私は兄が高校から帰ってくるのを待っていた。廊下にペタンと両足を投げ出して、壁にもたれて、スカートを手でもてあそびながら。
その時、ふと、足の付け根に黒い点を見つけた。
私はそれが、〝ほくろ〟という名前のものだと知らなくて、なんだろうと思ってしげしげと見つめた。
その時に兄が帰ってきた。
玄関に腰を下ろして、
「ただいま」と言いながら靴を脱いでいる兄に、私は駆けよった。
そしてスカートの裾を手で持ち上げ、自分のふとももにある黒い点を兄に見せた。
「ねえ、これなあに?」
兄は、ああ、と言うと、ちょっとイタズラっぽく笑って、
「夏音の印だよ。僕がつけたんだ」
と言った。
それは、兄が私についた唯一の嘘だった。
なぜ、兄がその時に限って、そんな気まぐれな嘘をついたのかは分からないが、
私は兄のその嘘をすっかり信じてしまったのだった。
兄がつけた私の印!
私は、それがとても特別なものに思えて、それからしばらく朝に夕にそれを眺めていた。
兄の病室でその思い出話をすると、
兄は「覚えてないな」と言って、申し訳なさそうな顔をした。
兄は最近ではすっかり病状が落ちついていて、入院以前のような兄の雰囲気を取り戻していた。
「覚えてなくていいの」
私は兄に言った。
私は椅子に腰かけて、兄はベッドに腰かけていた。病室には私達二人しかいなかった。
「ただ、私にとっては、とても特別な思い出だったの」
私は、右の大腿の付け根を、スカートの上からそっとなでた。
「そうだったんだね」と兄は言う。
「でも、いつまでも、その思い出を大切に思わなくていいよ」
私はなんとなく寂しい気持ちがして、
「どうしてそんなことを言うの?」
と言った。
兄はその問いには答えずに、優しく私の頭を撫でた。
兄の手は、以前と変わらず優しかった。
だけど、どこかが違っていた。
いや、違ってしまったのは、兄ではなく私の方なのかもしれない。
私は、幼い頃から兄に初恋に似た憧れをいだいていた。
でももう今は……。
病室の窓が空いていて、風がカーテンを柔らかく揺らしている。それを眺めながら陽也を思い浮かべた。
陽也のことを思い出すと、体温が一度上がる。
兄に憧れていた女の子は、もうここにはいなかった。
その女の子は、いつ私の中から消えてしまったんだろう。
今振り返れば、陽也の部屋で一緒に勉強をした日には、すでにいなかったのだろうと思う。
じゃあ、いつから?
王様ゲームをした日だろうか。
映画に二人で行った日だろうか。
それとも、それより以前から、私はすでに陽也に惹かれていたんだろうか。
窓の外ではツクツクボウシが鳴いていた。
夏が終わろうとしている。
時間が、私を未来へ押し流していく。
陽也に会いたい、と私は思った。
その思いは、金平糖のような、甘やかな気持ちを心に降り注いだ。
そして、同時に不安ももたらした。
私は、いつになれば、ここを出られるのだろう。
いつになれば、陽也に会えるだろう。
次に会ったとき、陽也は病気を抱えた私を受け入れてくれるだろうか。
会いたいけれど、会うのが怖い。
そんなふうにも思った。
私の中に、矛盾した思いが膨らむ。
私は苦しくなる。
だけど、そんな私を、兄の思い出は癒してくれなかった。
兄に癒され、兄に包まれ、兄に甘やかされていた少女時代は、終わってしまったのだった。
続く~
光を見つけた気がした。
病室から出て、廊下を歩いていた時だ。
まっすぐ目の前に続く廊下に、窓から光がさしていた。
雨雲の多い日だったが、雲の割れ目から、金色の光が帯状にいくつも伸びていたのだ。
私は、その景色を見て、
〝きれい〟と素直に思えた。
不安や、
猜疑心や、
恐怖心のまざらない、
単色の感情だった。
その日、なぜか私はすごく頭がすっきりとしていて、頭の中が混沌としていなかった。
だから、久しぶりに現実の景色をありのままで眺められた気がした。
そのことに、私はなぜかとても安堵した。
私は窓際に立って丘を眺めた。
青いサルビアが、丘の一ヶ所に群生していた。
丘を染料で染めたような真っ青な色が、
風にいっせいに揺れていた。
その色はあまりに鮮やかで、この世の景色と思えないくらいだった。
奇妙で独特で現実味がない。それでいて、夏のにおいがする色だった。
私がいて、兄がいて、陽也がいた、
今年の夏を凝縮したような景色だった。
私は長い間、丘に群れ咲くその花々を眺めていた。
そして、ゆっくりと今年の夏を噛み締めていた。
気がつけば、八月がもう終わりかけていた。
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兄との思い出の話をしたい。
私の右のふとももの付け根あたりには、ほくろが一つある。
私は、そのほくろの存在に、四歳くらいの時に初めて気がついた。
四歳のある日、私は兄が高校から帰ってくるのを待っていた。廊下にペタンと両足を投げ出して、壁にもたれて、スカートを手でもてあそびながら。
その時、ふと、足の付け根に黒い点を見つけた。
私はそれが、〝ほくろ〟という名前のものだと知らなくて、なんだろうと思ってしげしげと見つめた。
その時に兄が帰ってきた。
玄関に腰を下ろして、
「ただいま」と言いながら靴を脱いでいる兄に、私は駆けよった。
そしてスカートの裾を手で持ち上げ、自分のふとももにある黒い点を兄に見せた。
「ねえ、これなあに?」
兄は、ああ、と言うと、ちょっとイタズラっぽく笑って、
「夏音の印だよ。僕がつけたんだ」
と言った。
それは、兄が私についた唯一の嘘だった。
なぜ、兄がその時に限って、そんな気まぐれな嘘をついたのかは分からないが、
私は兄のその嘘をすっかり信じてしまったのだった。
兄がつけた私の印!
私は、それがとても特別なものに思えて、それからしばらく朝に夕にそれを眺めていた。
兄の病室でその思い出話をすると、
兄は「覚えてないな」と言って、申し訳なさそうな顔をした。
兄は最近ではすっかり病状が落ちついていて、入院以前のような兄の雰囲気を取り戻していた。
「覚えてなくていいの」
私は兄に言った。
私は椅子に腰かけて、兄はベッドに腰かけていた。病室には私達二人しかいなかった。
「ただ、私にとっては、とても特別な思い出だったの」
私は、右の大腿の付け根を、スカートの上からそっとなでた。
「そうだったんだね」と兄は言う。
「でも、いつまでも、その思い出を大切に思わなくていいよ」
私はなんとなく寂しい気持ちがして、
「どうしてそんなことを言うの?」
と言った。
兄はその問いには答えずに、優しく私の頭を撫でた。
兄の手は、以前と変わらず優しかった。
だけど、どこかが違っていた。
いや、違ってしまったのは、兄ではなく私の方なのかもしれない。
私は、幼い頃から兄に初恋に似た憧れをいだいていた。
でももう今は……。
病室の窓が空いていて、風がカーテンを柔らかく揺らしている。それを眺めながら陽也を思い浮かべた。
陽也のことを思い出すと、体温が一度上がる。
兄に憧れていた女の子は、もうここにはいなかった。
その女の子は、いつ私の中から消えてしまったんだろう。
今振り返れば、陽也の部屋で一緒に勉強をした日には、すでにいなかったのだろうと思う。
じゃあ、いつから?
王様ゲームをした日だろうか。
映画に二人で行った日だろうか。
それとも、それより以前から、私はすでに陽也に惹かれていたんだろうか。
窓の外ではツクツクボウシが鳴いていた。
夏が終わろうとしている。
時間が、私を未来へ押し流していく。
陽也に会いたい、と私は思った。
その思いは、金平糖のような、甘やかな気持ちを心に降り注いだ。
そして、同時に不安ももたらした。
私は、いつになれば、ここを出られるのだろう。
いつになれば、陽也に会えるだろう。
次に会ったとき、陽也は病気を抱えた私を受け入れてくれるだろうか。
会いたいけれど、会うのが怖い。
そんなふうにも思った。
私の中に、矛盾した思いが膨らむ。
私は苦しくなる。
だけど、そんな私を、兄の思い出は癒してくれなかった。
兄に癒され、兄に包まれ、兄に甘やかされていた少女時代は、終わってしまったのだった。
続く~
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