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急性期 〜 顔のない黒い影と一筋の光

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これは、兄から聞いた話だ。

兄が恋人と別れる直前の話。
兄が二十四歳になった誕生日の日、恋人は誕生日ケーキのロウソクに火を灯しながらこう言ったそうだ。

「私、あなたに絶大な信頼をおいていたの。
あなたは、寛容で人格者で、
私の理想の人だと思ってた。
私を一生支えてくれる人だって……。
でも、あなたの中で、何かがかけちがってしまった。
あなたと生きていくには、
あなただけじゃなくて、
あなたの病気とも向き合う覚悟がいるわ。
私には、その覚悟がなかったの」

恋人は、部屋の電気を消した。
暗い部屋の中で、ロウソクの炎がゆらゆらと揺れていた。
その小さな明かりの向こうに、恋人の顔がぼんやりと見えていた。 

「誕生日、おめでとう」

恋人は、そう言って、火を吹き消した。

部屋が闇に沈む。

その闇の中で、恋人は小さく、別れの言葉をつぶやいたそうだ。

兄の身内である私からすれば、彼女はなんて薄情なんだろうと思う。

けど、彼女にとったら、恋とか愛とか感情とかでは割り切れない事情があったんだろう。
人はそれぞれいろんなものを抱えて生きている。
だから、彼女を薄情と責めることもできない。
兄の告白は、私に消化できないモヤモヤとした思いを残した。

        •      •     •


入院してから二週間が経った。
兄には、談話室で時々会う。
兄は脱走したその日に、警察に発見されて病院へ連れ返されていたらしい。

私が入院したのと同日だ。

私はそれを、少し日が経ってから主治医から聞かされた。
入院当初、私はとても混乱していたので、
混乱が落ちついてから知らせようと思ったのだろう。

現在、私は、周囲の様子や自分の置かれている状況がなんとなく理解できるようになった。
主治医や看護師さんとも会話が成り立つようになった。
入院当初は、私は他人がしゃべっていることがさっぱり頭に入ってこなかった。
自分が伝えたいことも、ちゃんと脈絡のある文章にならなかった。

言葉が頭の中でてんでばらばらにちらばって、意味をもって繋がってくれないような状態だったのだ。
頭の中はまるでペルシャ絨毯のようだった。頭の中に、色とりどりの言葉が散らばり、細胞のように勝手に増殖していく。

今はそんなことはない。
混乱が落ち着いた頃から、父母との面会も許されるようになった。

病院での生活は、思ったほど窮屈でも不便でもなかった。
作業療法というレクリエーションのようなものもあるし、
看護師さんの付き添いがあれば、中庭にも散歩に出られた。
勉強をしたいと言えば、部屋に参考書も置かせてくれた。
食事も風呂も困らないし、必要なものは母が買って持ってきてくれた。

ただ、困ったことがないわけではなかった。

私は、毎日、病院で不思議な体験をしている。
看護師さんは、気にしなくていいと言うが、
私の病室には毎日無数の人が出入りしていた。

顔はよくわからない。
出入りする気配だけを感じることもある。
足音や声だけのこともある。

「誰?」
と問いかけても、返事はない。

それらの人々が私は怖い。
私はいつも不安と共に暮らしていた。
私は作業療法で時々絵を描いた。
真っ黒い顔のない人の絵だ。
それは、私を取り囲む不安そのものだった。

ある日、看護師さんが検温にやってきて、
私の体温やら血圧やらを測った。
それから、看護師さんは、
「今日は昼から雨になりそうですよ」
と、言ってカーテンを閉めた。

部屋が暗くなり、私はなんとなく不安な雰囲気を感じた。

その時、私は部屋の隅に紙コップが転がっているのが見えた。
それは、今日、朝食をとった時にお茶を飲むために使った物だった。ゴミ箱に放り込み損ねたらしい。

ただ、それだけのことなのに、
私は、床に転がった紙コップを見た時に、雷にうたれるみたいにこう思った。

〝ここに、紙コップが転がっているということは、何か重要な意味があるにちがいない〟
〝これは、何かのサインだ〟
〝見落としちゃいけない〟

私は急に胸がザワザワとした。
不吉な予感が荒波のように襲いかかってくる。

看護師さんは、なんでカーテンを閉めたんだろう。
あれも、何か意味があったのじゃないか。
窓の外にいる、何かから私を守ってくれたんじゃないか。
私は、知らぬ間に、誰かから付け狙われているんじゃないか。

脳の細胞一つ一つが、周囲から危険を察知しようとしているみたいに、異様に神経がとぎすまされていく。
あたりの景色が、トゲトゲと神経に刺さってくる。
椅子や机や壁といった、ありふれた家具さえも、一つ一つが奇妙に見えた。

〝何かが変だ〟
〝見落としちゃいけない!〟

私は、そう思いながら、周囲を見まわし、再び紙コップに目を落とした。
その時、私は唐突にこう思った。

〝ここに、紙コップがあるということは、
きっと私は今日死ぬということだ〟 

その雷のようなひらめきは、なんの根拠もないのに、私の中で確信の根を張ってしまった。
私はその妄想に完全に捉えられてしまった。

私はすぐさま病室から飛び出した。
安全な場所を探し、廊下をかけた。

それを見た看護師さんが、慌てて私を追いかけてくる。

バタバタバタバタという足音が聞こえる。

なぜ追いかけてくるんだろう。
看護師さんらも私の敵なんだろうか。
私はどうすれば安心できるんだろう。
なぜ毎日こんなに不安に囲まれているんだろう。

私は必死で走った。
まっすぐにのびる病棟の廊下が見える。
数人の患者さんがそこにはいて、
走る私を驚きの目で見ている人もいたし、不安そうにしている人もいた。
目に入ってすらいないように、仮面じみた無表情を浮かべている老人もいた。

私はいろんな人の前を駆け抜けた。
廊下は高校の廊下とどこか似ていた。
私は心臓がちぎれそうになりながら、頭の片隅で高校の景色を思い出していた。

高校の教室ーー。
そこには、一歩でも他の生徒を出し抜こうという空気が満ちていた。

〝油断するな!〟

〝歩みを止めるな!〟

〝走り続けろ!〟
 
授業中、先生がチョークで黒板にカリカリと字を書きつける。
その音が私に言う。

〝走れ!〟
〝戦え!〟

カリカリカリカリというチョークの音が、私を追い詰める。
私は自分の身のうちで膨らんだ不安が、
私の中からあふれ出して、教室に満ちていくのを感じていた。

私は、あの頃も今も、
常に不安にとらわれていた。
頭の中の警報器が、ささいな不安にも反応して、アラームを鳴らせっぱなしだ。
まるで、常に肉食獣に命を狙われている草食動物みたいに。

私は、必死で走りながら、
そんな自分から解放されたいと思った。
自分ではない何かになりたい。
それが叶わないなら、せめて、
私の胸の緊張の糸を緩めてくれる、
陽也に会いたい、と私は思った。

私の頭の中に、
教室の隣の席にいた陽也の穏やかな笑顔が、ふっと浮かんだ。

私は、ハッと立ち止まった。
何か分からないけれど、大事なものに気がつきかけた気がした。

それは、私の意識の表層をかすめて、
すぐに奥にひっこんでしまった。

私はその微かな感触を確かめるように胸に手を当てた。

その時、ナースステーションから全員飛び出しきたのかと思うくらい、大軍の看護師さんが走り寄ってきて、すでに立ち止まっている私を取り囲んだ。
呆気に取られるくらいの人数だ。
イワシの群れを思い浮かべてしまった。
看護師さんらは口々に、部屋に戻りましょう、と言う。
私が、はい、と言わなければ、全員で飛び交ってくるんじゃないかと思った。

私は看護師さんらに周りを囲まれて、部屋へと戻った。

「もう落ちつきました。自分で部屋に戻ります」
と言っても、
「まあまあ」
と言いながら看護師さんらは部屋までついてきた。
そして、ついでのように薬を飲ませていった。
気持ちが落ち着きますから、と言って。

薬を飲んでからしばらくすると、眠たくなってベッドに横になった。
うとうとしながら、ふと、走っていた時に胸をかすめた何かについて考えた。

それは形のない何かだった。
つかみようがないものだったが、
あたたかくて、ちゃんと手触りがあった。
たぶん、私は昔、それに触れたことがある。

私はその感触を思い出そうとして、思い出せないまま、うとうとと眠りについた。
窓の外で雨の音がしていた。
優しい雨の音だった。
昔、陽也と映画を見た日に降っていた雨も、こんな音がしていた。
そう思ったのを最後に、私の意識は眠りに包まれた。

続く~
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