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自我の病い 〜私と他人の境界があやふやになっていく病い
しおりを挟む「初めて、お見舞いにこられたのね」
白衣を着た女性がにっこり笑った。
私は兄を見舞ったあと、
ナースステーションの裏にある小さな部屋で、
兄の主治医に会った。
主治医に会ったのは、兄の病気について説明を聞くためだった。
主治医は、私の母親くらいの年代の人だった。
医者より、小学校の先生が似合いそうな、
柔らかい印象の人だった。
知っていた誰かに似ている気がした。
でも、それが誰だか思い出せなかった。
私が顔をじっと見つめていると、
女医は、またにこりとした。
女医は、
兄の病名を、〝統合失調症〟だと説明した。
「どんな病気ですか? 治るんですか?
どのくらい入院しないといけないんですか?」
やつぎばやに質問する私に、
女医はまた穏やかに微笑んで、
「一つずつ説明しましょうね」
と言った。
「統合失調症は、
幻覚や妄想がおこったり、
考えがまとまらなくなったりする病気なんだけど、
本質的には、自我の障害なの」
「ジガ?」
女医はうなずいた。
「自我って、そうねえ……。
卵のカラみたいなものよ。
人はみんなカラのようなものに包まれていて、それが自分と他人を隔てているの。
だけど、統合失調症の人は、そのカラがもろくなってしまっているの。
カラに穴が空いてしまって、
自分の考えが外に漏れ出ていくような感覚を覚えたり、
他人の考えが自分の中に入ってくるような感覚が起こるの。
他人と自分の境界があやふやになる病気なのよ」
他人と自分の境界があやふやになる病気。
兄は、なんと、不思議な病気になったんだろう。
「それは、心の病気なんですか?」
「心因性の病気ではないわ」
「じゃあ、何が原因なんですか?」
「それがね、まだ原因がはっきりわかっていないのよ。
統合失調症は、百人に一人の割合でかかる病気なの。
統合失調症って、珍しい病気ではないのよ。
だけど、原因はまだわからないの。
いろいろな説はあるけどね。
はっきりしているのは、統合失調症の人の脳には、それ以外の人には見られない変化が生じているということよ」
てっきり、
心の病気だと思っていた。
兄は心が優しすぎるので、
他人に気を使いすぎて心が擦り切れてしまったのかと思った。
「ストレスは関係ないんですか?」
「統合失調症の患者さんは、
もともとストレスに弱い素因を持っているという説もあるわ。
それに色々なストレスがかかることで発症するとも言われているの。
でも、さっきも言ったように、
まだ原因は研究途上なのよ」
原因がわからないなんて……。
原因がわからないものを、治療できるんだろうか。
私の不安を察したように、女医はにっこりした。
「不安がらないで。
統合失調症には、ちゃんと有効な薬があるわ。薬と組み合わせて、精神科リハビリテーションも行うと、回復しやすいわ。
内服で症状をコントロールしながら、
社会で働いている人もたくさんいるのよ。
お兄さんも、症状が落ちついたら、
退院できるわ」
私は女医の言葉に少し励まされ、部屋を出た。
まだ、消化しきれていない不安は、心の中にあったものの、
少し気持ちが楽になった。
ナースステーションに沿った廊下を通って、病棟をあとにした。
病院を出て、丘を下る。
アスファルトで固められた坂道が、
丘をへびのように蛇行しながらはっている。
そんな道を歩きながら、
ここは本当に見晴らしのいい場所だと思った。
丘のふもとの商店街や、
その向こうの街、
街の向こうにある海が、
丘から一望できた。
午後五時半。
空はまだまだ明るいが、
西の空の端は金色に輝き、
風の中には、夕方の薄らとさみしいような香りがまじっていた。
私はふいに、陽也に会いたくなった。
今日、この丘のふもとでばったり会った陽也に。
陽也は、坂道で別れたあと、丘にある団地に帰ったはずだ。
今頃、何をしているだろう。
自分の部屋で漫画でも読んでいるだろうか。
案外真面目に受験勉強でもしているのだろうか。
陽也の部屋には、
一度だけ遊びに行ったことがある。
男の子の部屋だったなあ、と私は思った。
そっけない感じの机とか、
青いカバーのかかったベッドとか、
本棚の上の、額縁に入ったサッカー選手のユニフォームとか、
部屋の隅に転がっていたサッカーボールとか。
あの部屋で陽也は育ったんだな。
私は陽也の部屋を思い出すだけで、
どういうわけかドキドキとした。
丘のふもとにたどりついたとき、
私は足を止めて丘の上の病院を見上げた。
兄は病室で何をしているだろう。
もうそろそろ六時だから、病棟では配膳車に乗せられた夕食のにおいがしていることだろう。
たくさん食べて、夜はぐっすり眠ってほしいと思った。
今日も世界中でいろんな不幸な出来事がおこるだろうけど、
兄のもとには、どんな不幸も近づけたくないと思った。
どうか、兄に安らかな夜が訪れますように。
私は後ろ髪をひかれながら、丘をあとにした。
続く~
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