統合失調症〜百人に一人がかかる病い

あらき恵実

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5. 開放病棟と兄 〜優しさの十字架

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受付で、
入院している兄と面会をしたい旨を伝えると、しばらくロビーで待たされた。

それから、受付の事務員に、
エレベーターで二階へ上がるように言われた。

指示に従って二階に上がると、
エレベーターを出てすぐの場所に
ナースステーションがあった。

そこでもう一度兄の面会に来たことを話すと、看護師の一人が個室へ案内してくれた。

部屋のドアを看護師がたたく。

すぐには返事がなかったが、
しばらくしてからドアが開いて、
慌てた様子の兄が顔を出した。

シャワーを浴びていたらしく、
まだ濡れた髪をしていて、
全身からいい香りをさせていた。

「ごめん、待たせたね」
と、兄は言って微笑んだ。

 
目の当たりのクマから察するに、
寝不足であるようだし、
疲労がにじんだような顔をしていた。
それに、幾分痩せたようであった。

それでも、
兄の口調は普段と変わらず穏やかで、
私はすごくホッとした。

正直、兄に会うまですごく緊張していた。

今まで知っている兄と、
まったく変わってしまっていたらどうしようかと思っていた。

兄は、私を部屋に通してくれた。

部屋にはベッドとテレビと冷蔵庫と、
お風呂とトイレがついていた。

「普通の病室と変わりないのね」

兄は笑って、「当たり前じゃない」と言った。

「精神科の病院をどんなところだと思ってたの?」

兄はベッドの脇に置かれた椅子に腰掛けて、
タオルで髪を拭きながら、そう尋ねた。

「わかんないけど……」

「ここは開放病棟だし、特段変わったような部屋はないよ」

ふうん、と言いながら私は部屋を物色する。
「でも、開放病棟って何?」

「鍵のかからない病棟のこと」

「鍵がかかる病棟もあるの?」

「あるよ。閉鎖病棟っていうんだ。
閉鎖病棟の奥には、保護室っていう部屋もある」

「保護室? どんなところ?」

「知らないよ。入ったことはないもの。
入ったことのある患者さんから聞くには、
何にもない部屋だって言ってたよ」

「何もない部屋?」

「本当に文字通り、何にもないんだ」

私は四方の壁と天井と床に囲まれた、
がらんとした空間を想像した。

「あと、その部屋は外から鍵がかけられるんだって」

「桜良が保護室に入れられることはないの?」

「僕はそこまで病状が悪くないし、
任意入院だからね」

「任意入院?」 

「自分の意思で入院しているってこと。
強制的な入院じゃないってこと」

兄はそう言いながら、冷蔵庫を開けた。
そして、
中から持ち手のついた紙箱を取り出し、
私の前でそれを開いて見せた。

中にはケーキが入っていた。

「いただきものだけど、食べる?」

「いただきものって、誰からの?」

「さあ、誰だったかな。
ケーキの他にもいろいろあるよ」

そう言いながら、冷蔵庫を開く。
中には、エクレアやら、
シュークリームやら、
プリンやら、
いろんなものがぎっしりと入っていた。

甘党ではない兄が買ったとは、
到底思えなかった。

「看護師さんだったり、事務員さんだったり、いろんな職員さんがかわるがわる毎日やってきて、
いろんなものを置いていくんだ」
兄はそう説明した。

私は呆気にとられた。

中庭で会った男性が、
恨みがましそうな声で、

ーーああ、あの色男かーー

と、言っていたことを思い出す。


「心配して、損した」 

私は肩から力を抜いて、
ハアとため息をつく。

「ちっとも不幸そうじゃないのね」

母に見せてやりたいと思った。

あなたの大事な大事な桜良は、
ちっとも深刻な状態には見えません。

だって、病院中の女性に、
愛想をふりまく余裕があるみたいですから。

ブスっとする私に、
「どうしたの?」
と、兄が聞く。

「なんでもない」
と答えながら、
出されたケーキにブサリとフォークをつきたてた。

桜良のバカ、と胸のうちで毒づいた。

       •    •    •

ケーキを食べながら、ふと、
私自身は何にも見舞いの品をかまえていなかったことに気がついた。

だけどまあ……、
冷蔵庫の中の様子を思い返すと、
必要ないだろうと思えた。

そんなことを考えて、
私は不機嫌な顔をしながらケーキを食べた。

兄は疲労が顔ににじんでいるものの、
それを除けば普段の兄と変わらないように思えるし、
見舞いもそこそこにして、
さっさと帰ろうと思った。

そこへ、女性の看護師がワゴンをつきながら入ってきて、
「お変わりないですか」
と尋ねてきた。

若いかわいらしい看護師だった。

たぶん、大学を卒業したばかりだろう。

白衣姿が初々しい、
大きな目をクリクリさせた看護師で、
頬はチークを塗っているのか、
ほんのり桃色をしていた。

看護師は、
兄の病状に変わりがないこと、
昼ごはんを五割程度食べたこと、
昼食後薬はきちんと飲んだことを確認すると、ワゴンの上のパソコンを使って、 
電子カルテに記録を済ませた。

おそらく、
それで彼女の用事は全部であるはずだった。

だけど、その後も彼女は、
なかなか部屋から出て行こうとしなかった。

どうやら、彼女は兄ともっと会話がしたいようだ。

兄は彼女の気持ちを感じとったようで、
今朝テレビで見たニュースの話を始めた。

ひったくりをしようとした若い男性が、
老婆に杖でボコボコにやっつけられたという話だった。

彼女は楽しそうに笑って兄の話を聞いていた。
兄は、曲芸をするピエロのように、
笑えるような話題を次々と彼女に提供した。

看護師は、ずいぶん長い間、
兄の病室に留まっていた。
業務にもどらなくて叱られないのかと、
心配になったほどだ。

「この部屋にいると本当に楽しい。
詰所にもどりたくないくらい。
だってね、
意地の悪い先輩もいてね……」

そう言って、仕事の愚痴を話し始める始末だ。

兄は寝不足の疲れたような顔に笑みをつくり、
彼女の話を聞いていた。

兄はおそらく、
自分から話を終わらせることはないだろう。

彼女が自分からしゃべるのをやめるまで、
聞き続けるつもりなのだ。

かわいそうな兄。

兄の横顔を眺めて、私はそう思った。

兄はすべての人に優しい。
これまで、ずっとそうだった。

おそらく兄は、優しくする以外に、
どうやって人に接したらいいのか、
分からないのだろう。
 
きりもなく続く看護師の話を、
兄は笑顔を崩さずに聞いている。
兄のこけた頬と、穏やかな笑顔を見ていると、
どこかキリストを思い出す。

兄の笑顔は、
慈しみ深く、
苦難に満ちて、
神々しかった。

兄は、ずっとこんなふうに、
生きていくつもりなのだろうか。
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