統合失調症〜百人に一人がかかる病い

あらき恵実

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3.統合失調症、前駆症状  〜教室の影にひそむ恐ろしいもの

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3①     《恐怖が私という殻を破って、外へ、外へと、拡散していく》

ーー野生動物はどうして平然と生きていけるのだろう。

兄に雪の中で背負ってもらった冬から、
一年近くが経った。

私は高校二年の二学期を過ごしていた。

大学受験に向けて、毎日、勉強漬けだった。

睡眠時間を削り、
食事の時間もおしみ、
勉強をした。

もちろん、
友人と遊ぶ暇なんてなかった。

高校は進学校で、
クラス全員が、高偏差値の大学に行くことばかりを考えていた。
 
どれだけ、〝孤独〟に勉強に打ち込めるか。

みんな、それを競い合っていた。

私はどれだけ睡眠をけずろうが、
どれだけ胃痛や頭痛を我慢して勉強しようが、常に、不安だった。

〝一歩でも他の生徒を出し抜こう〟という空気が、クラス中に満ちていた。

ーー油断するな!

ーー歩みを止めるな!

ーー走り続けろ!

先生が、チョークで黒板にカリカリと字を書きつける。
その音が、私に言う。

ーー走れ!

ーー戦え!

ーー勝ちにいけ!

ーー歩みを緩めた者から負けるんだ!

私は、この場所でもやっぱり〝野生動物〟のことを考えていた。

どうして、〝野生動物〟は、油断したら息の根を止められてしまうような場所で、
〝自殺〟せずにいられるのだろう。 

私は、そのころ、恐怖と常に戦っていた。

恐怖は、足元にいた。

机の下の足元の影の中に。

それから、椅子の後ろにも、教室の天井にも。はりつくように、べったりと。

それは、おそらく私の心の中から生まれた感情であるのに、
私の中から教室の空気の中へと膨張していく。

恐怖が、
不安が、
教室中に拡散していく。

そうなると、もう、
誰かが机から鉛筆を落とす音も、
机を指でトントンと叩く音も、全部、
自分を焦らそうとしているみたいに感じられた。

後ろの方の席でささやかれるヒソヒソ話が、
自分のことを話しているみたいに聞こえる。

問題を解こうとすると、
ーーソンナ問題デ、ツマッテンノ?ーー
と聞こえたように思えた。

勘違いかもしれない。

だけど、かすかにそのような声がした気がしたのだ。
 
私は慌てて後ろを振り返る。

誰とも目が合わない。

だけど、また机の上のプリントに目を落とすと、今度ははっきりと、
ーー解クノ、遅クナイ?ーー
と聞こえた。

「ねえ」
と、私は隣の席の男子に小声でしゃべりかけた。

彼は陽也(ひなり)という名前で、
高校一年生の時からの私の友人だった。

一度だけ家に遊びに行ったこともある。
陽也は、丘をはうように作られた団地に住んでいた。

その丘は、見晴らしのいい場所だった。
陽也自身も、気持ちがいいくらい裏表がない、すっきりとした人柄の人間だった。

私は、さっきの声は少なくとも陽也が発したものではないと思った。

「ねえ、陽也、さっきなんか聞こえた?」
 
陽也はキョトンとした顔をする。

「ずっと静かだったけど。なんかって何?」

「悪口……、みたいな……」

陽也は首を傾げた。

「空耳じゃない?」

それから、カラッと笑った。

「夏音さ、受験でピリピリしてるし、
神経がたかぶってんじゃないの? 
空耳にしろ、そうじゃないにしろ、
気にしないのが一番だよ」

陽也にそう言ってもらって、
一時的には気が楽になったが、
やっぱり周りのちょっとした音が気になって仕方がなかった。 

神経が研ぎ澄まされていて、
すべての物音を、脳が過敏にキャッチしてしまう。

おまけにひどい頭痛がする。

皮膚を剥がされ、
頭蓋骨も砕かれ、
脳を直接トゲトゲと刺激されているみたいに感じた。

私は勉強どころではなく、
気づくとたびたび手を止めて周りの物音に過敏に耳をすませていた。

その間に、みんなはカリカリと鉛筆を走らせる。

それを見て私は焦り、
これでは駄目だ、と胸の中でつぶやく。

すると、
ーーコレデハ駄目ダッテ思ッテルーー
と声が聞こえた。

 ハッとして、誰の声なの? と思うと、
ーー誰ノ声カ考エテモ無駄ダヨーー
と聞こえた。

自分が考えたことと、聞こえてきた言葉の内容、タイミングがピッタリと重なりすぎて、
私はゾッとした。

自分の中にある考えが体の外へ漏れでて、
他人に筒抜けになっていくようだった。

自分の感情が、外へ、外へ、と拡散していく。

私は、恐ろしくてたまらなかった。

「おい、大丈夫か? 顔色がわるいけど」

陽也が隣の席から、私の背中に手を伸ばしてくる。

「どうした? 静かにしなさい」
と、教壇の上で先生がピリッとした声を出した。

「せんせー、こいつ、具合が悪いって」

陽也の声も、先生の声もどこか遠く聞こえた。

保健室、行く? と尋ねてくる陽也に、
私は首を横に振った。

勉強の手を止めるわけにはいかない。

例え、どんなことがあったとしてもーー。

私は、やっぱり、学校という場所でも〝野生動物〟のことについて考えてしまう。

ーー野生動物は、
どうして平然と生きていられるのだろう。

不安と恐怖に抱かれながら、
だだっ広い、天敵だらけの草原で。

油断など、一時もできないと知りながら。


      •      •      •
3②《兄、暴露された嘘》

私は、いつ爆発するとも分からない、
ハチハチに張り切った風船のようなものを、
心の中に抱えていた。

少しの油断で心がはち切れてしまいそうだった。

そんな危うさをはらみながらも、
なんとか、高校三年生に進学した。

そして、その年の八月、
突然、
兄が精神科病院に入院をした。

それまで私は知らなかったのだが、
兄は、もう七年も前から、
精神科病院に通院していたそうだ。

両親もそのことは知らなかった。
兄は、七年も家族をあざむいていたのだ。

それから、これもまた、家族に黙っていたことだが、
恋人とは、六年も前に別れていた。

私は、それらの事実を母から聞いた。
私は愕然とした。

兄が精神疾患をもっていたということも
にわかには受けいれにくかったが、
それより衝撃を受けたのは、
兄が私に嘘をついていたことだった。

あの兄が、私に嘘を?

いつも、私という器がヒタヒタになるほどの愛情を注いでくれた兄が?

私はいてもたってもいられなくって、
母が書いた病院の住所のメモを頼りに、
見舞いに出かけようとした。

メモにある街の名前に、見覚えがあるような気がした。

どこで見たのだろう。
思い出そうとしても、思い出せなかった。

玄関を開けると、八月の真っ青な空が見えた。

私は麦わら帽子をかぶり、
ワンピースの下にサンダルを履いて外へと出る。

それからドアを閉める前に、玄関に立つ母に振り返って、
「お母さんは行かないの?」
と尋ねた。

あれだけ、兄を好いていた母が、
一緒に行くと言い出さないはずがないと思った。

だけど、
母はおびえるような顔をして首を横に振った。

玄関は薄暗かった。
玄関から伸びる廊下も。

節約のために、居間と同様、電気が消されていた。
開かれたドアの外が明るい分、余計に中が真っ暗く感じた。

「どうして?」

「……怖くて」
と、母は言った。

「怖い?」

私は眉をしかめる。

「兄が?」

「違うわ。桜良が、怖いはずないじゃない」

〝桜良が〟という言葉に力を込めて母は言った。
母は、兄の名をいつも愛を込めて呼ぶ。

「じゃあ、何が?」

母は黙り込み、いらだちに似た表情を浮かべる。

外では、セミがやかましく鳴いていた。

真夏の、明るい空の下にいる自分と、
暗い玄関に立つ母とが、
まったく異なる場所にいるみたいに思えた。

「そう言えば、何の病気で入院しているの? 
何度聞いても、病名は詳しく聞いてないってはぐらかしてたけど、
本当は知ってるんでしょう?」 

母は暗い顔をした。

暗い玄関の中で、 
母と、母のまわりの空間が、
よりいっそう暗い色に沈んで見えた。

「桜良に、直接聞いてみればいいわ。
私も、お父さんも、まずはそうしたの。
だって、
お医者様の言うことが到底信じられなかったから……。

だって、あの子、
私たちの前でいつも笑ってたじゃない。

優しくて、穏やかで、
家族に心配なんてかけたことなくて……」

母は、そう言うと、
その場に力なくしゃがみこみ、嗚咽をもらした。

「桜良は、どうして、もっと早く言ってくれなかったのかしら……」

母は、そうつぶやいて、むせび泣いた。
私はただぼんやりと、それを聞いていた。

チリン、と廊下の奥の窓に吊るされた風鈴が鳴る。

廊下は暗く、
音は闇に吸い込まれていくみたいに感じた。

私の汗ばんだ首筋を、
じっとりとした風がなでていった。



        •  •   •
3③《もう出会うことのない夏》
 
セミの声が、きりもなくシャワシャワと降ってくる。

まるで雨のようだ。

夏は景色が色鮮やかだ。

道路に引かれた白線も、
他の季節より際だって白い。

か細い電線の影さえも、くっきりしている。

私は、
コンビニで炭酸の入った缶ジュースを一本買って、
それを飲みながら歩いた。

上品なことではないけれど、
うだるように暑い夏に、歩きながら飲む冷たい炭酸飲料は美味しい。
のどに訪れる、抗いがたい快感。

ジュースを飲むたびに顔が空を向く。

青さが鮮烈すぎる夏の空が目に映る。

日差しが顔に熱い。

日に照らされた信号や、標識や、電線の上のハトなどは、
容赦なく明るみの中に姿をさらされている。

一方で、
道路脇に停車した車や建物の北側には、
濃い影が落ちていた。

それは、明るすぎる景色にひそむ、
ひずみのように見える。

私は、暗い玄関に立つ母の姿を頭から追い払いながら歩く。

私は南海ヶ丘(みなみがおか)という丘のふもとにいた。
現在地の近くには、さっきジュースを買ったコンビニや、郵便局や、小さな商店街があった。

そして、
現在地から丘を見上げると、坂をはうように団地が建てられているのが見えた。

団地が途切れると、
その上にはミカン畑があって、
さらにその上、丘のてっぺんには、病院らしき建物が見えていた。

下界から隔絶された城みたいな風情の病院だった。 

(あ、この景色……、見覚えがある)

私はジワジワと鳴くセミの声を浴びながら、心の中でつぶやいた。

(そっか……。病院の住所を見て、なぜ、知った場所のように感じたのか分かった。
この場所は……)

心の中でそうつぶやいた時に、
「あれ、おまえ、こんなところで何してんの?」
と、背後から声をかけられた。

私が振り返ると、
自転車から片足を下ろした格好で止まっている、私服姿の陽也がいた。

私は驚かなかった。

なぜなら、目前にある団地は、
陽也が住んでいた団地だったからだ。

病院の住所にも覚えがあって当然だ。
一度は来たことがある場所だもの。

「会うの久しぶりだな」

「そうかも。夏休みに入ってから初めてだね」

夏休みと、ふだんの学校がある日は、まったく異質な時間のように思える。
目の前の同級生は、
異質な空間からやってきた人のようだ。

「どうしてたの?」
と私は陽也に聞いた。

「どうしてたの、じゃねーよ」

陽也は少しむくれた顔をしていた。

「何? なんで怒ってんの?」

「だっておまえさ、
遊びに誘っても、いっつも、塾だ、夏期講習だって……。
そんなに、勉強ばっかりしてどうすんだよ」

「だって、遊んでなんかいられないでしょ。
高三の夏だよ」

陽也は自転車のハンドルの上に頬杖をつくと、つまんなそうな声を出す。

「あーあ、みんな、勉強、勉強って、そればっかだよな。
高三の夏は一度しかないのに」

陽也は、学校では成績は中ぐらい。
悪くも、良くもない。 

だけど、うちは進学校なので、
そんな中で真ん中なのだから、
ほどほどにがんばっているということだろう。

だけど〝努力してる〟という感じを見せない人だった。
いつも柔らかな空気をまとっていた。

私は陽也という友人がいたから、
これまで精神のバランスを保ってこれたのかもしれない。

「なあ、八月にいっぺんくらい、どっか遠出しようよ。
友達誘って、みんなでさ」

「どっかって?」

「どこでもいいけど、どっかだよ」

「めんどくさい。なんでそんなに、私と出かけたいの?」

「なんでって……」

陽也は、少し黙って、
それからハアとため息をついた。

「もういいよ」
少し傷ついたような声を出す。

すねたようにそっぽを向いた陽也の横顔が、
とても少年らしく見えた。

まっすぐで、傷つきやすくて、
それでいて、あどけなくて無鉄砲そうで。

うつむく陽也の頭を風がなでる。

坂道を私は病院に向かってのぼる。

陽也も、団地を目指してのぼる。自転車を押しながら、私の隣に並んで。

私たちはどちらも黙ったまま歩いていた。

私は、辺りの空気をすうっと吸い込んだ。
団地の庭に生えた木々の、
生気と水気に富んだ葉の香りがする。

高三の夏ーー。
今、この場所でかいだにおいや見た景色は、
来年以降、出会うことがないんだろうな、と思った。

陽也との関係性も、高校を卒業したら変わるだろう。

刻一刻と、時間が私の後ろへ過ぎ去っていく。 

いくらか坂をのぼって、やがて、
私たちは分かれ道にさしかかった。

道なりに坂を上っていけば病院が、
右に曲がれば陽也が住む《南海ヶ丘グリーンハイツ》があった。

私たちはそこで別れた。

なぜか、私は後ろ髪をひかれた。

振り返って、陽也に駆け寄りたいような衝動を感じた。

しかし、私にはその気持ちをうまく扱うことができなかった。

私の夏が、丘をふき下ろす風とともに、刻一刻と私の背後に過ぎ去っていく。

続く~
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