統合失調症〜百人に一人がかかる病い

あらき恵実

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2. 最愛の兄、まさか彼にもこの頃から、不安な影が   〜私と兄に忍び寄る病い

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2①  《蜜のような兄》

ギイと立て付けの悪いドアがきしむ音がした。

誰かが居間の入り口に立つ。
私はその気配だけでそこにいるのが誰だか分かった。

兄だ。

私はパッと顔を上げ、居間の入り口に目を向けた。

母も、洗濯物をたたむ手を止め、そちらを眺める。
父さえ、新聞から目を上げ、
「おお、帰ってきたか」
と嬉しそうな声を出した。

「ただいま」
と、兄が微笑をふくんだ声を発する。

途端に、居間を満たしていた空気
ーーピンと張りつめた糸のようなーーが
解けていくのを感じた。

兄と私は腹違いの兄妹で、
歳は十二歳離れている。

私の母は後妻だ。

兄は、現在、
教師として中学校で働いていて、
アパートで一人暮らしをしている。

そして、
週末になると実家に顔を見せに戻ってくる。

そんなに長くは滞在しないが、
父も母も兄が帰ってくるのをとても楽しみにしていた。

兄は、優しい。

私は生まれてから一度たりとも、
兄から優しくない扱いを受けたことがない。

そりゃあ、物心つく前の記憶はないけれど、
断じて言える。

兄はいつだって私に優しかった。

私が赤ん坊の時からずっと。

私は母にも父にも甘えたことがない。
だけど、兄にだけはわがままを言えた。

兄は私がどんなにわがままを言おうと鷹揚に微笑んでくれた。
兄はまるで 〝蜜〟 のようだと思う。

私をまるごと甘やかす。

それで、私は毒に侵されたように、兄の甘い蜜で体中をひたひたにしてしまう。

       •       •          •
2②  《兄と母》

母が洗濯物をおいて、兄のそばに歩み寄る。

母と兄は血がつながっていない。
だけど、兄を実子の私よりも愛している。

「桜良(さくら)、変わりない? ゆっくりしていけるの?」

母はまるで小娘のようにソワソワとして、兄の腕をなで、兄を眺め回す。

「ごめん、ちょっと寄っただけなんだ」

そう、と母は露骨にがっかりした顔をした。

「だけど、お茶ぐらい飲んでいったらどうだ」
と、父が居間の奥から声を出す。

兄はすまなそうな顔をして、
「病院の予約があるんだ」 
と言った。

父がいる前で、私はあまりしゃべらないのだったが、
その時は、思わず兄にこう尋ねていた。

「どこか悪いの?」

兄が私に微笑みかける。

「心配はしなくていいよ。たいしたことないんだ。家族に迷惑はかけないから」

〝心配しなくていいよ〟は兄の口癖だった。

そんなことを言わなくても、
兄が家族に心配などかけないことは、分かっている。

兄は学生時代はいつも優等生で、
目立った反抗期もなく、
大学にストレートで受かり、
就職してからは欠勤も病欠もなくまじめに仕事をしている。

お手本のような孝行息子なのだった。

      •          •        •
2③  《兄の恋人》

「あの人も元気?」
母が兄に問う。

「ああ……、元気だよ」
母があの人、と言っているのは、
兄の恋人のことだ。

母は、
兄の恋人の名前を知っているはずなのに、
なぜかいつも「あの人」と呼ぶ。

元気だよ、と答えた兄に、
母はやっぱり露骨にガッカリした顔をして、
「そう」
と、言った。 

あの人呼ばわりされている兄の恋人には、
病弱な母と、
アルコール中毒の父と、
四人の弟と三人の妹がいる。
一番下の妹は、まだ三歳だった。

それから、兄の恋人はたくさんペットを飼っていた。

チワワを三匹と、
カメ二匹と、
ウサギ一匹と、
金魚五匹だ。

兄は、恋人にも、
恋人の(その多すぎる)家族にもペットにも、
いつだって優しく寛容だった。

私は、
それらに取り囲まれている兄を見ていると、
キリストを思い出してしまう。

昨年、
小さなチャペルで、
従姉妹の結婚式があった。

そのチャペルの窓には、
ステンドグラスが使われていて、
キリストの姿が装飾されていた。

キリストは、茨の冠をかぶり、
十字架に貼り付けにされ、
それでもなお、周りにひざまずく弟子たちに穏やかな顔をして微笑んでいた。

「その恋人とやらを、うちに連れてきたやったらどうだ」
と、父が真面目な顔で新聞を読みながら言う。

母が一瞬沈黙した。

母の後頭部や背中のあたりから発せられる空気が、ピリピリするのを私は感じた。

だけど母は、
父に振り返った時にはにっこりと微笑んでいて、穏やかな口調で、
「そうね」
と言った。

その微笑んだ表情は、
嘘くさいほどに整っていた。

〝いびつな家族だ〟と私は心の中で思った。

「そのうちね」
と、兄が父と母に答える。

それから、兄は紙袋に入った何かを母に渡し、
「お土産。
お母さんと、お父さんと、夏音(かのん)と、みんなで食べて」
と言った。

そして家族みんなに手を振った。


       •       •        •
2④
 《兄~近くにあって、触れてはいけないもの》

昔の話。
 
今から数年前。
兄が一人でアパート暮らしを始めたばかりのころの話だ。

私は母に連れられて兄のアパートを訪ねた。

その時、アパートの玄関には、
小さな女ものの靴があった。

可愛らしいリボンのついたパンプスだった。

母と私を玄関先で出迎えてくれた兄の背後には、
照れくさそうに会釈をする、
兄と同年代の女性がいた。

兄の顔も少し照れくさそうだった。

私は胸がギュウッと痛くなるのを感じた。

私は玄関の隅に立って、
手入れのされたパンプスをじっと見つめながら、〝母の化粧台〟を思い出していた。

畳の部屋に置かれた古臭い母の化粧台の上には、
化粧水やクシや、
香水や、
口紅なんかが並んでいた。

それらは、
触ろうと思えば触れられるはずなのに、
一度も触ったことがなかった。

〝イタズラしたらダメだ〟と母にきつく言い聞かされていたからかもしれないが、
なぜか母がいない時でも、
指一本触れることができなかった。

香水も、化粧水も、きれいな瓶に入っていた。

口紅は、赤く熟れた果物を思わせる色をしていた。

それらは幼い私にとっても、
女性としての本能をくすぐられるものだった。

だけど、触れるのが怖かった。

それら自体ではなく、〝禁を破る〟という行為が怖かったのだ。

近くにあって、触れてはいけないもの。

兄は、それによく似ていた。

       •        •       •
2⑤《出口のない夏の景色》

玄関から出ていった兄を、
私は靴をつっかけて追いかけた。

玄関の外には雪が降っていた。

庭の冬枯れした木にも、
物干し竿にも、
塀にも門にも真新しい雪が積もっていた。

振り返ると、
二階建ての我が家の瓦屋根の上にも雪が積もっていた。

亡くなった祖父が建てた築五十年のこの家も、同じような古い日本家屋が立ち並ぶご近所も、新雪のおかげで、
いくらかきれいに見えた。

「寒いから、家の中にいなよ」
と、兄が白い息を吐きながら言う。

真っ白い景色の中の兄はきれいだった。

私は首を横にふった。

「病院、私もついていく」

「おいおい」

兄が苦笑する。

「病院には、連れて行けないよ」

「じゃあ、その代わりに……」

「その代わりに……?」
兄が穏やかに言葉の続きを促す。

私は、雪空を仰いで思案する。

その代わりに、の言葉の続きがすぐに思いつかなかった。

私は、ただ、
兄をひきとめたいだけだったのだ。

「じゃあ……、代わりに何か一つ叶えて」

「いいよ」と兄は微笑む。「何がいい?」

尋ねた兄の肩の上にふわりと雪が舞い落ちた。

断りもなく、やすやすと兄の肩にのる雪に、
私は小さな嫉妬を覚えた。

「なんでもいいの?」

「なんでもいいよ。できることだったらね」

なんでもいいよ、
などと兄は簡単に言う。

だけどそれは口先だけではない。

兄は、できることなら、本当になんでも私にしてくれる。
兄の優しさは、けた違いなのだった。

それだから、母も父も、
兄にはメロメロなのだ。
もちろん私も。

そして私は、
そんな愛しい兄を、
時々、困らせたくなる。

少しばかり、いじめてやりたくなる。

私はしばらく考えてから、兄にこう言った。

「背負って」

兄は少し目を丸くした。

そして、
私のつま先から頭のてっぺんまでをまじまじと眺めた。

幼かった頃は、よく兄に背負ってもらった私だったが、
その頃とはずいぶんと、
体の輪郭が変容してしまっていた。

私は制服を着た自分の体を見下ろす。

そこには、
大人というには未完成だが、
もう子供とも言えない柔らかな曲線を描いた体があった。

私はそれを確認したうえで、なおも要求した。

「背負って。じゃないと、本当に病院までついていくから」

兄は苦笑してから、
「いいよ。なつかしいね」
と言った。

そして「ほら」と私に背中を向ける。

身長一八三センチの兄は、
昔に比べたらずいぶんと重たくなったはずの私を、
やすやすと背負って立ち上がった。

兄のしっかりとした背中の上で、
昔のことを思い出す。

兄がまだ一緒に暮らしていた頃、
夏になるとよく二人でプールに行った。

水遊びをすると、
きまってクタクタになってしまう私は、
プールからの帰り、
いつも兄に背負われて家までもどった。

夏。
水遊びのあとの気だるい体。
汗をかいた兄の背中。
空き地に咲くヒマワリ、
公園のセミの声、
入道雲と青い空。

まっすぐに伸びたアスファルトの道と、
並んだ電柱。

思い出の中には、
兄と自分以外の人物は登場しない。

おそらく、
実際にはすれ違う車や人の姿があったはずなのだけれど、
思い出の中からはそれらがキレイさっぱり消えており、
人の気配のない道が、青空の下、延々と続いていた。

その景色には出口がないように感じる。

私は、その景色を思い出すたび、
出口のない問題に心の中でぶちあたる。

私と兄は、義母兄妹だから、
〝半分〟血がつながっていない。
しかし、〝半分〟はつながっている。

それは、私には変えようのない現実だった。  
どうにもできない問題だった。

「桜良」
と、私は自分を背負っている兄の耳にささやく。

唇が耳に触れるくらい近くで。

兄の耳にかかる私の息が白い。

雪は次から次へと、
音もなく私と兄の上に降り続ける。

「桜良」
と、私はもう一度つぶやく。

私は、
物心ついた頃から兄をおにいちゃん、
と呼んだことがない。

それは、私が変えようのない現実に対して成しうる、微かな抵抗だった。

「また来るよ」
と、兄は私を背中からおろして言った。

私は雪雲に満ちた空を見上げた。

それは、高校一年の冬のできごとだった。

その日を境に、兄の訪問はぱったりととだえた。

仕事が忙しいらしい。

私は休日になると頻回に兄のアパートを訪ねた。

だけど、そのたびに留守だった。

兄が言うには、土日も仕事があるそうだった。

しかし、電話は毎週一度か二度は実家にかけてくれていたので、
両親も私も電話越しにいつもの穏やかな兄の声を聞き、
忙しくとも元気にしているのだろうと安心していた。

また仕事が落ちつけば、
以前のように顔を見せにやってきてくれるのだろうと、家族みんな、思っていた。

そのときは、まだ、私も母も父も、
〝兄に起こっていること〟を、
何一つ知らなかったのだ。


続く~











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