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恋って知ってる?
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ーー恋って何か知ってる?
三ヶ月前の、梅雨のある日、
レンが私の病室にやってきてそう尋ねた。
レンがこんなふうに私の病室を訪ねてきたのは、その日が初めてだった。
でも、私は驚かなかった。
言葉にはできない何かが、私たちの間には通い合っていた。
私たちは同じ病棟に入院してから、その時すでに数ヶ月が経っていた。
世間の同じ歳の子達は、高校に通っている。
私たちだけ、時が止まったみたいだった。
レンが病室に入ってきた時、私は窓のそばに椅子を置いて雨の音を聞いていた。
ーーすごい雨。
と、レンはベッドに腰かけて言った。
ーーバケツをひっくり返したみたいだな。
私は目を閉じて、雨の音を聞いた。
雨の音は、目を閉じた方が近くなる。
ザアザア、ザアザア。
街一個、飲み込みそうなくらい雨が降っている。
私は水没した街を想像した。
入学してから半年くらいしか通えなかった高校も、
お母さんとお父さんが住む家も、
「さくら園」も、
何もかもが水の底。
中学校も、小学校も。
近所の公園も、駄菓子屋も、
同級生が住んでいた団地も、
金魚鉢の底の、かざりみたい。
さみしい思い出、悲しい思い出、
いろんな記憶ごと、街を水の底に閉じ込めている。
私は立ち上がって、雨の音に耳を澄ましながら、窓ガラスに額をくっつけた。
額がひんやりと冷たい。
気がついたら、レンが私の背中にそっと寄り添っていた。
私を腕で囲うように、窓ガラスに両手をつく。
ーーこんなところ、看護師さんに見つかったら、叱られるよ。
異性の部屋に入ったり、異性同士で過度に親しくなることが、精神科の病棟では禁止されていた。
レンは、返事をしない。
静かなレンの呼吸の音だけが、耳のすぐ近くで聞こえていた。
窓の外を電車が走る音がする。
病院の近くに、電車の線路が走っているのだ。
電車は、毎日、たくさんの学生服を着た人を乗せて走る。
彼ら彼女らは、私とレンが切り離された学校という場所に、毎日通う人たちだ。
普通の日々を生きる人たち。
私は通学時間の電車を窓の外に見るたびに、迷子になったような気分になる。
進むべきレールを見失ったみたいな気分に。
ーーリコは、恋って何か知ってる?
と、レンがもう一度聞いた。
ーー俺は、一生分からないかもしれない。
人を大事にしたり、人から大事にされたりできないかもしれない。
ーーなんで、そう思うの?
ーー人から大事にされたことがないから。
私は、レンに振り返った。
レンの顔は、すぐ近くにあった。
レンの息遣いを感じながら、レンの瞳をのぞきこんだ。
瞳の奥には、胸がしめつけられそうなくらいの悲しみがあった。
どんな過去を生きてきたのか知らないけれど、〝大事にされたことがない〟という言葉が嘘じゃないと思えるだけの暗い瞳をしていた。
この人は、孤独を知っている人だと思った。
私は、「さくら園」にいたたくさんの子供たちを思い出した。
そこには、いろんな事情で親と一緒に暮らせない子供がいた。
みんな、いい子達だった。
庭で遊ぶ時は楽しそうにしていた。
でも、時々、迷子になったような目をしていた。
自分が、この先、どんなふうに生きていくのかーー。
親元に帰れるのかーー。
ずっと施設にいるのかーー。
自分の未来は明るいのかーー。
自分の進む先がまったく見えなくて、途方に暮れているような目をしていた。
そして、その瞳には、計り知れないくらいの孤独感がただよっていた。
きっと私もそこで、同じような目をしていたはずだ。
ーー人を大事にすることも、
大事にされることも俺は知らないけれど、
さみしいのは嫌いなんだ。
誰かと一緒にいたいんだ。
レンは言った。
私はレンの頬にそっと両手で触った。
優しく包み込むように、そっと。
一緒にいよう。
私の口から出てきたのは、そんな言葉だった。
レンがうなずく。
私はレンの瞳をじっと見つめ、顔をそっと撫でた。
頬の骨や、ひんやりとした皮膚の感触が、私の手に伝わった。
レンは顔を撫でられている間、私から視線をそらしていた。人に慣れていない猫のように、体を緊張させていた。
だけど、私がそっと手を離そうとすると、私の手をつかんで、体を緊張させたまま不器用に顔を近づけてきた。
私たちは、キスをした。
これが恋かも分からないまま。
人を大事にすることも、されることも、
分からない同士で。
私たちは、きっと路頭に迷う。
だって、二人とも迷子同士だから。
もしかしたら、互いにひどく傷つけあう日もくるかもしれない。
それでも、私はレンに強く惹かれていた。
レンもきっと、同じ気持ちだと思った。
私たちは、迷子だけれど、もう一人きりで迷わなくても良いのだ。
手を繋いで、一緒に歩ける人を見つけたのだ。
ーーリコ、そばにいて。
私はその言葉に答える代わりにレンを抱きしめた。
できることなら、二人で生まれる時からやり直したいと思った。
ごく普通の家庭に生まれて、学校で知り合い、ごく普通の恋をしたかった。
でも、私たちは普通ではないので、
私たちなりの幸せを探しにいかないといけなかった。
レンも私を抱きしめた。
ほっそりしたレンの腕。ゴツゴツとした胸。
これが、レンと親しくなった最初の日だった。
続く~
三ヶ月前の、梅雨のある日、
レンが私の病室にやってきてそう尋ねた。
レンがこんなふうに私の病室を訪ねてきたのは、その日が初めてだった。
でも、私は驚かなかった。
言葉にはできない何かが、私たちの間には通い合っていた。
私たちは同じ病棟に入院してから、その時すでに数ヶ月が経っていた。
世間の同じ歳の子達は、高校に通っている。
私たちだけ、時が止まったみたいだった。
レンが病室に入ってきた時、私は窓のそばに椅子を置いて雨の音を聞いていた。
ーーすごい雨。
と、レンはベッドに腰かけて言った。
ーーバケツをひっくり返したみたいだな。
私は目を閉じて、雨の音を聞いた。
雨の音は、目を閉じた方が近くなる。
ザアザア、ザアザア。
街一個、飲み込みそうなくらい雨が降っている。
私は水没した街を想像した。
入学してから半年くらいしか通えなかった高校も、
お母さんとお父さんが住む家も、
「さくら園」も、
何もかもが水の底。
中学校も、小学校も。
近所の公園も、駄菓子屋も、
同級生が住んでいた団地も、
金魚鉢の底の、かざりみたい。
さみしい思い出、悲しい思い出、
いろんな記憶ごと、街を水の底に閉じ込めている。
私は立ち上がって、雨の音に耳を澄ましながら、窓ガラスに額をくっつけた。
額がひんやりと冷たい。
気がついたら、レンが私の背中にそっと寄り添っていた。
私を腕で囲うように、窓ガラスに両手をつく。
ーーこんなところ、看護師さんに見つかったら、叱られるよ。
異性の部屋に入ったり、異性同士で過度に親しくなることが、精神科の病棟では禁止されていた。
レンは、返事をしない。
静かなレンの呼吸の音だけが、耳のすぐ近くで聞こえていた。
窓の外を電車が走る音がする。
病院の近くに、電車の線路が走っているのだ。
電車は、毎日、たくさんの学生服を着た人を乗せて走る。
彼ら彼女らは、私とレンが切り離された学校という場所に、毎日通う人たちだ。
普通の日々を生きる人たち。
私は通学時間の電車を窓の外に見るたびに、迷子になったような気分になる。
進むべきレールを見失ったみたいな気分に。
ーーリコは、恋って何か知ってる?
と、レンがもう一度聞いた。
ーー俺は、一生分からないかもしれない。
人を大事にしたり、人から大事にされたりできないかもしれない。
ーーなんで、そう思うの?
ーー人から大事にされたことがないから。
私は、レンに振り返った。
レンの顔は、すぐ近くにあった。
レンの息遣いを感じながら、レンの瞳をのぞきこんだ。
瞳の奥には、胸がしめつけられそうなくらいの悲しみがあった。
どんな過去を生きてきたのか知らないけれど、〝大事にされたことがない〟という言葉が嘘じゃないと思えるだけの暗い瞳をしていた。
この人は、孤独を知っている人だと思った。
私は、「さくら園」にいたたくさんの子供たちを思い出した。
そこには、いろんな事情で親と一緒に暮らせない子供がいた。
みんな、いい子達だった。
庭で遊ぶ時は楽しそうにしていた。
でも、時々、迷子になったような目をしていた。
自分が、この先、どんなふうに生きていくのかーー。
親元に帰れるのかーー。
ずっと施設にいるのかーー。
自分の未来は明るいのかーー。
自分の進む先がまったく見えなくて、途方に暮れているような目をしていた。
そして、その瞳には、計り知れないくらいの孤独感がただよっていた。
きっと私もそこで、同じような目をしていたはずだ。
ーー人を大事にすることも、
大事にされることも俺は知らないけれど、
さみしいのは嫌いなんだ。
誰かと一緒にいたいんだ。
レンは言った。
私はレンの頬にそっと両手で触った。
優しく包み込むように、そっと。
一緒にいよう。
私の口から出てきたのは、そんな言葉だった。
レンがうなずく。
私はレンの瞳をじっと見つめ、顔をそっと撫でた。
頬の骨や、ひんやりとした皮膚の感触が、私の手に伝わった。
レンは顔を撫でられている間、私から視線をそらしていた。人に慣れていない猫のように、体を緊張させていた。
だけど、私がそっと手を離そうとすると、私の手をつかんで、体を緊張させたまま不器用に顔を近づけてきた。
私たちは、キスをした。
これが恋かも分からないまま。
人を大事にすることも、されることも、
分からない同士で。
私たちは、きっと路頭に迷う。
だって、二人とも迷子同士だから。
もしかしたら、互いにひどく傷つけあう日もくるかもしれない。
それでも、私はレンに強く惹かれていた。
レンもきっと、同じ気持ちだと思った。
私たちは、迷子だけれど、もう一人きりで迷わなくても良いのだ。
手を繋いで、一緒に歩ける人を見つけたのだ。
ーーリコ、そばにいて。
私はその言葉に答える代わりにレンを抱きしめた。
できることなら、二人で生まれる時からやり直したいと思った。
ごく普通の家庭に生まれて、学校で知り合い、ごく普通の恋をしたかった。
でも、私たちは普通ではないので、
私たちなりの幸せを探しにいかないといけなかった。
レンも私を抱きしめた。
ほっそりしたレンの腕。ゴツゴツとした胸。
これが、レンと親しくなった最初の日だった。
続く~
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