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隠された憎悪と孤独〜 妻の居場所
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僕はパラパラとノートのページをめくった。
古い記載へとさかのぼるほど、文章がきちんと文章として形を成していた。
それは、もとは日記帳だったようだ。
(そういえば,一番新しいページにも日付らしい記載があった。それによると今日は12月20日らしい)
人の日記をのぞく、という行為はなんとも生々しい。
しかも、〝妻〟の日記だ。
他のどんな人の日記をのぞくより、生々しい気がした。
〝妻〟の秘密に侵入していくような罪悪感と好奇心を感じながら、僕はページをたぐった。
リナの日記は、どのページも驚きに満ちていた。
まず目についたのは、僕への赤裸々な不満だった。
不満、という言葉では足りないかもしれない。
憎悪ーー。
怒りーー。
そして、あきらめ。
たくさんの感情がうずまいているにも関わらず、リナはそれを僕に伝えることをあきらめていた。
僕が、何かしら、言語の通じない生きものーーもちろん会話はできるが、本当の意味で意思の疎通ができない相手ーーと思っているようだった。
そして、〝分かり合えない〟という思いと怒りが混ざり合い、もういっそ〝殺意〟に近いほどの憎悪を感じる瞬間が妻にはあるようだった。
例えば、ある日の日記にはこうあった。
ーー日曜日の深夜二時。
私は、飲み会から帰宅したら夫のために、夜食を作っている。
そうしながら、酔っ払った夫が、呂律の回らない口で仕事の愚痴をはきだしているのを聞いている。私は静かに微笑み、「大変ね」と優しい言葉をかける。
そして、そうしながら、
〝飲み会に出かけたまま、二度と帰ってこなかったら良かったのに〟と思っている。
この人が存在ごといなくなればいいのにーー。
私にはそう感じるときが時々ある。
殺したいとは思わなくても、消えてくれたらいいのに、と。
静かに、あきらめに似た微笑みを浮かべながら、私はひっそりとそう考えている〟
僕は読みながらノートを持つ手が震えた。
今いるこの部屋ーー仕事の疲れを癒すために帰ってくる場所ーーが、急に荒涼とした場所に変わってしまった気がした。
同じ部屋の中で笑っている妻が、僕に消えて欲しいと願っていたなんてーー。
僕はそんなことを知りたくなかった。
だけど、知りたくないと思いながらも、僕の目はノートの記載をなぞり、手は次々とページをめくってしまう。
僕は読むのをやめられなかった。
リナの中にそういった感情が生まれるのは、日常のささいな瞬間だった。
もっとも、それはリナにとってはささいなことなどではなく、僕がそれをささいなことだと思ってしまうこと自体がいけないのかもしれない。
しかし、断じていうが、僕は浮気などといったたぐいの裏切りをする男ではない。そういう、重大で決定的な裏切りを、僕はリナに対して一度もしたことがない。
だけど、リナが重大に思っていることはそういうことではないようだった。
〝僕〟と〝妻〟には何か決定的なズレがあるようだ。
そのズレのせいだろうかーー、
リナは日記にこう書いていた。
〝この家は、私の家のようで、私の家ではない〟
〝私には居場所が見つからない〟
〝私が私でいられる時間、私でいられる場所がない〟
僕は、それらの言葉を何度も読み返した。
そして、こう思った。
僕と子供とリナが過ごしてきたこの家は、リナにとっていったいなんだったのだろう。
〝居場所〟ではないなら、いったいーー。
日記には、時々、妻の回想が混じっていた。
小学生時代、リナは先生から〝強い子だね〟と言われることがよくあったそうた。
〝お父さん、お母さんに似て良くできた子ね。なんでもできるのね〟
〝頑張り屋ね〟
〝泣かないでえらいね〟
そういった回想について書くとき、リナは気持ちが乱れるのか、字が乱れていた。
本当は少しもそんな言葉なんてほしくなかったと言いたげな字だった。
〝小さい頃からずっと、居場所が見つからなかった。
周りにはたくさん大人がいるのに、一人きりで生きているような気がしていた〟
僕はなんとなく、リナが一人で夜中に家中掃除をしている姿を思い出した。
真夜中にリビングの床や階段や廊下を拭くリナ。
その後ろ姿。
何を思っているのか、どんな顔をしているのか分からない後頭部ーー。
それは、今思い返すと、ずいぶんさみしそうな後頭部だった。表情が見えていないのだから、何にさみしそうと感じているのか分からないが、見えない何かがそう感じさせていた。
それとーー。
僕が日記を読んでいて驚いたことは、たくさんの知らない人の名前が書かれていたことだった。
それらは、どうやらマナトやユズと同じ保育園を利用している子供の親の名前らしかった。
日記を読むかぎり、リナは他の保護者と関係性がうまくいっていないらしい。
保護者同士の交流会にリナだけ呼ばれなったり、PTAの会でいくつもの係を押し付けられたりしていたようだ。
〝誰かに相談したいけれど、誰も相談相手がいない。
両親はダメ。
あの人たちは、まったく共感性がなくて、昔から今日に至るまで、子供の話にまっすぐに耳を傾けてくれたことがない〟
と書いてあった。
リナの字はか細く、ノートの中で孤独そうにふるえていた。
僕は読んでいてつらかった。
これまで、僕は家族のために働いてきた。
そりゃあ、休日は自分の好きなことをしていたし、妻に育児も家事も任せっぱなしにしていたけれど、僕は、さほど好きでもない仕事を、月曜日から金曜日まで、毎週毎週耐えてきたのだ。それは、全部、家族のためだった。だけど、妻はーー。
妻は不幸せだった。
孤独だった。
僕に不満だらけだった。
僕はどんどんとページをめくる。
昔へ、昔へと、さかのぼっていく。
日記の中に、僕らの幸せの痕跡を探す。
しかし、去年の秋までさかのぼってもそんな痕跡はなかった。
〝日々、つらい。
子供にも時々あたってしまう。
それが一番つらい。
子供を産む前は、どんな服を着せようか、どこに一緒に遊びにいこうかと楽しみに思っていた。
思い切り愛してあげようと思っていた。
こんな気持ちを感じながら子育てをすると思っていなかった。
八つ当たりしてしまった日は、寝顔を見ながら、「ごめんね」とつぶやいている〟
〝最近、うまく眠れない。
頭の芯が痛い。
頭がうまく回らない。
胸がザワザワする。
時々、わけもなく不安になる。
一度、精神科で睡眠薬をもらった方がいいのではないかと思っている〟
リナは、去年の秋頃から、精神科の受診を考えていたようだった。
実際に受診を開始したのは今年の夏からだったので、なかなか決心がつかなかったようだがーー。
リナは、長い間、一人で苦しんで、一人で悩んできたのだな……。
そう思いながら日記を眺めていたとき、バタバタと足音が聞こえてきた。
リナが洗濯を干し終え、戻ってきたようだった。
僕はハッとした。
隠れなければーー。
なぜ、ここにいるの?
平日でしょ。仕事は?
そう問われたらなんと答えたらいいのかわからない。
隠れなければーー。
日記をのぞいてしまった罪悪感が、余計に僕を焦らせた。
僕はノートをテーブルの上に戻し、またキッチンカウンターの裏に隠れようとした。
慌ててテーブルのそばから離れようとしたとき、うっかりテーブルに体をぶつけてしまった。
ドンッと音がたち、テーブルが揺れる。
あっと、僕は思った。
テーブルの端に置いてあったリナのトートバッグーーさっき、リナが帰ってきた時にテーブルの上に置いたものだーーが、テーブルの上でグラッと揺れた。
そしてーー。
スローモーションのようにトートバッグが床に落ちていくのが見えた。
トートバッグが床にぶつかる音がして、開いたトートバッグからバラバラと中身が床に散らばった。
しまったーー。
僕がそう思った瞬間、ガチャっとドアが開いてリナが中に入ってきた。
僕らは目が合った。
お互いに、驚きで目を見開いていた。
「シュン? どうしてここにいるの?」
最悪だ。
僕は、自分の目を手でおおった。
続く~
古い記載へとさかのぼるほど、文章がきちんと文章として形を成していた。
それは、もとは日記帳だったようだ。
(そういえば,一番新しいページにも日付らしい記載があった。それによると今日は12月20日らしい)
人の日記をのぞく、という行為はなんとも生々しい。
しかも、〝妻〟の日記だ。
他のどんな人の日記をのぞくより、生々しい気がした。
〝妻〟の秘密に侵入していくような罪悪感と好奇心を感じながら、僕はページをたぐった。
リナの日記は、どのページも驚きに満ちていた。
まず目についたのは、僕への赤裸々な不満だった。
不満、という言葉では足りないかもしれない。
憎悪ーー。
怒りーー。
そして、あきらめ。
たくさんの感情がうずまいているにも関わらず、リナはそれを僕に伝えることをあきらめていた。
僕が、何かしら、言語の通じない生きものーーもちろん会話はできるが、本当の意味で意思の疎通ができない相手ーーと思っているようだった。
そして、〝分かり合えない〟という思いと怒りが混ざり合い、もういっそ〝殺意〟に近いほどの憎悪を感じる瞬間が妻にはあるようだった。
例えば、ある日の日記にはこうあった。
ーー日曜日の深夜二時。
私は、飲み会から帰宅したら夫のために、夜食を作っている。
そうしながら、酔っ払った夫が、呂律の回らない口で仕事の愚痴をはきだしているのを聞いている。私は静かに微笑み、「大変ね」と優しい言葉をかける。
そして、そうしながら、
〝飲み会に出かけたまま、二度と帰ってこなかったら良かったのに〟と思っている。
この人が存在ごといなくなればいいのにーー。
私にはそう感じるときが時々ある。
殺したいとは思わなくても、消えてくれたらいいのに、と。
静かに、あきらめに似た微笑みを浮かべながら、私はひっそりとそう考えている〟
僕は読みながらノートを持つ手が震えた。
今いるこの部屋ーー仕事の疲れを癒すために帰ってくる場所ーーが、急に荒涼とした場所に変わってしまった気がした。
同じ部屋の中で笑っている妻が、僕に消えて欲しいと願っていたなんてーー。
僕はそんなことを知りたくなかった。
だけど、知りたくないと思いながらも、僕の目はノートの記載をなぞり、手は次々とページをめくってしまう。
僕は読むのをやめられなかった。
リナの中にそういった感情が生まれるのは、日常のささいな瞬間だった。
もっとも、それはリナにとってはささいなことなどではなく、僕がそれをささいなことだと思ってしまうこと自体がいけないのかもしれない。
しかし、断じていうが、僕は浮気などといったたぐいの裏切りをする男ではない。そういう、重大で決定的な裏切りを、僕はリナに対して一度もしたことがない。
だけど、リナが重大に思っていることはそういうことではないようだった。
〝僕〟と〝妻〟には何か決定的なズレがあるようだ。
そのズレのせいだろうかーー、
リナは日記にこう書いていた。
〝この家は、私の家のようで、私の家ではない〟
〝私には居場所が見つからない〟
〝私が私でいられる時間、私でいられる場所がない〟
僕は、それらの言葉を何度も読み返した。
そして、こう思った。
僕と子供とリナが過ごしてきたこの家は、リナにとっていったいなんだったのだろう。
〝居場所〟ではないなら、いったいーー。
日記には、時々、妻の回想が混じっていた。
小学生時代、リナは先生から〝強い子だね〟と言われることがよくあったそうた。
〝お父さん、お母さんに似て良くできた子ね。なんでもできるのね〟
〝頑張り屋ね〟
〝泣かないでえらいね〟
そういった回想について書くとき、リナは気持ちが乱れるのか、字が乱れていた。
本当は少しもそんな言葉なんてほしくなかったと言いたげな字だった。
〝小さい頃からずっと、居場所が見つからなかった。
周りにはたくさん大人がいるのに、一人きりで生きているような気がしていた〟
僕はなんとなく、リナが一人で夜中に家中掃除をしている姿を思い出した。
真夜中にリビングの床や階段や廊下を拭くリナ。
その後ろ姿。
何を思っているのか、どんな顔をしているのか分からない後頭部ーー。
それは、今思い返すと、ずいぶんさみしそうな後頭部だった。表情が見えていないのだから、何にさみしそうと感じているのか分からないが、見えない何かがそう感じさせていた。
それとーー。
僕が日記を読んでいて驚いたことは、たくさんの知らない人の名前が書かれていたことだった。
それらは、どうやらマナトやユズと同じ保育園を利用している子供の親の名前らしかった。
日記を読むかぎり、リナは他の保護者と関係性がうまくいっていないらしい。
保護者同士の交流会にリナだけ呼ばれなったり、PTAの会でいくつもの係を押し付けられたりしていたようだ。
〝誰かに相談したいけれど、誰も相談相手がいない。
両親はダメ。
あの人たちは、まったく共感性がなくて、昔から今日に至るまで、子供の話にまっすぐに耳を傾けてくれたことがない〟
と書いてあった。
リナの字はか細く、ノートの中で孤独そうにふるえていた。
僕は読んでいてつらかった。
これまで、僕は家族のために働いてきた。
そりゃあ、休日は自分の好きなことをしていたし、妻に育児も家事も任せっぱなしにしていたけれど、僕は、さほど好きでもない仕事を、月曜日から金曜日まで、毎週毎週耐えてきたのだ。それは、全部、家族のためだった。だけど、妻はーー。
妻は不幸せだった。
孤独だった。
僕に不満だらけだった。
僕はどんどんとページをめくる。
昔へ、昔へと、さかのぼっていく。
日記の中に、僕らの幸せの痕跡を探す。
しかし、去年の秋までさかのぼってもそんな痕跡はなかった。
〝日々、つらい。
子供にも時々あたってしまう。
それが一番つらい。
子供を産む前は、どんな服を着せようか、どこに一緒に遊びにいこうかと楽しみに思っていた。
思い切り愛してあげようと思っていた。
こんな気持ちを感じながら子育てをすると思っていなかった。
八つ当たりしてしまった日は、寝顔を見ながら、「ごめんね」とつぶやいている〟
〝最近、うまく眠れない。
頭の芯が痛い。
頭がうまく回らない。
胸がザワザワする。
時々、わけもなく不安になる。
一度、精神科で睡眠薬をもらった方がいいのではないかと思っている〟
リナは、去年の秋頃から、精神科の受診を考えていたようだった。
実際に受診を開始したのは今年の夏からだったので、なかなか決心がつかなかったようだがーー。
リナは、長い間、一人で苦しんで、一人で悩んできたのだな……。
そう思いながら日記を眺めていたとき、バタバタと足音が聞こえてきた。
リナが洗濯を干し終え、戻ってきたようだった。
僕はハッとした。
隠れなければーー。
なぜ、ここにいるの?
平日でしょ。仕事は?
そう問われたらなんと答えたらいいのかわからない。
隠れなければーー。
日記をのぞいてしまった罪悪感が、余計に僕を焦らせた。
僕はノートをテーブルの上に戻し、またキッチンカウンターの裏に隠れようとした。
慌ててテーブルのそばから離れようとしたとき、うっかりテーブルに体をぶつけてしまった。
ドンッと音がたち、テーブルが揺れる。
あっと、僕は思った。
テーブルの端に置いてあったリナのトートバッグーーさっき、リナが帰ってきた時にテーブルの上に置いたものだーーが、テーブルの上でグラッと揺れた。
そしてーー。
スローモーションのようにトートバッグが床に落ちていくのが見えた。
トートバッグが床にぶつかる音がして、開いたトートバッグからバラバラと中身が床に散らばった。
しまったーー。
僕がそう思った瞬間、ガチャっとドアが開いてリナが中に入ってきた。
僕らは目が合った。
お互いに、驚きで目を見開いていた。
「シュン? どうしてここにいるの?」
最悪だ。
僕は、自分の目を手でおおった。
続く~
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