妄想に支配された妻 〜 妻を壊したのは、僕ですか? 病ですか?

あらき恵実

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妻が隠していたこと、僕が気づかなかったこと

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ーーん?

半開きの扉の中に僕は目をやる。
あれはなんだ?

流し台の下にはスチール製の三段ラックが置かれていて、調味料や調理器具が置かれていた。リナは真面目で神経質なので、よく整理されていて、掃除も行き届いていた。

そんな流し台の下に、気になるところが一ヶ所あった。

三段ラックの下にできた隙間に、ちらりと何かが見えた。身を屈めてのぞきこむと、紙袋に入った何かと、小さなノートのようなものが押し込まれていた。

何だろう?
それに、なぜ、わざわざそんな場所にしまわれているんだろう?

僕はどうしても気になって、それにそっと手を伸ばた。

手が紙袋に触れた途端に、カサッと小さな音がした。

その途端に、キッチンカウンターの向こう側から聞こえていたカリカリという音がピタリと止まった。
ノートに何かを書いていたリナが、手を止めたようだった。

「何の音ーー?」

僕は慌てて手を引っ込めて、物音を立てないよう、ピタリと体の動きを止めた。
そして、キッチンカウンターに隠れて見えないリナの気配に意識を集中した。

キッチンカウンターの向こうはシンとしていた。
向こう側の様子がまったく分からない。
今にも、カウンターの向こう側から、リナがこちらをのぞきこんでくるのではないかと思ってドキドキとした。

どうしよう。
隠れたりしなかったら良かった。
見つかったら、この状況をなんと説明しよう。

手のひらにじんわり汗をかいた。
自分の家でいったい何をやってるんだろう。
そう思っていた時、部屋の外から、何か音が聞こえた。

それは、ピロリロピロリロというメロディ調の機械音で、廊下を抜けた先の脱衣所の方角から聞こえてきた。

「洗濯、干さなきゃ……」

そう言うリナの声と、椅子をひいて立ち上がる音がした。

さっきの音は洗濯の終了を告げる音だったらしい。

リナはパタパタとスリッパを鳴らして部屋から出て行った。
 
そのすきに僕は、ラックの下のものを引っ張り出して、それが何であるか確認した。  

紙袋に入っていたものーー、それは内服薬だった。そして、小さなノートのようなものは薬手帳だった。

薬手帳には、薬をもらった病院、診療科、処方日、薬剤名などを記したシールが貼られていた。
それを見ると、いろんなことが分かってきた。

どうやら、リナは今年の夏から病院に通っていたようだった。
僕は、まったく知らなかったので、とても驚いた。
通っていたのは、僕の知らない名前の病院だった。
受診していた科は、「精神科」だった。

通院は八月から始まっていた。

八月は薬が一種類だけ出ていた。
薬の説明書も一緒に残してあったので、それが眠剤であることがわかった。

九月には抗不安薬が追加されていた。

十月には抗うつ薬も出ていた。眠剤ももう一種類追加されている。

少しずつ症状の訴えが変わっていったのか、薬の効き目がなくてあれこれ薬が追加されていったのかーー。
そこらへんは僕には分かりようがなかったが、だんだんと薬が増えているところから考えて、経過は思わしくないようだった。

十一月。
リナがもらった薬には、抗精神科薬という種類の薬が追加されていた。
説明書には、〝神経における過剰な情報伝達を遮断する薬〟で〝統合失調症の幻覚、妄などに効く〟と書かれてあった。

なんてことだろう。
少なくとも十一月には、抗精神科薬が必要となるような症状があったということだ。でも、僕はリナの変化に少しも気がついていなかった。

そして、十二月ーー。

十二月以降は、処方を受けた記録がいっさいなかった。
最終受診が十一月半ばで、もらった処方の数はニ週間分。
今は十二月の後半だから、処方通りに薬をのんでいたら、薬はとっくになくなっていた計算になる。

なぜ、リナは十二月以降受診をしていないんだろう。
まさか、勝手に通院を中断してしまったのだろうか。

いや、薬を飲み忘れて余っていたから予約を延期したのかもしれない。
あまり悪い方に考えるのはよそう。

僕は、その可能性を確かめるべく、紙袋の中に残っていた薬を全部取り出してみた。

すると、予想とはまったく違った答えが浮き上がってきた。

紙袋の中には、眠剤や抗不安薬、抗うつ薬は一錠も残っていなかった。
しかし、抗精神科薬だけは飲まずに大量に残されていた。

僕は残っている抗精神科薬を数えた。二週間分残っていた。
リナは一錠もその薬を飲んでいなかったようだ。

僕は、胸がザワザワとした。

薬手帳には処方を出した病院の電話番号が載っていたので、僕はズボンのポケットから携帯電話を取り出してそこへ電話をかけてみた。

呼び出し音が何度かなって、
「はい。◯◯病院、受付の渡辺です」
という声が聞こえた。

「あの……、そちらに通院していた綿谷リナの夫ですが、主治医の先生とお話することは可能でしょうか?」

「直接、医師ととりつぐことはできません。どういったことを聞かれたいんでしょうか?」

「そちらで出された薬を飲んでいないみたいなんです。それに、今月に入ってから受診もしていないみたいで……。大丈夫かどうか心配で……」

電話の向こうから、そうでしたか、と応じる声がする。それから、申し訳なさそうな声で、こんな答えが返ってきた。

「ご心配だと思いますが、病状や治療に関することは、ご本人さんの承諾なしにお話することはできません。
ご本人さんの診察に同行していただいて、診察室で主治医に質問していただくようにお願いします」

「本人の了解がなかったら、何にも教えてもらえないんですか?」

「申し訳ありません」

「僕は夫です。他人ではありません。
それでもダメですか?」

「例えご家族さんでもお話できないんです」

「病名は何ですか? それも秘密ですか?」

しつこく尋ねる僕に、渡辺さんは困惑するような声で答えた。

「そうですね……、お力になれず申し訳ありません」

僕はジリジリと焦れるような気持ちがした。
個人情報の保護にうるさい時代だから仕方ないのかもしれないが、これではらちがあかない。

「どうしてもお話になりたいなら、ご夫婦で来院できる日を検討して、診察予約を入れていただけたらと思いますが……」

「いや、でも、今話を聞かないと困るんです。
その……、僕はいつまで過去にいられるか分からないので……」

「は?」

渡辺さんが不審そうな声を出した。

「いや……、なんでもないです」

僕は過去と現在を行き来しているようなんですーー。
そんな話を渡辺さんにしたところで信じてもらえるはずがない。僕の方が、精神疾患があるのではないかと疑われるだろう。

「そうですね、予約か……、いつにしようかな……」

僕は予約を入れる日を考えるふりをしながら、なんとか話をうまく聞き出せないだろうかと考えていた。
カウンターに手をついて、「えーと……」と繰り返す。

その時、ちらりと、テーブルの上のノートが見えた。

僕は、その瞬間、驚きで目を見開いた。

ノートには、大小様々な文字でいろんな言葉がびっしりと記されていた。
それは、まるで、文章になっていなかった。
脈絡のない言葉の羅列。
意味をなさないまま、つながらないまま、ノートに放り出された無数の言葉。

〝脅される〟〝監視される〟〝狂人はアンタ〟〝性病をうつすな〟〝キチガイ!!〟〝目玉百個〟〝4333224444〟〝窓の外の目〟〝電磁攻撃で脳が溶ける〟〝クサイ、クサイ、クサイ、脳がクサイ〟〝夫の策略〟〝父、母はすでに死んでいる〟〝かわいそうな子供〟
〝私、死ンダ死ンダ死ンダ死ンダ〟

僕は、携帯電話を耳に当てたまま、目を見開いて固まっていた。
なんにも考えられなかったし、目に映っているものを現実のこととして受け入れることもできなかった。

ぼんやりとした頭の奥で、回転灯みたいに、過去の思い出がめぐっていた。
生まれたばかりのマナトを抱いて笑うリナの姿とか、ユズに授乳させているリナの姿とか。

「もしもし? もしもし? どうされました?」

電話の向こうから繰り返し渡辺さんの声が聞こえていた。
僕は、それに答えることもできず、突っ立っていた。

続く~




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