妄想に支配された妻 〜 妻を壊したのは、僕ですか? 病ですか?

あらき恵実

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混沌、そして終わりへの疾走

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婚姻届を出した日に、
僕とリナはどんな話をしていただろう。

照れ臭いような表情を互いに浮かべて、
初めて会った日からの出来事をあれこれと話していたような気がする。

二人でお昼ご飯を食べてから市役所へ行って、窓口で婚姻届にサインをした。
僕は少し緊張して、手に汗をかいていた。
リナはずっと幸福そうに笑っていた。
この人が、あと数秒後、僕の妻になるのだ。
僕はそれを幸福だと思った。

僕らはサインを終えると、
二人で顔を見合わせ、照れたように少し笑いあって、それから、二人で同時に印鑑を押した。

幸せしか見えていなかった頃ーー。
どんなに年月が経っても,二人の間にある気持ちは色褪せないと思っていた頃ーー。

僕は、車を走らせながら、
結婚した当初のことを思い返していた。

僕の車の前には、白いワンボックスカーが走っていた。
警察署の車だった。
パトカーではなく、一見ごく普通のワンボックスカーに見える車だ。
中には、警察官三名と、リナが乗っていた。警察官の一人が運転をし、残り二人が後部座席にいるリナを挟むようにして座っていた。

今、リナは病院へ運ばれている途中だった。
措置入院が必要だと判断されると、措置入院を受け入れてくる病院を探して、その病院へ移送される。

リナは、香川県内の精神科単科の病院へ入院することとなった。

僕は香川の地理をまったく知らないので、
警察の車に誘導してもらいながら病院を目指した。

時刻は二三時過ぎ。
車内には一人きりで、目の前には夜の闇に沈む見慣れない街の景色があった。
僕は、空っぽの助手席や後部座席をチラリと見てためいきをついた。
なんだか、とても心細かった。

二〇分ほど走ると、道の先に大きな建物が見えた。
立ち並ぶ民家の間に肩を突き出しているその建物は、リナが入院する病院であるようだった。
警察官とリナが乗った車が、その病院の駐車場に停まった。
僕も続いて駐車場に車を停める。
 
夜、まったく知らない病院を眺めると、
近づきがたいような雰囲気を感じる。
病院は六階建てだったが、それは夜の闇の中に巨人みたいにぬっと突っ立っているみたいに見えた。

警察官の一人がワンボックスカーの運転席から降りてきて、
夜間出入り口と書かれたドアの脇にあるインターホンを鳴らした。
その警察官は、田所という二十代の警察官だった。まだ措置入院の患者の移送業務になれていないのか緊張した面持ちをしていた。

返事がないようで、田所は何度かインターホンを鳴らしていた。
僕も車からおりて、夜間出入り口の前まで移動した。
リナは残りの警察官と共に車の中にいた。

インターホンを何度鳴らしても、応答がなかった。

「どうしたんでしょう……。措置入院の患者が来ることは分かっているので、すぐ応対できるように準備してくれているはずなんですが……」

田所がそうつぶやいた時、五、六台のパトカーが病院のまわりに停まった。
バンっと音を立ててパトカーのドアが開き、警察官が十数名おりてきた。
そして、ワラワラと夜間出入り口に向かって走り寄ってきた。

いったい何が起こったんだ??

僕も、隣にいた田所も目を丸くした。

「なんの騒ぎですか?!」
と、田所が走り寄ってきた警察官に尋ねた。

「閉鎖病棟の患者が病棟から脱走して、屋上から飛び降りようとしているそうです」

警察官の説明はこうだった。
今から約十分前、準夜勤務の看護師が巡視をしていた際に、閉鎖病棟から患者の一人がいなくなっていることに気がついた。
閉鎖病棟は一般病棟と違い、病棟と病棟外の間に一枚の扉があり、扉に鍵がかかっている。
患者がいなくなっていることに気がついた看護師は、すぐに閉鎖病棟のドアの施錠を確認した。
すると、しまっていないといけないはずの閉鎖病棟のドアが開いていて、患者がいつでも抜け出せる状態になっていた。
鍵が開いていた理由は不明。
病棟からいなくなった患者は双極性感情障害の五十代の男性で、スタッフが病院中探し回ったところ、屋上にいたのを発見。
屋上のドアは破壊されていたそう。
発見時、患者はフェンスの向こう側に立っており、「何もかも嫌になった。ここから飛び降りる」と言っていた。
スタッフはすぐに警察へ連絡。
それから現在に至るまで、スタッフは患者を刺激しないように距離をとりつつ、フェンスの内側へ戻るように説得しているところだった。
しかし、患者は一向に聞き入れる様子がなく、今、警察官が駆けつけたところだということだった。

説明を聞き終えてから間もなく、
夜間出入り口のドアが開いて、看護師一人と警備員一人がドアの内側に姿を現した。

看護師は男性で三十代くらい。額に汗をかいていた。
彼は緊張した面持ちで、
「屋上へ、案内します」
と、集まった警察官に言った。

ドヤドヤとなだれのように警察官が夜間出入り口の中へと入っていく。

「あの……、うちの妻の入院はどうなるんでしょう?」

予想外の事態に呆然としている田所に僕は尋ねた。
田所はハッと我にかえったような顔をした。

警察官の先頭に立って暗い廊下の奥へと進む看護師に、田所は大声で呼びかけた。

「すいません! 措置入院の依頼をした香川県警の者ですが、入院の対応もしていただけるんでしょうか?!」

「入院?!」

看護師が顔を引きつらせた。

「今のこの状況をみてください! 入院を受け入れられると思いますか?」

「しかし……、この病院で受け入れてもらう予定で書類も何もかも準備して、患者さんの移送も済ませてしまっているんです。
入院の手続きはすぐにできないにしても、患者さんをひとまず病棟に入れてもらうわけにはいきませんか?」

看護師は、ますます顔を引きつらせて、
「そう言われてもね、精神科の入院って簡単じゃないんですよ! 一般科とは段取りが違うんでね!」
と言った。

「じゃあ、どうすれば……」

「そんなの、上司と相談してくださいよ!
駐車場で待機するか、一度警察署に戻って待機するか、他の病院を探すことになるんじゃないですか?」

「そ、そんな……」

田所は動揺を隠しきれない様子だった。

その時、一台の車が病院の駐車場にやってきた。
リナの両親の車だった。両親は車からおりながら、駐車場に並ぶたくさんのパトカーを見て目を丸くした。

「これは、いったいどういうことなの?」
とリナの母親がつぶやく。
田所は、リナの両親に事情を説明した。

「今から上司に相談してみます。その上で今後の対応を検討しま……」

「もうけっこうよ!」

田所の言葉をさえぎって、リナの母親がカナギリ声をあげた。

「こんな安全管理がずさんな病院に娘を預けることなんてできないわ!」

「ああ、そうだ!」

父親も声を上げた。

「なら、他の病院にもあたってみます! とにかく、いったん上司に報告して、指示を待ちましょう!」

「いいや、精神科病院なんて、どこも似たり寄ったりだ! 私たちは最初から入院なんて嫌だったんだ! やっぱり、納得がいかん! 私たちは娘を連れて帰る!」

父親がリナの乗る車の後部座席のドアに手をかける。

「ここを開けろ!」

ロックのかかったドアに手をかけ、ガチャガチャと引っ張る。
その手を田所がおさえる。

「やめてください! そんなことしたって開きません!」

「おい! このドアを開けろ!」
義父はドアの窓をダンダンと叩いて中にいる警察官に向かって怒鳴った。

「お義父さん、やめてください!」

義父の肩を僕はつかんだ。

「シュンくん! どうして警察のかたをもつのよ! あなたもどうかしてるわ!」

夜の駐車場にいくつもの声が響く。
大混乱だった。
そんな中、リナは車の中で後部座席にもたれて目を閉じていた。眠っているようだった。よくこんな騒ぎの中、眠れるもんだ。
義父はリナの名を呼びながら、しつこくドアをこじ開けようとしている。
リナをはさむように後部座席に座っていた警察官のうちの一人が、義父がつかんでいるドアとは反対のドアから飛び出してきて、義父に駆け寄ってきた。

「いったんドアから離れましょう!」

田所と、駆け寄ってきた警察官が二人がかりで義父の身体をつかんでドアから引きはがした。

その時だった。
リナが車の中で、カッと目を見開いた。
そして、さきほど警察官が開いた側のドアから素早く外へ飛び出した。

そこにいた誰もが驚いて、あっけにとられていた。

目を疑うような足の速さだった。
体のリミッターが外れてしまっているみたいだった。
リナは瞬く間に駐車場を横切り、車道へ飛び出した。
走ってきた車がリナにぶつかる寸前で急ブレーキをかけた。けたたましいクラクションが鳴り響く。
義母がキャアアと悲鳴を上げた。

「何やってんだ!」

窓を開けてそう叫ぶ運転手を無視して、リナは病院の向かいに立つ雑居ビルと雑居ビルの合間の細道へ飛び込んでいった。

警察官があとを追って走っていく。
僕や義両親も一拍遅れて駆け出した。
しかし、僕らが雑居ビルの谷間にたどりついた時には、リナの姿は見えなくなっていた。

「手分けしよう!」
と、警察官の一人が叫ぶ。三人の中でリーダー格らしい年配の男だった。

二人がそれに「了解」と答える。

そして、三人は枝分かれする路地へ、ちりぢりに走っていった。
義両親も、リナ、リナと叫びながら路地を曲がりくねってどこかへいってしまった。

僕は田所のあとについて走った。
田所が無線で応援を呼びながら路地の奥へ走っていく。

その時、唐突に、ゴーンという大きな音が聞こえた。

ゴーン、ゴーン、ゴーン……、と繰り返し聞こえる。

僕は足を緩め、これは何の音かと考えた。
硬質な音だ。
金属をたたくような音ーー。

前方で田所が、走りながら僕に振り返ってこう言った。
「この近くに寺があるんです。
すっかり忘れていましたが、今日は大晦日でしたね!」

僕はハッとした。
そうか、これは除夜の鐘かーー。

そう思った時、僕の目にチラッと何かが映った。
飲食店やスナックが入った雑居ビルのガラスドアの内側で、何かが動いたのだ。

なんだ?

確かめるべく、僕はそのビルに駆け寄り、ガラスドアの内側に飛び込んた。
すると、階段を駆け上がる足音が聞こえた。

ガラスドアのすぐそばにラーメン屋が一つあって、その脇にある廊下を進んだ先に階段があった。
僕は階段を駆けあがった。

だんだんと足音が近づいてくる。

僕は階段を駆けあがりながら、先を見上げた。
すると、二階と三階の間にかかる階段に、
リナの背中を見つけた。

僕はその背中を追いかけて必死で階段を駆け上がった。
二人分の荒い呼吸の音と、階段を蹴る靴音が聞こえた。そして、ゴーン、ゴーンという鐘の音も、踊り場の開いた窓から聞こえていた。

「終わりにしてやる!」

ゴーン、ゴーンという音が、叫ぶ妻の声に重なる。

見上げた先にある踊り場の窓からは、月の光が差し込んでいた。あそこにあるのは、まだ今年の夜だ。
そして、あの夜の向こうに、新しい年が待ち構えていた。

「明日なんてこないうちに、私の手で終わらせてやるんだ!!」

また一つ、ゴーン、と鈍く重たい鐘の音が響いた。

まもなく、年が明けようとしている時に、僕の妻は見知らぬ土地の雑居ビルの階段を、狂ったように駆けあがりながら絶叫していた。

「リナ! 止まってくれ!」

叫んだ僕に、リナが振り返った。
その瞳には鈍色の光が宿っていた。
その目を見て僕は、凍りついた。
なぜなら、その目に、殺意を感じたからだった。

また、一つ、ゴーンと鐘の音がなった。
それは、新しい年の訪れを知らせているのではなく、何か不吉な出来事の訪れを、カウントダウンしているみたいに聞こえた。


続く~









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