7 / 11
6.
措置入院からの再スタート
しおりを挟む「自分の脳が腐るみたいなにおいがする。
私、病気かもしれない」
一二月の初めくらいに、リナが口にした言葉だ。
僕は、その言葉を聞いたとき、なんだそりゃ、と思った。
脳が腐るにおいなんて、嗅いだことがない。
それはどんなにおいなんだ?
しかも、自分の脳が腐るにおいを感じるなんて、ゾッとすることを言うもんだ。
「脳が腐ったら、そんなふうに普通にしゃべったり動いたりできないだろ。
変なこと言うなよ」
「でも、私、そう感じるのよ。
脳がドロドロ溶けていくみたいなの。
脳だけじゃないわ。
体も内側から腐っていくみたいに感じるの」
「気持ち悪いな。
そんなことあるわけないだろ。ゾンビじゃないんだから」
「真面目にとりあってくれないのね。
私、すごく怖くてたまらないのに」
今思えばーー、
あの言葉も、リナの精神症状の一端だったのかもしれない。
僕は、あの日、テレビでサッカーの試合を見ていて、リナの話にまともに取り合わなかった。
応援していたチームが二体三で負けた。たいして見どころもない試合だった。僕はビールを飲んで寝た。
僕は、つまらないことばかりに目を向けて、たくさんのことを見落としてきたのかもしれない。
僕は、警察署の廊下で、長椅子に腰掛けて、妻の診察が終わるのを待っていた。
聞くところによると、措置入院になるかどうかは、二名の医師の診察によって決まるそうだった。
そして、僕が警察署に到着する前に、妻は一名の医師から、すでに診察を受けていたそうだ。
リナを診察する二名の医師は、
精神科指定医という資格をもっており、患者が措置入院に該当するかどうか判断する資格をもっている。
普段は病院で勤務しており、警察署から依頼を受けて警察署にやってきたそうだった。
一人目の医師の診察結果では、
〝措置入院の必要あり〟
と判断された聞かされている。
なので、二人目の医師も、
〝必要あり〟と診断したなら、
リナは措置入院となる。
妻が、精神科病棟に強制入院ーー。
とても非現実的なことみたいに思えた。
僕は、診察が終わるのを待ちながら、
もうすでに遠い記憶のように感じられる、
我が家の日常の風景を思い返していた。
我が家の玄関の脇には車庫がある。
車庫にはマナトが生まれる前に買ったワンボックスカーが停まっている。
月に一度くらい、車庫に備え付けているシャワー付きホースを使って、僕はそれを洗った。
水をかぶる車の、後部の窓の内側には、チャイルドシートが二つ並んでいた。
玄関ポーチには、
リナの自転車と、マナトの三輪車、ユズのおもちゃの車がある。おもちゃの車は乗って遊べるタイプのもので、ユズの誕生日に買った。
僕は洗車をしながら、なんとなくそれらの景色を眺めていた。
それらは〝日常〟の象徴のようなものだった。
そして、僕は、〝日常〟とはいつもそこにあって、失われることがないもののように思っていた。
うつむいてそんな景色を思い返している僕の耳に、荒々しい靴音が聞こえてきた。
顔を上げると、廊下をこちらへ歩いてくる二人の人がいた。
リナの両親だった。
リナが警察署に保護された際、警察官は僕だけではなくリナの両親にも連絡をとっていた(僕はそれを警察署についてから、警察官から聞かされた)。
リナの両親は、警察官からの連絡を聞いて、東京から駆けつけてきたようだった。
彼らは、ひどく憤慨した顔をしていた。
そして、廊下の奥に僕の姿を見つけると、
「シュンくんじゃないか、君も聞いたか? 警察官の馬鹿げた説明を!」
と興奮と怒りに顔を赤らめて言った。
「リナが精神疾患患者かもしれないなんて、失礼すぎるわ!
恐ろしいことを言うのね!」
母親は、腹立たしさと恐怖で青ざめた顔をして、ぶるぶると身震いをしていた。
「私は長年都内の中学校で校長を務め、国から勲章をもらった人間だ」
「そんな人の娘をつかまえて、何を考えてるのかしら。
ここの警察署の人たちは全員あてにならないわ。
詐欺師よ!
詐欺師の集団だわ!」
父親は、ここまで案内してくれた警察官の胸ぐらをつかんで、
「娘を連れて帰る! どこで診察しているんだ!」
と、食ってかかった。
警察官は義父の勢いに圧倒され、目を白黒させていた。
「いったん落ちついてください!
まだ診察中ですし、そんなに大声をあげないでください!」
「何が診察だ!
勝手に警察署に拉致してきておいて!
家族に断りもなく、精神障害者扱いしやがって!
おまえらは、うちの血筋を侮辱するつもりか!」
父親は〝うちの血筋〟という言葉にことさら力を入れてしゃべった。
「侮辱?
とんでもない」
「なら、さっさと娘を出せ! 連れて帰る!」
ワイワイと騒ぐ義両親を、僕は唖然として見ていた。
僕はリナの両親と深い付き合いをしたことはなかったが、
僕が知る限りでは、義両親はいつも穏やかで上品な人たちだった。
とても気がきいて、人当たりもよかった。
絵に描いたような、理想の両親だと思っていた。
義両親の家には、義父の仕事関係の客がよく出入りしていたが、
客たちはみな口をそろえて、義両親のことを聖人のようによくできた人たちだと言っていた。
しかし、今目の前にしている彼らは別人のようだった。
これが、彼らの〝本性〟なのだろうか?
そう言えばーー、
以前、リナが両親のことを、
「苦手だ」
と、言っていたことがある。
「実家にはあまり帰りたくない」
とも。
僕はそれを聞いた時は理由が分からず、
「どうして? うらやましいくらい、いい両親だと思うけど」
と言った。
日曜日で、釣りに行く支度をしていた時のことだった。支度に忙しくて、僕はリナの言葉にたいして気を止めようともしなかった。
「何が、措置診察だ!
強制入院なんか、絶対にさせないぞ!
家族が拒否してるんだ!
それを、強制的に入院させるというなら、訴えるぞ!」
「それはできません。
家族の反対があっても、措置入院が必要と診断されたら、入院は拒否できないんです」
「誰に何の権限があって、そんなことを言うんだ!」
ドアの開く音がした。
「都道府県知事の権限です」
診察中ずっと閉ざされていた部屋の扉が開いて、
五十代後半の貫禄のある風体をした医師が姿を現した。
「精神保健福祉法第29条には、
都道府県知事は、
第27条の規定による診察の結果、
その診察を受けた者が精神障害者であり、かつ、医療及び保護のために入院 させなければその精神障害のために自身を傷つけ又は他人に害を及ぼすおそれがあると認めたときは、
その者を国等の設置した精神科病院又は指定病院に入院さ せることができる、
と定めています」
「難しい話をして、煙にまこうったって、そうはいかんぞ!
私はなんとしてでも、娘を連れて帰るからな!」
「娘さん帰すわけには行きません。
娘さんは、診察の結果、措置入院が必要だと判断されました」
「何だと!?」
「でも、そんなのおかしいじゃない。
私たち、娘が異常だなんて少しも思ってないのよ!
どうして、私たちの意見は聞いてくれないの?!」
まだ吠えるように反論する両親に、
医師は白衣を着た背中の後ろで手を組んで、静かにこう言った。
「そちらこそ、
どうして、娘さんの状態をまっすぐに見つめてあげようとしないんですか?
あなたたちは、ここに来てから、娘さんの状態を知ろうとしましたか?」
義両親が言葉につまる。
僕も身につまされる言葉だった。
僕も数日前まで、妻が精神的に追い詰められていることに気が付いてすらいなかった。
医師は、静かだが落ち着いた威厳のある声音で、こう言った。
「先程から、大声で話している声が扉越しに聞こえていました。
お父様は、長年校長先生をしていらっしゃったんですね。
勲章までもらったとのことで、
さぞ立派な教師だったのでしょう。
しかし、一言いってかまいませんか?」
義父がたじろぐような声を出す。
「な……、なんだ?」
「あなたがたの経歴なんて、
どうだっていいです。
校長?
勲章?
だからどうした、という話です。
あなたが娘さんを連れて帰りたいのは、
自分のプライドのためですか?
もしそうなら、プライドなんて、
今すぐ捨ててください。
そして、娘さんに必要な治療を受けさせてあげてください」
義父は、ぽっきりと鼻っ柱をへし折られた顔をして、肩を落とした。
僕は、長椅子から立ち上がると、義父に向かってこう言った。
「お義父さん、リナの現状を受け入れるのが難しいことはわかります。
ただ、今は何がリナにとって必要か考えてください」
僕はそう言いながら、自分自身にもその言葉を言い聞かせていた。
措置入院が必要だという判断は、リナの最近の経過を知っている僕からすると、妥当なものに思えた。
しかし、それでもショックだった。
しかし、まずはリナの診断と治療方針を聞いて、リナの現状と向き合うことが、今僕にできる最善のことだろうと思った。
僕はダメな夫だった。
妻は一日中家族のために生きているのが当たり前みたいに思っていた。
妻とはそういう生き物だと思っていた。
それをSNSでつぶやけば、全国の妻が憤慨するに違いない。
しかし、昔の僕には、それが分からなかったのだ。
僕は家事をしているリナの顔をじっと眺めたことがない。
リナが何を思い、何を感じながら家事をしていたのか、考えようともしてこなかった。
僕は、リナについて知らないことがたくさんある。
リナの両親が本当はどんな人かも、
今日まで知らずにいた。
もしかしたら、リナは僕に両親の本当の姿を伝えようとしたことがあるのかもしれない。
両親のことが「苦手だ」と打ち明けた時が、その時だったのかもしれない。
でも、僕は、その時まったくリナの話に関心をもとうとしなかった。
リナについて知らないことが、まだまだたくさんあるのかもしれない。
これから知るのでは遅いのかもしれない。
だけど、ともかく、ここから再スタートだ。
医師の背後に、リナがゆらりと立つのが見えた。
リナの目はランランとしていた。
そして、笑っていた。
ハハハハハ、と乾いたような笑い声をたてる。
しかし、その表情は、けっして楽しそうでもなく、なんとも感情がよめない表情をしていた。
ふっと一瞬、辺りの景色が暗くなる。
体が宙に投げ出されるような感覚がした。
まただ。
また、何か不可思議な現象が僕に起こった。
きっと、次の瞬間には、僕は違う景色の中にいるはずだーー。
思ったとおりだった。
僕は、気がついたら、
見知らぬ建物の階段を息を切らして駆けのぼっていた。
僕は、どこで何をしているんだ?
そう思う僕の目に、僕から逃げるように階段を駆け上がるリナの姿が映っていた。
僕はわけが分からないまま、リナの背中を追いかけて階段を駆けのぼった。
階段にある窓の外からは、除夜の鐘が聞こえていた。
建物の近くに寺があるらしい。
ゴーン、ゴーンと、
夜の空気を振るわせ、除夜の鐘が鳴り響く。
常夜灯がついた暗い階段にも、窓越しにくぐもった鐘の音が響いていた。
「終わりにしてやる!」
とリナが叫ぶ。
夜の階段に、リナの声が反響した。
景色は、また一瞬でもとの警察署の風景に戻った。
医師の背後で、リナが体をゆらゆらと揺らしている。
そして、ハハハハハという乾いた笑い声をたてていた。
義両親はリナから目を背け、肩を落としていた。
警察官は、リナが万が一暴れ出したら応戦しようと備えるように、リナの様子を鋭い目をして監視していた。
リナ以外は、みんな口を閉ざしていた。
静かな廊下に、リナの乾いた笑い声だけが聞こえていた。
異様な光景だった。
その光景の中で、リナ以外の者はみな、肩を固くして、体から緊張感を発散させていた。
僕は、リナを見つめて浅い呼吸をしながら、さっき見た不穏な景色を思い返していた。
あれは、幻だろうか。
何かの暗示だろうか。
そして、これから僕たち夫婦には、どんな未来が待ち受けていると言うのだろうかーー。
続く~
10
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説

精神科病棟 〜患者さんの死と向き合うこと
あらき恵実
現代文学
精神科病棟での患者さんの死は、
身体科の病棟とは〝違う意味合い〟をもつことがあります。
私たち、精神科看護師が向き合う死についてのエッセイ風小説。

精神科閉鎖病棟
あらき恵実
現代文学
ある日、研修医が、
精神科閉鎖病棟に長期的に入院している患者に、
「あなたの夢は何ですか」
と尋ねました。
看護師である私は、その返答に衝撃を受けます。
精神科閉鎖病棟の、
今もなお存在する課題についてつづった短編。



ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる