妄想に支配された妻 〜 妻を壊したのは、僕ですか? 病ですか?

あらき恵実

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5.

急性増悪〜警察署で妻が放った言葉は……

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四国。
初めて訪れた地で、二日ぶりに妻を見た。

妻は、知っているようで、まったく知らない人のようだった。

       •••


リナは、僕と夫婦でいた七年の間、
僕をどう思っていたんだろう。

結婚式を挙げた日、
赤く燃えていた愛の炎が、
ずっと同じ温度で燃え続けられるわけはない。

純白の、混じり気のなかった気持ちにも、
日々のさまざまな出来事の積み重ねで、 
いろんな色が混じっていったにちがいない。

リナの僕に向けられた心には、
どんな色が混じっていたんだろう。

僕は遥々四国まで車を走らせながら考えていた。

東京から神戸まで走り、淡路大橋を渡って徳島へ。そして、徳島から香川へ。 
約700kmの長い長い道のりだった。

徳島と香川は瀬戸内海に面していた。
四国の地から眺める瀬戸内海は、東京湾から眺める海とはだいぶ趣きが違った。
瀬戸内海は内海だから波が穏やかだと聞いたことがあったが、確かに海面がないでいた。
エメラルドグリーンの静かな海。
海面にキラキラと太陽の光が反射していた。
点在する島と、対岸にある本州が見える。


こんな時でなかったら、車を停めて海に魅入っていたかもしれない。
だけど、今は、ひたすら先を急がないといけなかった。
美しい海をあとにして、内陸部へ走る。
目的の地へ、
香川県警察本部へ。

        •••

僕が警察署の駐車場に車を停めた時、すでに日が沈み初めていた。

警官に案内をされ、通された一室に妻がいた。
部屋には机が一つ、椅子が二つあった。
リナは机の奥にある椅子に座っていて、リナの両脇には警察官が立っていた。
部屋の奥にある窓にはカーテンがかかっていた。

僕が部屋に入るとリナは顔を上げて僕を見た。

その時見たリナは、よく知る妻のようで、まったく知らない人のようだった。

顔はリナだ。
着ている服も、二十九日に着ていた部屋着のままだった。
履いているのは近場まで出かける時に使う、
履き古したサンダルだった。
家をでてからあまり食べたり飲んだり休んだりしていなかったのか、
たった二日でやつれてすっかり雰囲気がかわっていた。
しかし、一番変わっていたのは、目だった。

鋭い光を放つように、ランランとしていたが、
視線の先がどこに向けられているかわからないような目をしていた。
目の前の景色は、何一つ目に映っていないように見えた。
その証拠に、僕が部屋に入っても、なんの反応も示さなかった。

「リナ……」

僕は、出入り口で立ちすくんだまま、つぶやくように声を出した。
リナは、僕の声が聞こえているのかいないのか、虚空に向かって話しかけるみたいに、ブツブツと何か独り言を言っていた。声がひどく小さい。その上、言葉が不明瞭で、違う国の言葉を話しているみたいに聞こえた。

僕は驚いて言葉を失った。

「そのご様子からすると、今まで奥様があんなふうになられたことはなかったようですね」

「そうですね……。数日前から、少し様子がおかしかったんですが、ここまで異常ではありませんでした」

警官が眉根に力を込めてうなずく。

「受け入れにくい話かもしれませんが、奥様はなんらかの精神疾患を発症した可能性があります」

僕は、力なくうなずいた。

「病院に……、連れて行きます。
少し様子がおかしいなと思った時から、病院に連れて行かないといけないと思っていたんです。
もっと早く行動しておけばよかった。
まさか、こんなに急速に症状が悪くなるなんて……」

「その話なんですが……。
奥様は、症状が重篤です。
高速道路で起こした行動は、おそらく幻覚か妄想に影響されてとった行動だと思いますが、
あの行動は非常に危険な行動でした。
現在、奥様は自身の安全を守れないほど、症状が著明です。
なので、措置入院の対象になる可能性があります」

ソチ入院?
初めて聞く単語だった。
ただ、それを発する警察官の険しい顔つきから、それが何かしら不穏な響きをもつ言葉であることが察せられた。

「奥様は、おそらく自身の状態を客観的に判断ができません。
自身の判断で病院に受診して治療を行うことは難しいでしょう。
入院など、なおのこと承知しないでしょう。
しかし、入院治療を受けなければ自傷他害のおそれがある場合、強制的に精神科病院に入院になることがあります。
それを措置入院と言います。
奥様は、措置入院が必要かどうか、診察を受けることになります」

〝強制入院〟という言葉が胸を重たくした。
それほどに事態は深刻なのか。
目の前がまっ暗になった気分だった。

その時、部屋の奥でリナが顔を上げた。

「シュンが、なぜ、ここにいるの?」

ようやく僕が部屋にいると気がついたようだった。
ワナワナとふるえながら、目を見開いてこちらを見つめている。
その目は、長年連れ添った夫を見る目とは思えなかった。

恐怖と、怒り。
そして、不快の入り混じった目。

僕は、リナの目を見て驚愕した。

リナは、そんな僕に、何かを言おうと口を開いた。

その瞬間だった。
あたりの景色がふっと真っ暗になった。それと同時に、体が宙に放り出されたような感覚がした。
病院の階段をかけあがっていた時に覚えた感覚に似ていた。

まただーー。
いったい何が起こっているんだ?

驚く僕の前にサッと明るい光がさした。
ザブン、ザザザ……、と波の音が聞こえる。
足に冷たい水が触れる。
僕は、砂の上に裸足で立っていた。
ザザザ、ザブン、ザザザザー、と、波が繰り返し音を立てる。
僕の裸足の足のくるぶしから下のあたりに、波が繰り返し打ち寄せる。

顔を上げると、まぶしい太陽があった。

「何を考えているの?」
と隣から声がする。

隣を見ると、水着姿のリナが立っていた。
直径120cmくらいありそうな、大きな浮き輪を抱えていた。

「シュンが来たいって言ったんでしょ。古宇利島」

古宇利島!
僕はその地名を聞いて、懐かしさを感じた。
なぜなら、その場所は、僕とリナの思い出の場所だったからだ。

透き通った遠浅の海。
広々と広がる青い空。
海と空の間を走る全長1960mの古宇利大橋。
大橋のたもとにある古宇利ビーチ。
パラソルが白い砂浜に立ち並び、海水浴を楽しむ人々でにぎわっている。

僕たちは婚約中にこの場所へ旅行にやってきたのだった。

古宇利島への旅行の計画をたてたのは僕だった。

まだ僕らが恋人同士だった頃、僕はリナのために旅行を計画するのが好きだった。
旅行先で喜ぶ顔を見るのはもっと好きだった。
でも、なぜかしら、結婚してからはあまり旅行をしたいと思わなくなった。
結婚前にもっていた新鮮な気持ちを、いつの間にか忘れていたのかもしれない。

「泳がないの?」

そう言いながら、僕の手を引く。

僕は手を引かれるままに、波打ち際から沖に向かって歩いた。
そこは紛れもなく古宇利島の海だった。
そして、僕と手をつなぐリナは、結婚前のまだ若々しい姿をしていた。

パシャパシャと音を立てながら僕たちは歩いた。
遠浅の海に、足がだんだんと沈んでいく。
腰のあたりまで海につかると、リナは浮き輪の穴に腰をはめるようにして、プカプカと海面に浮かんだ。
波がやってきて、海面が揺れるたびに、リナは楽しげに笑い声を立てた。

僕は、そっと浮き輪を押しながら、沖に向かって泳いだ。
リナは時々足で海面を蹴って水飛沫をたてた。
はしゃいだ顔をしていた。

足がつかないくらい沖まで泳ぎ進んだとき、ふとイタズラ心がわいてリナの浮き輪をつかんだ。
浮き輪をひっくり返して驚かせてやろうかと思ったのだ。

しかし、僕はハッとして手を引っ込めた。
思い出の中でも、僕は同じようにイタズラ心がわいて浮き輪をひっくり返したのだった。
そのとき、リナはひどく怒っていた。
ちょっとしたイタズラじゃないか、と僕は言ったが、なかなかリナの機嫌がなおらなくて、しばらく険悪な雰囲気が続いたのだった。

同じ失敗はするまい。
僕は引っ込めた手でゆっくり波をかいて浮き輪の周りを泳いだ。

そんな僕を眺めながら、リナが、
「楽しいね」
と言った。
気持ちよさそうな顔をして、ぷかぷかと海面をただよっている。

うん、と僕は答えた。
なぜ、過去の景色の中にいるのかはわからなかったが、僕の心は数日ぶりに安らいでいた。

僕は背面を下にして海面に浮かぶと、白い雲が空をただようのを眺めながら、目を細めた。

その時、リナがこんなことを言った。

「私ね、実は海が嫌いだったの」

僕は驚いた。
そんなことを、リナから聞いたことがなかったからだ。

「せっかく旅行に誘ってくれたし、黙っていようかと思ってたの。
でも、今日とっても海が好きになれたから、
それが嬉しいから打ち明けるのよ」

「そうだったんだ……」

僕は立ち泳ぎをしながら、リナの顔を見つめた。

「でも、なんで怖かったの?」

リナは、考え込むように首を傾げた。

「泳げないからかもしれないけど、
でも、それだけではないの。

海を見ると、光も届かないような深く暗い海底を想像してしまって怖くなるの。
冷や汗をかくくらい怖いのよ。
想像しなければいいのに、想像するのをやめられないの。

きっと、母に似たのね。
母は何かにつけて怖がる人なの。
未知の病原菌とか、天災とか、交通事故とか、泥棒とか、火事とか、いつも何かにおびえているの。

警戒心が強くて、人間関係にも用心深かったし、被害妄想を持ちやすかったわ。
親戚から、変わり者だって言われてた」

リナの母親とは、あまり交流がなかった。
年に数回顔を合わせ、あいさつ程度の会話をするぐらいの関係だった。
あまり僕たちに干渉してくる人でもなかったし、母親のことはほとんど知らなかった。
なので、この話にも僕は驚いた。

「でも、不思議ね。
今は全然海が怖くない」

リナはリラックスしていた。 
柔らかな笑顔がきれいだった。
少し日に焼けた顔に、水に濡れた前髪がはりついている。
肩に散った水飛沫に日の光が反射してキラキラしていた。

「海の楽しさを教えてくれてありがとう」

リナは僕を見て、にっこりと笑った。
僕たちの周りに広がる海や空がとてもまぶしく見えた。
リナが笑っているから、景色がキラキラして見えるんだと思った。
僕の中に、リナとまだ恋人同士だった頃のような新鮮な気持ちが蘇る。

「シュンと恋できてよかった」
そう言いながら、はりついた前髪を左手でかきあげる。薬指で、婚約指輪が光っていた。

僕は浮き輪につかまって、リナのまっすぐな笑顔を見つめた。
それから、ため息を一つついた。

「僕は、ずっとそんなふうに思ってもらえるような男じゃないかもしれないけど……」

リナは黙って僕の言葉を聞いていた。
僕は、ゆらゆらと揺れる波を体に感じながらしばらく黙っていた。
波は、二人をどこかへ押し流そうとしている。

僕は結婚してからリナと過ごした七年の月日を思った。
そして、今の自分の素直な気持ちを見つめた。

「もしかしたら、この先、リナは僕と出会ったことを後悔することがあるかもしれない。
だけど、これだけは言える」

僕はリナの顔を間近で見つめて言った。

「僕はリナと結婚してから七年後、もう一度リナに恋をするよ」

僕の胸には、今、とくとくと熱い気持ちが息づいていた。

リナは、僕の顔をじっと見つめた。

「不思議なことを言うのね」

「でも、本当のことだよ」

僕とリナはじっと見つめ合う。
それから、ゆっくりと海の上でキスをした。
リナの唇や鼻先、濡れた髪は、潮の香りがしていた。

僕は目をつぶり、しっかりと腕の中にリナを包んだーー。

         •••

何かが僕に起こった。

腕の中からリナの感触が消えた。
体を包んでいた海水の感触も、サンサンと降り注いでいた日の光のあたたかさも消え失せた。

驚きながら目を開くと、そこには警察署の一室があった。

机があって、その奥にある椅子にリナが腰かけていた。リナの両脇には警官が立っていた。

リナは僕をまっすぐに見ていた。
その目には、恐怖と怒りと不快の色が浮かんでいた。

リナはワナワナとふるえながら、目も口も大きく開いていた。
目に、狂気がじみたギラギラした光が浮かぶ。

「この人っ!
私を殺そうとしてるんです!

この人が私の体を操って、高速道路の真ん中に座らせたんです!

この人を早く処刑してください!」

僕は、めまいがしそうだった。
古宇利島で見たリナのはしゃいだ笑顔を思い出す。

興奮して立ち上がるリナを警官の一人がなだめる。
その間に、もう一人の警官が僕を部屋の外に連れ出した。

廊下で、警官は僕と向き合ってこう言った。

「気にしない方がいいですよ。
病気が言わせている言葉です。
奥様の本心じゃない」

僕はうつむいた。窓を背にしていたので、自分の影が足元に見えた。

ーー本当だろうか。
あの言葉は、病気が言わせている言葉だったんだろうか?

僕は結婚してから、今までの七年という月日を思った。

七年の間、リナは何を思いながら僕の隣にいたのだろう。
リナの心の中には、きっと言葉に出さないような思いがたくさんあっただろう。

リナの本心って、一体なんだろうーー。


続く~
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