妄想に支配された妻 〜 妻を壊したのは、僕ですか? 病ですか?

あらき恵実

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2.

決意の朝! 迫る第一の死

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僕はパソコンの電子掲示板に、昼間の妻の言動を書き込んだ。
すると、すぐに返信が何通もあった。

そこに並んだのは、
未知の病名だったーー。

僕はそれを読んで、ある決意をした。
しかし、その決意は、僕を一度目の死へ追いやることとなった。

     •      •      •

マナトがまだ乳児だった頃のことだ。
僕は職場の後輩と山登りをした。

後輩は、佐藤という二十代半ばの地味な独身の男だった。

佐藤は大学生時代に登山サークルに入っていたそうだ。社会人になってからは仕事に慣れるのに精一杯で、ニ年くらい登山をしていなかったという。

しかし、今の職場に就職してから一年が経ち、仕事にも慣れたので、久々に山登りをしたいと思っていたそうだ。

そんなおり、佐藤はたまたまスポーツ洋品店で僕と遭遇した。二人とも、手に登山グッズを持っていた。

そこから、二人で登山をしようという話が持ち上がったのだった。ちなみに、その頃僕はまだ店長ではなく平社員だった。僕はあまり先輩風を吹かせるタイプでもないし、佐藤からすると気楽に話すことができる先輩だった。

山には雪が積もっていて、真っ白だった。
空は冬晴れで、水色と純白の対比がきれいだった。
雪が太陽を反射して眩く見えた。
空気は冷たかったが、清潔なにおいがして、息を吸い込むたびにワクワクとした。

新雪に、ザクザクと登山用の杖を突き立てながら僕らは山を登った。
僕が前を、佐藤が後ろを歩いていた。

「ねえ、綿谷先輩」
佐藤が後ろから声をかけてきた。
ハアハアと息が荒い。

ぼくも息をはずませながら、
「なんだ?」
と尋ねた。
はるか上空で、ピーヒョロロとトンビの声がする。

「一緒に登山しようって声をかけてもらってこんなこと言うのもなんなんですけど、
先輩は家庭持ちなのに、週末は家族サービスをしなくていいんですか?」

僕は佐藤に振り返った。
佐藤はグレーのニット帽とマスクの間に見える頬を寒さで赤くしていた。
佐藤の後ろには、二人分の足跡が残る真っ白い斜面が見えた。
あたりに、人はおろか、動物の足跡も見えず、雪山は静かだった。
どことなく、神聖で厳かな雰囲気がした。

「いいよ。妻は働いてないんだ。毎日、休みみたいなもんだろ」

佐藤は苦笑した。

「それ、奥さんの前で、絶対言わない方がいいですよ。
女性社員の前でも。
大ひんしゅくを買いますよ」

僕はハハハと笑った。

「あ、先輩、笑って聞き流そうとしてるでしょ?」

「当たりだ」

「ったくもー」

佐藤が呆れたような声を出す。
僕はもう一度、ハハハと笑った。

この手の会話は、結婚してから何度もしたことがある。
だけど、いつだって本気でそういった話を聞いたことがなかった。

結婚した男には、みんな何かしらそのような〝戯言〟を言いたくなるらしい。

でも、それはあくまで〝戯言〟であって、
本気で聞く必要はない話だ。

僕らはしばらくハアハアと息を弾ませながら黙って雪山を登った。
時々、僕らに驚いた鳥が、木の枝を揺らして空に飛び立った。そのたびに、木の枝からドザドサと雪が落ちた。

「……先輩、例えばですけど、一年に一日も休みがない仕事があったらやりますか?」

佐藤は、僕の背中に、唐突にそんな質問をした。

「なんだ、そのブラック企業。ありえないだろ」

白い息を吐きながら僕は答えた。

「しかも、就業時間は朝から晩まで」

「はあ? 誰がやるっていうんだ、そんな仕事」

二人の声に、ザクザクと、雪を踏む小気味良い音が重なる。

「そんな仕事をやってる人がいるんですよ」

「誰だよ?」

ザクザクという音の合間に、佐藤は短くこう答えた。

「母親ですよ」

僕はピタリ足を止めた。
佐藤も僕の背後で足を止めた。ザクザクと言っていた音が急にやまる。

母親?

僕は佐藤に振り返った。
佐藤は、ニット帽とマスクの間にのぞく目に真面目な表情を浮かべていた。

「育児に休みはありませんから。

出過ぎたことかもしれませんけど、
もう少し、奥さんに感謝した方がいいと思いますよ」

僕はしばらく黙り、佐藤の真面目な瞳を見つめていた。

「そうだな」
やがて、僕はそれだけ言って、また前をむいて歩き始むた。

また、ザクザクと雪を踏む音が一定のリズムで聞こえていた。
僕は黙ってそれを聞きながら、こう考えていた。

育児に休みはありませんから、か……。

僕らは登頂し終え、山頂からグルリと景色を見渡した。
真っ白い広大な景色が広がっていた。
山の尾根がはるか彼方まで連なっている。

僕は、その壮大な景色を眺めながら、
この景色とは真逆の、とても小さな景色を思い出していた。

それは僕とリナと子供が暮らす、
狭い我が家の部屋の中の景色だった。
リナは今も、小さな家の中で一人きりで育児という名の仕事をしているのか。

たたみかけの洗濯物。
火のついた鍋。
寝不足の顔をしながら、泣くマナトを抱き抱えるリナ。

昨日も一昨日もそんな景色を見た気がする。

そう言えば、
最後にリナがマナトと離れて自分一人の時間を過ごしたのは、一体いつだっただろう。

僕は、登頂したというのに、少しも爽快でなかった。
リナと子供と、狭い我が家を思い出し、
罪悪感と孤独な気分を味わっていた。

ピーヒョロロと、とんびが上空で舞っている。
雪山はだだっ広く、静かだった。
冷たい空気で肺の内側まで冷たくなってくる。
寒いと気弱になるのはどういうわけだろう。
僕は、帰ってリナがいれた温かなスープを飲みたいと思った。

「帰る前に、奥さんにケーキでも買ってあげたらどうですか?」

山頂で佐藤が手を広げて気持ちよさそうに息を吸い込みながら言った。

「ケーキか……」

「奥さん、何が好きなんですか?」

リナが好きなものか……。
僕はしばらく考えて、
「子供だな」
と答えた。

何かいるものない?

日曜日、釣りや山登りなどに出かけたら、
帰りがけに僕は妻にそう電話で尋ねるようにしていた。
リナは、いつも子供のために必要なものを答えた。
自分が欲しいものをねだったことはない。

無欲なのか、自己犠牲的なのか。

リナはとても真面目な人だったから、
常に母親らしくいなければならないと思っていたのかもしれない。

そういう精神的な意味でも、
リナは、二十四時間三六五日、
〝母親〟という仕事をしているのかもしれなかった。

リナはいつからそんなふうになってしまったんだろう。
僕は記憶をたどっていく。

そして、結婚する前の記憶にたどりつく。

約十年前。
僕らが結婚する前ーー。

その頃、リナはまだ一人の女性の顔をしていた。

リナはその頃、旅行代理店で働いていた。
職場の制服がよく似合っていた。

とびきりの美人というわけではなかったけれど、とても仕事に真面目で客思いで、あたたかたかみのある接客をした。

僕は、二泊三日のバスツアーの申し込みをした。行き先は横浜の中華街だった。

僕は書類に、記載事項を書き込んだ。
すべて必要事項を書き終えて、リナに書類を渡すと、リナは、
「旅行を楽しんでください」
とにっこりした。

僕は、リナに、
「一緒に行きませんか?」
と言った。

「え?」
とリナは目を丸くした。

「旅行、一緒に行きませんか?
その、あなたがもし行きたいと思ってくれるなら」

リナはしばらく沈黙し、それから、
「はい。ぜひ」
と答えた。

それが僕らの始まりだった。
 
バスツアーの日、私服姿のリナを初めてみた。
旅先で、リナはよく笑い、よくしゃべり、時々ケンカして怒っていた。
好きなアーティストがいるらしいことを聞いた。コンサートに行くのが好きだそうだ。
好きな服のブランドもあった。
アロマキャンドルを作るのが趣味で、自分の作ったものをネット販売したいという夢も持っていた。

あの頃のリナは、家庭にも、妻という役割にも、母親という役割にも縛られていなかった。
自由に空を飛ぶ鳥のようだった。

そんなリナは、僕と結婚し、
妻になり、母になった。

いつのまにか、服も買わなくなったし、コンサートにも行かなくなった。
アロマキャンドルも作らなくなった。
鳥みたいだったリナは、 
いつの間にかはばたくのをやめて、 
子供の未来をみすえ、
真面目に地に足をつけて歩くようになった。

リナは、いつ、一人の女性だった自分と決別したんだろう。
そして、僕はいつまで、父親になりきれず、
休みのたびにしたいことをして遊んでいるんだろう。

トンビが遠くで鳴いている。
リナと子供を残してやってきた山頂は、
真っ白に染まって美しく、壮大で、孤独だった。

      •    •     •

あの時、味わった気持ちを忘れずにいたら、僕は、今、まったく違った状況にいたかもしれない。

僕は、夜中にこっそりと、寝室を抜け出し居間にあるパソコンで、ネットを開いていた。

そして、質問を投稿できるネット上の掲示板に、昼間のリナの言動について書き込んだ。

〝……このような、言動がありました。
妻は何らかの精神疾患をもっているのでしょうか?〟

すると、すぐに、いくつもの回答が返ってきた。

〝奥様の異常な言動は、幻覚や妄想によるものだと思います〟

〝統合失調症ではないでしょうか?〟

〝お歳はいくつですか?
幻覚や妄想は、認知症でもおこります〟

〝妄想性障害の場合も、妄想やそれに関連した幻覚を生じます〟

〝妄想だけなら、うつ病や躁うつ病でも起きますが……〟

〝幻覚は、脳炎や統合失調症、認知症、アルコール依存症、薬物依存症、ナルコレプシーなどで起きますよ〟

次々と返ってくる返答を読みながら、僕は暗たんとした。
誰も、楽観的な意見を返してはくれなかった。
しかも、並ぶ病名は僕にとって、未知のものだった。

妻が病気かもしれない。

妻が病気かもしれない。

僕は、その事実を受け止めきれないでいた。
自分自身が病気になるより、よっぽどショックだった。

どうしたらいい?
どうやって確かめたらいい?

考えるべきことはたくさんあったのに、頭が考えることを拒否しているみたいだった。
フリーズしたパソコンのように、ループがクルクルと回っている。
何の考えも浮かんでこない。

僕はため息をついて、パソコンの置かれた机につっぷした。そして、しばらくそのまま動けなかった。

消灯された部屋の中で、パソコンの画面だけがこうこうと光っていた。
ブーンという小さな機械音がする。

やっぱり病院にいくべきなんだろうか……。

行くべきなんだろうな。

だけど、リナになんと伝えたらいいだろう。

精神科疾患を疑っていると言われて、「はい、そうですか」と返事する人がいるだろうか。

病院に行こうと言って、すんなり応じるとは思えなかった。

説得しようと思ったら、相当な覚悟がいるだろう。

リナは立腹するかもしれない。

ケンカになるかもしれない。

それでも、なんとか納得してもらわないといけない。

たくさんの言葉と時間と根性が必要になるだろう。

いつ話そう。
きっと、早い方がきっといいんだろう。

僕はパソコンを閉じる。
部屋の中にあった唯一の光が失われ、暗闇に部屋がのまれた。

机の端に飾られた家族写真も、暗闇に飲まれていた。
そこにある、リナと子供の笑顔も。

暗がりの中を手探りで歩いていたら、しまい忘れたオモチャの車を蹴飛ばした。
シャーッとタイヤが回る音がして、タンッと壁にぶつかった。

僕は目をつぶった。
この部屋には、リナと子供の生活の気配が満ち満ちていた。

僕は、それらの気配がいっさい消えた部屋を想像してみる。

オモチャで散らかっていない子供部屋。

バタバタ走り回るマナトとユズの足音、
「パパ!」と呼ぶ声のしない廊下。

料理を作る妻の姿もなく、料理のにおいもしないダイニングキッチン。

「おかえりなさい」という声もない玄関。

ガランとした暗い居間。

僕は、想像して寒々しい気持ちを感じた。

そして、気がついた。
僕は今の生活を失いたくないんだということに。

それならば、
僕は腹をくくらないといけない。

リナと子供と今の生活。
失いたくないもののために立ち上がらなければならない。

まずは、リナと、リナの現在の状態と、
向き合わなければならない。

僕の妻と。

ケンカした翌日も、お弁当をかかさず作ってくれた妻。
僕の子供を産んでくれた妻。
風邪を引いた日も、夜間二時間おきに起きて、授乳してくれた妻。

僕は、左手の薬指にはまった指輪に、右手の指でそっと触れた。
それを僕が初めて妻の指にはめた時、妻は涙を袖で拭いなら、うれしそうに笑った。
ぬぐってもぬぐっても、涙がポロポロと妻の目からこぼれた。
きれいな涙だった。

健やかな状態の妻を失って、僕はいまさらのように結婚してから毎日そばにあった妻の姿を愛しく思った。

当たり前のようにそばにいてくれて、
当たり前のように生活を支えてくれてありがとう。 

そして、
妻が元気でそばにいることを当たり前のように思ってしまってごめん。
そう、僕は暗い部屋でつぶやいた。

       •       •      •   

翌朝、僕はある決意を固めた。

目を覚ますと顔を冷たい水で洗った。決意を固めるみたいに。

リナは珍しく寝坊していた。
僕はベッドの脇にそっと腰を掛けた。
ベッドがきしんでリナが目を覚ました。

「おはよう」
と僕は声をかけた。

「今日は朝早いのね」

「もう九時だよ。子供たちも起きてる」 

リナは驚いて跳ね起きた。
僕は、そんなリナの肩に手をやった。

「いいんだ、ゆっくり寝てて。
これまで、朝のんびりしたことなんてなかっただろ。
たまには、のんびりしなよ」

「でも……、朝ごはんは?」

「トーストと目玉焼きぐらいなら、僕でも作れるよ。
子供たちもちゃんと朝ごはんを食べたから。
なんにも心配いらないよ。二度寝でも、三度寝でもしてて」

そう言ってから、僕はリナをもう一度ベッドに寝かせた。
リナはまだ目が覚め切っていないような顔をして、されるがままに横になった。
化粧っけのない顔を横たわるリナは、普段より幼なげに見えた。

「僕はこれからどうしようかな」
なるべく自然な口調を装ってそうつぶやいた。

「そうだ、子供たちを連れて公園にでも行ってくるよ」

妻は、キョトンとして僕を見ていた。

「珍しいわね。そんなこと言うの」

怪しまれただろうか。

「たまには、僕だって父親らしいことをしたくなるんだよ」

ふうん、と妻は言う。
僕の言葉を信じてくれたのかどうか、表情からだけでは読み取れなかった。

「とにかく、今日のところは子供たちの世話も任せてリナはゆっくり寝てて」

僕はそう言うと寝室の外に出た。
そして、ドアの前で額の汗を拭った。
不自然じゃなかっただろうか、
ずっとヒヤヒヤしていた。

でも、とりあえず計画の第一段階はクリアだ。

今日、僕はリナをなんとか説得して、病院に受診させようと思っていた。
その間、子供たちは家にいない方がいい。
リナが病院に行かなければならないと知ったら心配するだろうし、
病院に行く、行かないでもめる僕らの姿をみせたくなかったからだ。

だから、次にやることは……。

僕は自分の頭の中にある計画に思いを巡らせながら、子供たちが遊んでいる居間に向かった。

「マナト、ユズ、出かけよう」  

子供部屋のドアを開けて、僕は言った。

計画の第二段階の開始だ。
さあ、まだやらないことはたくさんある。

僕は、決意を固めるように、腹の底にグッと力を込めた。

子供部屋にはオモチャが散乱していた。
水色のカーテンが開いた窓からは、出かけるのにちょうどいい澄んだ空が見えていた。

      •    •   •

「マナト、ユズ、出かけよう」  

床に散らばったオモチャで遊んでいた二人は、パッと顔をあげて僕を見た。

「パパ、どこにー?」
とユズが尋ねる。

僕は二人の前にしゃがんで声をひそめた。

(ばあばの家だよ。今日はばあばの家にお泊まりだ)

「やったー!」
と二人は飛び跳ねる。

僕はとてもホッとした。
嫌だ、とか、家にいたい、とか言われなくて良かった。

僕は二人の気持ちが変わらないうちに、手を引いて家の外にでた。
駐車場に向かい、子供らと車に乗りこむと、
僕は車を実家へと走らせた。
ここから実家までは、車で約一時間の距離だ。

車を走らせながら、僕はずっとドキドキしていた。

うまく、二人を連れ出せた。
良かった。

これで、妻を説得したり、
病院に連れて行く間、
子供たちを実家の両親に見てもらえる。

子供たちは、後部座席で足をぴょこぴょこと動かしていた。
無邪気な顔で窓の外を眺めている。

赤信号で車が止まる。
僕は一刻も早く車を実家に到着させたくて青信号になるのをイライラしながら待っていた。

その時だった。
ユズがこう言った。

「ママは?

ママは一緒に行かないの?」

バックミラーに映るマナトが、明るい顔をしてこう言った。

「ママはお寝坊したから、あとから来るんだよね?」

「あ、そっかー」とユズが言う。

バックミラーをのぞくと、そこにはそう信じきっている二人の顔が並んでいた。

僕はしばらく言葉がでてこなかった。
信号が青になっても、アクセルを踏むのが遅れた。
慌ててアクセルを踏みこむと、ギュンとスピードが出て、ヒヤリとした。
僕は冷や汗をかきながら必死に運転をした。そうしながら、子供たちにこう答えた。

「……ママは、来ないんだよ」

子供たちは、後部座席でそろって、
「えー?!」
と声をあげた。

「やだ! ユズ、ママがいないと寝れないもん」

「僕もママと一緒にいたい!」

二人は泣き出しそうな口調になっている。

僕は、悲しいような悔しいような気持ちが、胸いっぱいに広がった。

そうだよな、ママがいいよな。
これまで、いつも一緒にいてくれたのは、ママだもんな。

僕はハンドルをギュッとにぎりながら、
「ママも……、ママも、あとから来るから……」
と嘘をついた。

「ちゃんとパパが連れて行くから。
先に行って待っていような?」

僕の声は震えていた。
子供たちにバレないことを祈るばかりだった。

       •   •     •

実家の母は、連絡もなくやってきた僕たちを見て目を丸くさせた。

「どうしたの? 急に」

「どうしたのって、もともと正月には泊まりに来る予定だったじゃないか。
ちょっと早めただけだよ」

「それならいいけど……、でも、どうしてリナさんはいないの?」

「ママ、お寝坊したんだ」
とマナトがあどけない声で言った。

「まあ、そうだったの」

母はマナトに笑いかける。

「でも、寝坊したからって、リナさんを残してくることないじゃない。
あとで、ちゃんと迎えにいってあげなさいよ」
と、今度は僕に顔を向けて言った。

僕は、「分かってるよ」と返事をした。

「まあ、とりあえず上がったら」

母は玄関にいる僕らにそう言うと、背中を向けて廊下を歩いた。

僕とユズとマナトは、靴を脱ぐとズラズラと母の後ろに並んで歩いた。

「急だから、泊まる部屋をかまえなくちゃね。布団も干さなきゃ」
母親は、独り言のようにぶつぶつと言っていた。

「ユズ、お手伝いするー」

母親が、ユズに振り返って「ありがとね」と祖母らしいやわらかな笑顔を見せた。
それから、僕を見て「あ、それから」と言った。

「聞いてなかったけど、何泊するの?」

僕は言葉をつまらせた。

「き……、決めてないんだ」

「じゃあ、荷物は何泊分かまえてあるの?」

荷物!
僕は真っ青になった。

「まさか、シュン、何にも持ってきてないんじゃないでしょうね?」

そのまさかだ。
僕は大マヌケだが、荷物がいることに思いも至らなかった。
それというのも、出かけるときは、いつもリナが荷物をかまえてくれていたからだ。

「リナさんに荷物の準備を頼むことね。

いつもリナさん、怪我をした時や、病気になったときのことまで考えて、細々と荷物を準備してくれているのよ。

あなた、泊まりがけのお出かけに何が必要なのかも知らないんじゃない?」

その通りだった。

「あ、それからね」

母親が僕に振り返る。

「お花、ありがとうってリナさんに言っといてね」

「花?」

「リナさんが贈ってくれたのよ」

母は襖を開け、畳の部屋に僕らを通しながら言った。

「贈った? なんで?」

「なんでって……。
嫌だわ、あなた、自分の母親の誕生日も忘れたの?」

母は、パチンと蛍光灯の紐を引っ張りながら呆れた顔をした。

あ、と僕は思った。
確かに最近、母は誕生日を迎えたばかりだった。

「お花は、毎年あなたとリナさんの連名で届くけど、あなたはそんなにマメな子じゃないから、どうせリナさんが送ってくれてたんでしょう?」

僕の母の誕生日に、リナが毎年花を送っていることすら知らなかった。

ーーお義母さん、もうすぐ誕生日でしょ? プレゼントどうする?

母の誕生日が近づくとリナは毎年僕にそう聞いた。

ーーいいよ、プレゼントなんて。
ーーそういうわけにいかないでしょ。
ーーいい、いい。歳だし、誕生日なんてめでたくもないよ。

毎年繰り返してきたやりとりだった。
相談にのろうとしない僕に内緒で、リナがこっそり花を送っていたようだ。

「あ、あの花よ」
窓のカーテンを開きながら、母親が庭に目を向けた。

母の視線の先には、鉢植えに植ったクリスマスローズが咲いていた。

「あれが、今年贈ってもらった花。
去年はポインセチアだったわね」

僕は冬空の下で咲いた白いクリスマスローズを眺め、こう思った。
リナがこれまで家族のために行ってきたことは、どのくらいたくさんあるんだろう。
僕が知らないことも、気にかけていないようなことも、たくさんあったのだろう。

朝起きたら食卓に並んでいる食事、
アイロンのかかったシャツ、
元気な笑顔の子供たち。
誰のおかげだっただろう。

〝もっと、奥さんに感謝した方がいいですよ〟

いつか、雪山で後輩から聞いた言葉が頭をよぎった。

クリスマスローズはものを言わずひっそりと、冬の寒風に花を揺らしていた。

       •    •     •

僕は、リナを迎えにいくと母親に告げ、車を走らせた。

気が焦る。
午前九時に出かけたのに、家につく頃にはもう昼近くになる。
それから説得して、病院に向かわなければならない。
精神科の病院は輪番制度というものがあるらしく、年末でも都内のどこかの病院は外来窓口を開いているようだった。
それは、昨日のうちにネットで調べていた。

高速道路をスピードをあげながら走る。
さっきから携帯の着信音が何度もなる。
きっとリナからだ。

ーー今、どこにいるの?
何してるの?
昼ごはんはどうするの?

リナはたくさん聞きたいことがあるに違いない。
家に車がないことにも気がついたかもしれない。

ーー公園って、車で行くような遠い公園に行ったの?
近くにもあるのに、わざわざどうして?

妻が不信感を抱く前に早く帰り付きたかった。

速く、速くーー。
額にも手にも冷や汗がにじむ。

その時、僕の目の前に、何かが躍り出た。

ーータヌキ? イタチ?

何かはハッキリと見分けられなかった。
とにかく、それは、何かの動物だった。
そして、それは僕の車の進行方向に最悪なタイミングで飛び出してきた。

僕はとっさにハンドルを切った。
タイヤが悲鳴をあげる。
車は遠心力に大きく揺れながら、急な角度で左に曲がった。
ガードレールにぶつかる!
急ブレーキをかけたが、コントロールを失った車は、スピンしながらガードレールに激突した。
激しい衝撃を全身に感じた。

その時だった。
視界の隅に、猛スピードでこちらに迫ってくる車が見えた。
同じ車線を走っている車だった。すごいスピードがでていた。
その車の運転席に座る男性と、私の目が合った。
運転手が青ざめた顔をしているのが見えた。
急ブレーキの音がする。
続いて、大きな衝突音がして、全身に激痛を感じた。何が起こったのか分からなかった。
声を上げる間もなかった。

ドンッと爆発音がした。
車が炎上する。

僕は、赤々と燃える炎を見た。
割れたフロントガラスも見えた。
僕の車の側面を突き破って突っ込んできた車や、
原型を留めていない、ペシャンコの僕の車が見えていた。

自分の体がどうなったのかは分からなかった。

ただ、僕は、自分が死ぬんだということだけ、理解した。

こんなところで死ぬのか。

僕には、まだやるべきことがあるのに、
こんなところで死ぬのか。

僕の中にあったのは、強烈な悔しさだった。


続く~  (次回:タイムリープ! 妄想にかられて失踪する妻)

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