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44.千里の告白 1
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「さて、何から話せばいいかしらね」
一穂が持ってきてくれた母子健康手帳を見つめて、千里は呟いた。
昨日、一穂に切り出されてから、十六年前の事を振り返った。父を失ってから、一穂を出産するまでの一年半ほどの話。
「私が料理に興味を持ったのは、父の影響っていうのは、一穂ちゃん知っているよね」
確認するように訊ねると、一穂がうんと頷いた。
「その父が海の事故で亡くなったのは、二十六の時。社会人六年目の頃」
* * *
調理師専門学校を卒業して、食品会社に就職をした千里は、病院勤務を経て、老人ホームの献立を考える栄養士として働いていた。
葛飾で一人暮らしの千里の携帯電話に着信があったのは、休日だった平日の夕方3時頃のことだった。
豊の親友であり、同業者でもある丸井明から、父が海に落ちて意識不明の重体だと焦ったような声で伝えられた。
海での仕事は危険と隣り合わせ。世界のどこかで不幸な事故を耳にすると、身近なところで事故が起こるかもしれない、と思うことはある。でも、知らせを聞いたとき、まさかと疑う気持ちも湧き上がった。
豊は泳ぎが達者だったし、仕事の時は必ず動きにくくてもライフジャケットを着用すると聞いていた。
にわかには信じられなかったが、すぐに出かける支度をして、電車に飛び乗った。
2時間後、病院に到着した千里に母がしがみついてきた。わんわんと泣く母をなだめすかして医者から話を聞き、心肺蘇生を続けるか否かの選択を迫られた。
心臓マッサージはろっ骨を折ることもある。これ以上体を傷つけていいのだろうか。
千里は迷った末に、断った。千里が到着するまでの間に、手を尽くしてもらえたのだろうからと。
豊の遺言というほどの言葉ではなかったが、死ぬときはコロっと逝きたいなあと言っていたのを思い出したからでもあった。
この選択は、後の千里を苦しめることになる。
呼吸の止まった豊と対面した。苦しそうな表情でなく穏やかだった。眠っているような顔を見下ろしていると、悲しみよりも信じられない気持ちの方が強かった。
翌日からの通夜と告別式には、急なことながら、たくさんの人がお別れに来てくれた。
まだ若いのにお気の毒です。
人命救助で命を落としてしまうのは残念でしたが、立派なお父さんですね。
口々に豊を褒めて、千里と幸子の気持ちを慰めようとしてくれた。
会社からも代表して何人か弔問に来てくれた。その内の一人が数軒の老人ホームを担当する、千里の上司でもある須田祐介だった。
須田主任を男性として意識したことはそれまでなかった。面倒見はいいという点は豊と同じだったが、上司・同僚以外の目で見たことはなかった。
喪服姿のよく知った顔を見つけた時、安心した自分がいた。
彼の胸に顔を埋めて泣きじゃくりたい。頭を撫でてもらいたい。
一瞬抱いたイメージを、千里は慌ててかき消した。既婚者なのは知っていたし、話したことはないが奥さんは本社の人事部で働いている。
気が弱っているとろくなことを考えないなと自分を叱責した。
五日後仕事に戻ったが、しばらくは手続きや母の顔を見るため休みの度に実家に戻り、行ったり来たり忙しくしていたが、酷い脱力感に悩まされるようになった。
よく眠れず、起きると全身がだるく、頭が働かない。集中することができなくなり、仕事でも父に関連した手続きでもミスを頻発した。
ホームに入所している高齢者の食事は気を付けなければならない点がたくさんある。栄養のバランスだけではなく、食べやすく安全に飲み込めるように配慮しなければいけない。アレルギーを持っている人もいるし、薬との組み合わせも注意しなければならない。
一つのミスが命に関わるため、毎日三食の献立は一人ひとりに合わせて作る。注意力や集中力が必要なのに、自身の体調がすぐれないせいで、仕事が怖くなった。
今までよりも疲れやすくなり、千里がいっぱいいっぱいになっていることに気がついたのは佑介だった。
コンビニスイーツをくれたり、声をかけてくれたり。母を気遣うばかりで疲れていた千里を気遣ってくれる他人がいることに救われた。
佑介の昼食が外食と知ると、たまにお弁当を作って渡した。退勤後、都合が合うと食事に誘うこともあった。断られることもあったが、電話で声を聞けるだけで嬉しくなった。
佑介には父との話をたくさん聞いてもらった。思い出や料理に関すること、心肺蘇生を諦める選択は正しかったのかなど。もっと手を尽くしてもらえるようにお願いするべきだっただろうか。諦めてはいけなかったのでないか。
ホームの高齢者たちを見ていると、父の未来を奪ってしまったのではないかと思うようになっていた。
佑介は何度も同じ話をする千里に、じっくりと向き合ってくれた。
その度に、間違った選択ではない。感情に流されず遺志を優先したことを、お父さんは褒めてくれると思うよ。と千里を肯定してくれた。
心が軽くなるにつれて、体の不調も回復に向かい、元気になった。
いけないとわかっていても、佑介への想いに歯止めがかからなくなっていった。
一穂が持ってきてくれた母子健康手帳を見つめて、千里は呟いた。
昨日、一穂に切り出されてから、十六年前の事を振り返った。父を失ってから、一穂を出産するまでの一年半ほどの話。
「私が料理に興味を持ったのは、父の影響っていうのは、一穂ちゃん知っているよね」
確認するように訊ねると、一穂がうんと頷いた。
「その父が海の事故で亡くなったのは、二十六の時。社会人六年目の頃」
* * *
調理師専門学校を卒業して、食品会社に就職をした千里は、病院勤務を経て、老人ホームの献立を考える栄養士として働いていた。
葛飾で一人暮らしの千里の携帯電話に着信があったのは、休日だった平日の夕方3時頃のことだった。
豊の親友であり、同業者でもある丸井明から、父が海に落ちて意識不明の重体だと焦ったような声で伝えられた。
海での仕事は危険と隣り合わせ。世界のどこかで不幸な事故を耳にすると、身近なところで事故が起こるかもしれない、と思うことはある。でも、知らせを聞いたとき、まさかと疑う気持ちも湧き上がった。
豊は泳ぎが達者だったし、仕事の時は必ず動きにくくてもライフジャケットを着用すると聞いていた。
にわかには信じられなかったが、すぐに出かける支度をして、電車に飛び乗った。
2時間後、病院に到着した千里に母がしがみついてきた。わんわんと泣く母をなだめすかして医者から話を聞き、心肺蘇生を続けるか否かの選択を迫られた。
心臓マッサージはろっ骨を折ることもある。これ以上体を傷つけていいのだろうか。
千里は迷った末に、断った。千里が到着するまでの間に、手を尽くしてもらえたのだろうからと。
豊の遺言というほどの言葉ではなかったが、死ぬときはコロっと逝きたいなあと言っていたのを思い出したからでもあった。
この選択は、後の千里を苦しめることになる。
呼吸の止まった豊と対面した。苦しそうな表情でなく穏やかだった。眠っているような顔を見下ろしていると、悲しみよりも信じられない気持ちの方が強かった。
翌日からの通夜と告別式には、急なことながら、たくさんの人がお別れに来てくれた。
まだ若いのにお気の毒です。
人命救助で命を落としてしまうのは残念でしたが、立派なお父さんですね。
口々に豊を褒めて、千里と幸子の気持ちを慰めようとしてくれた。
会社からも代表して何人か弔問に来てくれた。その内の一人が数軒の老人ホームを担当する、千里の上司でもある須田祐介だった。
須田主任を男性として意識したことはそれまでなかった。面倒見はいいという点は豊と同じだったが、上司・同僚以外の目で見たことはなかった。
喪服姿のよく知った顔を見つけた時、安心した自分がいた。
彼の胸に顔を埋めて泣きじゃくりたい。頭を撫でてもらいたい。
一瞬抱いたイメージを、千里は慌ててかき消した。既婚者なのは知っていたし、話したことはないが奥さんは本社の人事部で働いている。
気が弱っているとろくなことを考えないなと自分を叱責した。
五日後仕事に戻ったが、しばらくは手続きや母の顔を見るため休みの度に実家に戻り、行ったり来たり忙しくしていたが、酷い脱力感に悩まされるようになった。
よく眠れず、起きると全身がだるく、頭が働かない。集中することができなくなり、仕事でも父に関連した手続きでもミスを頻発した。
ホームに入所している高齢者の食事は気を付けなければならない点がたくさんある。栄養のバランスだけではなく、食べやすく安全に飲み込めるように配慮しなければいけない。アレルギーを持っている人もいるし、薬との組み合わせも注意しなければならない。
一つのミスが命に関わるため、毎日三食の献立は一人ひとりに合わせて作る。注意力や集中力が必要なのに、自身の体調がすぐれないせいで、仕事が怖くなった。
今までよりも疲れやすくなり、千里がいっぱいいっぱいになっていることに気がついたのは佑介だった。
コンビニスイーツをくれたり、声をかけてくれたり。母を気遣うばかりで疲れていた千里を気遣ってくれる他人がいることに救われた。
佑介の昼食が外食と知ると、たまにお弁当を作って渡した。退勤後、都合が合うと食事に誘うこともあった。断られることもあったが、電話で声を聞けるだけで嬉しくなった。
佑介には父との話をたくさん聞いてもらった。思い出や料理に関すること、心肺蘇生を諦める選択は正しかったのかなど。もっと手を尽くしてもらえるようにお願いするべきだっただろうか。諦めてはいけなかったのでないか。
ホームの高齢者たちを見ていると、父の未来を奪ってしまったのではないかと思うようになっていた。
佑介は何度も同じ話をする千里に、じっくりと向き合ってくれた。
その度に、間違った選択ではない。感情に流されず遺志を優先したことを、お父さんは褒めてくれると思うよ。と千里を肯定してくれた。
心が軽くなるにつれて、体の不調も回復に向かい、元気になった。
いけないとわかっていても、佑介への想いに歯止めがかからなくなっていった。
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