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12. ストレスのぶつけどころ

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「女将、チューハイ飲みたいんだけど」
 洗い物をしていると、ビールを飲み干したサラリーマンからだった。
 串カツの後に出し巻き卵の注文が入り、ゆっくりと食事をし、ハイペースでアルコールを摂取していた。

「当店は瓶ビールのみの取り扱いとさせていただいております。ビール以外のお酒は、お隣のリカーショップで多数お取り扱いされておりますので」
「レモン酎ハイ買ってきてよ」
「申し訳ございません。私はお店を離れる訳には参りませんので、お客様ご自身でお願い致します」
「買いに行ってくれないんだ? じゃ配達頼んでよ」
「それは、お隣にご迷惑がかかりますので」
「それはあんたの都合でしょう。食事の途中で、歩いて行けっての?」
 むすっとした口調で不満を口にする。

 隣まで行かされることにへそを曲げるお客様はたまにいる。
 千里が頭を下げると、勘定をして出て行ってしまうか、文句を言いながらも隣に足を運び、欲しいお酒を手にして戻ってきて、飲んでいる内に機嫌を直していく。

 このサラリーマンは粘着質だった。
 食べに来てやっている客に対する態度か、ちゃんとサービスしろ、俺はビール以外が飲みたいんだ、とねちねち文句を言ってくる。

 どれだけ言われても店を無人にするわけにはいかない。
 断わり続けていると、見かねたのか、明石が「兄ちゃん」と入ってくれた。

「自分の目で欲しい酒選んだ方がいいよ。隣、品揃えいいから」
「なんだ、おっさん」
 サラリーマンが文句を言うのをやめ、明石の方を向いた。
「一緒に行こう、な。ほら立って」
 明石は席を立って、サラリーマンの腕を軽く引いた。
「めんどくせえな」
 言いながら、サラリーマンは立ち上がった。軽くふらつく。

「兄ちゃん、大丈夫か。酒はもう止めておいたらどうだ?」
「ほっとけよ。じじいにはわかんねえんだよ」
「とりあえず行くか」
 千里は助けてくれた明石に頭を下げ、二人を見送った。

 二人は十分ほどして戻ってきた。サラリーマンは缶チューハイを二本買ってきていた。
 明石も袋を下げていた。

「お帰りなさい。ご希望のお酒は見つかりましたか」
 千里の問いにサラリーマンは何も答えず、缶の蓋を開けた。ぐびぐびと喉を鳴らして飲む。
「これこれ」
 頬を緩ませ、楽しそうにした。

 ※ ※ ※

「女将。酒」
 時刻はそろそろ午後九時。
 サラリーマン以外のお客は明石のみ。二席離れた酔客を気にかけ、留まってくれていた。

 サラリーマンは缶チューハイも飲み干し、食事の追加オーダーはもらっていない。
「お客様、そろそろお止めになった方がよろしいかと」
 控え目になしなめてみる。
「うるさい! さっさと出せよ!」
 いきなり声を荒げ、カウンターに手のひらを叩きつけた。バン、と大きな音が響く。
「客は神様だろ! 言うこと聞いておけばいいんだよ!」

 男性の怒鳴り声は怖い。
 暴力を振るっているわけではなくても、千里に恐怖感を与えるのに充分な行為だ。
 だが、どれだけ脅されてもアルコールを提供する気にならなかった。

 頑なに拒否の姿勢を見せる千里に、サラリーマンはイライラを募らせていった。
「お前、客の言うことがきけねえんだったら、名指しでクソな店って書き込んでやるからな!」
「ずいぶん酔っておられますから。もう今夜はお控えてください。お体に障りますよ」
 千里はガラスコップをサラリーマンの前に置いた。
「お水どうぞ」
 彼はコップを一瞥して掴んだ。

 わかってもらえたのかと千里が安心しかけたとき、ひゅんと顔の横を何かが横切った。
 背後でパリンと音がした。

「水出せなんて言ってねえだろ! 余計なことすんなよ!」
 千里が振り返ると、冷蔵庫に当たって砕けたガラスが床に飛び散っていた。
「お前に心配してもらわなくても、俺の体のことは俺がわかってんだよ! ほっとけよ!」

「兄ちゃん。それはアウトだ」
 低い声を上げたのは、明石だった。
「んだよ……」
 明石に顔を向けたサラリーマンが、口を閉ざした。

「今のコップが女将に当たっていたら、大事になっていたぞ。責任取れんのか」
 明石は店で見せたことのない、険しい顔をしていた。

「店には店のルールがある。それに従えない客は客じゃない。まして、酔って物を投げつけるなんて、人としてやっちゃいけない。女将が大怪我するところだったんだぞ」
「避けて投げたじゃねえか。この距離でコントロール狂わねえよ」
 サラリーマンは唇を尖らせて言い訳を口にしたが、先ほどまでの勢いは削がれていた。

「兄ちゃんがどんなストレス溜めてんのか知らないけどな、無関係の人間に当たるな」
「女将の自業自得だ。俺のせいじゃねえ」
「女将は最初に説明しただろ。お前はわかったと言った。了承したんだから、従え。納得いかないのなら、わかったと口に出すな」
 ちっと舌打ちをして、顔を逸らした。

 明石に殴りかからなくて良かった、とひとまず安堵する。
「女将、警察呼ぶか」
「え? 警察……」
「器物破損程度だろうが、こいつに灸をすえるぐらいのことはできるんじゃないかな」
「警察って、大袈裟な」
 サラリーマンの声が少し慌てる。そっとリュックを手に取るのが千里からも見えた。

「それはやめておきます」
 千里が言うと、サラリーマンはこっそりと息を吐いた。
「怖いですけど、私が至らないせいでもありますから」
「そうだよ。女将がそう言うんだから」
 サラリーマンの親世代だろう明石の言葉に、逃げ腰になっている。
「兄ちゃんさ、情けないと思わないか」
「うっさいな。弁償すればいいんだろう」
 財布を取り出し、「いくらよ」と千円札を数枚取り出した。
 千里は飲食分だけを計算して請求した。

 逃げるようにサラリーマンが出て行った後、千里は明石に頭を下げた。
「明石さん。助けてくださってありがとうございました。あのお客様と二人だったら、警察を呼ばないといけない事態になっていました」
「いや。わたしも怖かったよ。怪我は本当にしていないかい?」
 怖かったと言ったのは、千里に気を遣わせないためだろう。明石はサラリーマンに注意をしている時も今も、堂々としている。
「大丈夫です。掃除は念入りにしないといけませんけど」
 破片がどこまで飛び散ったかわからない。店を閉めた後の掃除と、明日の掃除は時間をかけて隅々までしないといけない。

「後藤さんの所で、少し話をしたんだよ」
「何をお話なさったのですか」
 隣のリカーショップに連れ出した時のことだ。
「彼は保険の外交員をしているらしい。企業で取れそうだった契約が、直前になってダメになったらしくてな。イライラしていた」
「お仕事でつらい思いをされていたんですね」
 仕事のストレスは、千里にももちろん経験がある。会社で働いていた時もそうだし、一人で店をしている今だって。好きなことをやらせてもらってはいても、ストレスがないわけではない。

「だからといって、人に当たっていいわけない。まして、店員と客ならどうしても立場に上下が出てしまう。そこにつけ込むのは最低な行為だ。女将に直接嫌がらせをされたわけではないんだからな」
「でも、缶チューハイくらいは置いてもいいのかもしれませんね。ビールがお嫌いな方もおられますし」
「昨今は、ビールが苦手な若者が増えているらしいな。苦いのが理由らしいが」
「苦いのは私も理解できます。私も嗜む程度には飲めるようになりたかったです」
「体質なんだから、無理して飲む必要はないよ。体に良くないからね。女将の旨い料理はわたしの楽しみなんだから」

「ご贔屓にしていただいて、ありがとうございます。また奥様とも一緒にいらしてください」
「そうさせてもらうよ。それじゃ、勘定を」
「今日は結構です。助けていただいたお礼です」
 明石に深く感謝していた千里は、飲食代をサービスすることで応えようとした。
 しかし、明石は首を振った。
「いや、女将の料理に対する評価をきちんとしたいから。食べた分をちゃんと請求してください」
「重ね重ねありがとうございます」
 支払いをしてくれた明石の背中を見送り、千里は閉店時間より30分早く暖簾を外した。
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