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6.朋夏の夫婦喧嘩
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「いらっしゃいませ。あら、朋夏」
平日の昼時を少し過ぎたところ。漁業組合で働く朋夏が昼を食べに来るのは珍しかった。
「カウンターいい?」
「ええ、どうぞ」
テーブルに二組のお客様がいたが、カウンター席は全席空いている。
腰掛けた朋夏はメニュー表を見つめる。朋夏に出すお茶の用意をしながら、千里はそっと伺った。
朋夏の様子が、普段と違っている。いつもの陽気さがなく、心ここにあらず、といった雰囲気だった。
「お茶、どうぞ」
湯呑をことりと置くと、朋夏が顔を上げた。
「食欲ないから、うどんください」
「かしこまりました」
うどんメニューはお昼だけ。夏になればざると冷やしも用意しているが、この時期はかけだけ。
「トッピングはいかがですか」
基本はネギと天かすとかまぼこ。
トッピングはお揚げ、わかめ、牛肉、かき揚げ、各種天ぷら、温泉卵と用意している。
漁業関係者はがっつり系を注文するが、ご近所の年配者たちにはうどんが人気メニューだった。
「いらないかな」
「承知しました。追加もできますから、お気軽にどうぞ」
千里はにこりと笑いかけ、調理にとりかかった。
うどんのつゆはあらかじめ作ってある。
常温の水に昆布を入れて一晩漬けておいたものを加熱し、厚切りの鰹節と鯖節を入れて沸騰させないように気を付けて煮だす。
灰汁を丁寧に取り除きながら十五分後火を止め、冷ましてからガーゼでろ過して、出汁が完成。
この出汁に濃口しょうゆ、みりん、砂糖を加えて軽く加熱してつゆが完成。
営業中はこのつゆを温め、茹でたうどんを加えて、トッピングを盛って出来上がり。
「お待たせしました」
「ん、ありがとう」
ぼんやりしていた朋夏が身じろぎした。
朋夏には何かと世話になっているのでトッピングをサービスしたかったのだが、体調がすぐれないのかもと思い、控えた。
「女将さん、お茶もらっていい?」
ご年配夫婦のご主人の方が、湯呑を掲げた。
「はい、ただいま」
朋夏にどうかしたのか尋ねたいが、状況が許さない。
手早くお茶の準備をしてテーブル席へ持っていく。
一人で店を回すもどかしさを痛感した。
その後も来店客が訪れ、対応をしている間に朋夏は食べ終わってしまった。
残さず食べてくれたので、ほっとする。
「ごちそうさまでした」
硬貨をテーブルに置き、出て行こうとする朋夏を慌てて追いかけた。一言伝えたいことがあった。
「朋夏、5時で仕事終わるでしょ。また寄ってくれない? 営業時間までなら大丈夫だから」
視線を軽く彷徨わせ、迷う素振りを見せたが、「うん、わかった」と朋夏は力なく頷いた。
※ ※ ※
昼3時に暖簾を引いて一度店を締め、食事やらトイレやらをすませ、急いで夜営業の支度をする。
いつもなら、20分ほど仮眠を取るのだが、今日は寝ている時間はない。
疲れてはいたが、朋夏のために気合を入れた。
5時過ぎ。遠慮気味に扉が叩かれた。
出向いて行って引き戸を開けてやると、心細そうな顔の朋夏が立っていた。
「どうぞ」と招き入れ、カウンター席に案内する。
ホットコーヒーを出してやり、自分にはお茶を用意する。
千里は仕事中、コーヒーを口にしない。
口臭予防と利尿効果があるため避け、休みの日だけ楽しむことにしている。
頂いたクッキーも朋夏に出してやる。
朋夏はすまなさそうに体を小さくしている。じっくり聞いてやりたいが、残念ながら時間がない。
「体の調子でも悪い?」
「……そうじゃないの。旦那と喧嘩して」
千里が促すと、朋夏は昨夜のことを話しだした。
酔って帰ってきた拓海は、もう少し飲むから何か作ってくれと言いだした。
疲れていた朋夏は、急に言われても出来ないよ、と缶詰を出した。それが気に入らなかったらしい。
「二十年以上主婦やってて、つまみも作れねえのかよ」
苛立ちを隠さない口調で言われた。
時刻は夜10時。そろそろ寝たいと、風呂もすませていた。
「明日も仕事なんだから、もう止めておきなよ。たっぷり飲んできたんでしょ」
宥めるつもりで口にした言葉に、拓海は、
「あんな酒旨いわけあるか。酒ぐらい自由に飲ませろ」
と声を荒げた。
自室にいた紗友里と栞里もリビングにやってくるほどの、大声だった。
「拓海さん、酒癖悪かった?」
「普段は船に乗るから、量には気を付けてるみたいだけど、昨日はあんまりいいお酒じゃなかったみたい」
「昨夜はけっこう飲んじゃったってこと?」
「それもあるけど、今朝聞いたんだけどね」
昨日、釣り人が漁港に迷惑をかけたらしい。
一人でふらりとやってきて、禁止エリアに立ち入り釣りをしていた。
注意すれば一度離れるが、再びやってきてまた釣り糸を垂らす。
釣った魚を地面に放置し、死んだ魚を海に戻す。といった迷惑行為があった。
その度に立ち上がるのが、釣り禁止にするべき論。
禁止になったほかの漁港のように、ここも禁止にした方がいい派と、マナーを守って楽しんでいる人まで禁止にするのは気の毒だ派が激論を交わす。
いつも決着がつかず、目立つ看板を立てる、注意する、という平行線で終わってしまう。
昨夜もそうだったようだ。
「拓海さんは、どっち派なの?」
「マナーさえ守ってくれれば楽しんで欲しい派。何でも禁止にして取り上げればいいってものじゃないって。あいつもやんちゃして、たくさんの人に怒られて育ってきたから、取り上げたくないんだって。うまく付き合っていきたいって」
「それとお酒はどういう関係が?」
「舟木で飲みながら話してたんだって」
居酒屋 舟木の二階の座敷は漁港関係者が大勢集まる時によく使われている。
千里が働いていた時も、忘年会新年会歓迎会などで何度か出入りしたことがある。
料金は少し高めだが、伊勢海老やこぼれそうなイクラの載った豪華な船盛、肉料理も楽しめる、豪快な料理が売りの居酒屋。アルコール類も豊富な品揃えで、吞兵衛にはたまらないらしい。
「いつも通り平行線の話し合いだったけど、禁止派が豊おじさんの事故の話持ち出して」
朋夏が目を伏せる。
千里の父、豊は海の事故で命を落とした。
ライフジャケット未装着の釣り人が誤って海に落下し、気づいた父が救助に向かった。
暴れる釣り客にしがみつかれながら、父は船に連れて行こうとした。がパニックになった釣り客にひきずられるようにして、沈んだ。すぐに救助されたが、二人とも間に合わなかった。
もう十七年も前になるので、哀しみを引きずってはいないが、当時は突然の連絡に動揺し、深い哀しみに沈みこんだ。
今でも忘れないでいてくれる人がいるのはありがたいことだが、喧嘩になってしまうのは、やりきれない。
「あの事故の話を持ち出されたら、継続派は反論しづらくなるじゃない。拓海それでかりかりしてた状態で。あたしの対応が火をつけちゃったみたい」
「そうは言っても、朋夏だって仕事と家事と子育てと大変なのに。たしか中学校のPTAもやってたわよね」
「うん。会計。クジ引き当てちゃって。子供は二人手が離れて、一番下だけだから。だいぶ楽にはなったけど」
長女紗友里は今年から大学生。その上に長男の海人がいる。地方の大学三年生で、進学と同時に家を出た。栞里は中学二年生。
自分のことは自分でできる年齢だが、朋夏には毎日の食事や洗濯があり、仕事だけをしていればいい毎日ではない。
「拓海さんと、家事の分担はしてないのよね」
「洗濯機の回し方も知らないよ。ゴミ捨てだけはやってくれるけど」
「それも、朋夏がまとめた物をゴミの場所に持っていくだけでしょ」
千里の前職は給食会社の正社員。老人ホームで管理栄養士として働いていた。
その頃、奥様を亡くしてから入所されたとある年配男性から聞いた話だった。
渡されたゴミを指定の場所まで持って行くだけで、家事を手伝っていると本気で思っていた男性。
奥様が入院し、家事は任せろと大見得切った。ところが可燃ゴミの日、うっかり忘れてしまい、次は必ず出さなければ思っていたのに、家中のゴミを集めるのに手間取り、収集に間に合わなかった。それでやっと気づいたのだそうだ。渡されたゴミを持って出るだけでは家事のうちに入らないと。
笑いながら新婚の職員に話していた。
「持ってってくれるだけましだよ。子供たちが小さい頃は公園とか釣りに連れて行ってくれてたし。あたしは拓海との生活に不満はなかった。だから喧嘩するつもりなんて全然なかった」
朋夏は一度「はあー」と溜め息を吐いた。
「缶詰に怒っただけなら喧嘩にはならなかったんだよ。普段の料理のことまで文句言いだして。たいして美味しくないだの、レパートリーが少ないだの。あたしもカチンときちゃって。だったらもうあんたのために作らない。自分のこづかいで旨いもん食ってこいって」
「売り言葉に買い言葉ね」
「そうなの。そしたらもっと怒って出って行っちゃって」
しゅんと肩を落とす。
「船の仕事って、危険と隣り合わせじゃない。どんなに喧嘩しても、朝送り出す時はちゃんと姿を見ていってらっしゃい言うようにしてたの。昨夜は一睡もできなくて、昼、帰ってきた船にいる姿見てほっとして。反省したんだ。あたしも最近適当になってたなって。拓海って細かい事は気にしない人だからさ、部屋が多少散らかってても何も言わないし、カレーが二日続いても食べてくれるし。あたし甘えてたなって思って」
朋夏はコーヒーをこくりと飲み干し、クッキーに手を伸ばした。
朋夏の話を聞いて、拓海さん愛されてるな、と千里は思う。
一時売り言葉に反発してしまっても、翌日には冷静になって反省までする。健気でかわいい妻じゃないか。
「千里に聞いてもらったら、ちょっと落ち着いた。今日からご飯作り頑張ってみる。帰ってくるのかわからないけど」
苦笑いを浮かべる。
すぐに仲直りできるといいんだけど、と千里は心から願う。
「営業前の忙しい時間にごめんね。訊いてくれてありがとう。洗い物していくね」
「置いてていいよ」
「大丈夫」
朋夏はコーヒーカップとクッキーを入れた小皿を洗うと、「また食べに来るね」と手を振って帰って行った。
来た時よりは、少し明るくなった表情で。
平日の昼時を少し過ぎたところ。漁業組合で働く朋夏が昼を食べに来るのは珍しかった。
「カウンターいい?」
「ええ、どうぞ」
テーブルに二組のお客様がいたが、カウンター席は全席空いている。
腰掛けた朋夏はメニュー表を見つめる。朋夏に出すお茶の用意をしながら、千里はそっと伺った。
朋夏の様子が、普段と違っている。いつもの陽気さがなく、心ここにあらず、といった雰囲気だった。
「お茶、どうぞ」
湯呑をことりと置くと、朋夏が顔を上げた。
「食欲ないから、うどんください」
「かしこまりました」
うどんメニューはお昼だけ。夏になればざると冷やしも用意しているが、この時期はかけだけ。
「トッピングはいかがですか」
基本はネギと天かすとかまぼこ。
トッピングはお揚げ、わかめ、牛肉、かき揚げ、各種天ぷら、温泉卵と用意している。
漁業関係者はがっつり系を注文するが、ご近所の年配者たちにはうどんが人気メニューだった。
「いらないかな」
「承知しました。追加もできますから、お気軽にどうぞ」
千里はにこりと笑いかけ、調理にとりかかった。
うどんのつゆはあらかじめ作ってある。
常温の水に昆布を入れて一晩漬けておいたものを加熱し、厚切りの鰹節と鯖節を入れて沸騰させないように気を付けて煮だす。
灰汁を丁寧に取り除きながら十五分後火を止め、冷ましてからガーゼでろ過して、出汁が完成。
この出汁に濃口しょうゆ、みりん、砂糖を加えて軽く加熱してつゆが完成。
営業中はこのつゆを温め、茹でたうどんを加えて、トッピングを盛って出来上がり。
「お待たせしました」
「ん、ありがとう」
ぼんやりしていた朋夏が身じろぎした。
朋夏には何かと世話になっているのでトッピングをサービスしたかったのだが、体調がすぐれないのかもと思い、控えた。
「女将さん、お茶もらっていい?」
ご年配夫婦のご主人の方が、湯呑を掲げた。
「はい、ただいま」
朋夏にどうかしたのか尋ねたいが、状況が許さない。
手早くお茶の準備をしてテーブル席へ持っていく。
一人で店を回すもどかしさを痛感した。
その後も来店客が訪れ、対応をしている間に朋夏は食べ終わってしまった。
残さず食べてくれたので、ほっとする。
「ごちそうさまでした」
硬貨をテーブルに置き、出て行こうとする朋夏を慌てて追いかけた。一言伝えたいことがあった。
「朋夏、5時で仕事終わるでしょ。また寄ってくれない? 営業時間までなら大丈夫だから」
視線を軽く彷徨わせ、迷う素振りを見せたが、「うん、わかった」と朋夏は力なく頷いた。
※ ※ ※
昼3時に暖簾を引いて一度店を締め、食事やらトイレやらをすませ、急いで夜営業の支度をする。
いつもなら、20分ほど仮眠を取るのだが、今日は寝ている時間はない。
疲れてはいたが、朋夏のために気合を入れた。
5時過ぎ。遠慮気味に扉が叩かれた。
出向いて行って引き戸を開けてやると、心細そうな顔の朋夏が立っていた。
「どうぞ」と招き入れ、カウンター席に案内する。
ホットコーヒーを出してやり、自分にはお茶を用意する。
千里は仕事中、コーヒーを口にしない。
口臭予防と利尿効果があるため避け、休みの日だけ楽しむことにしている。
頂いたクッキーも朋夏に出してやる。
朋夏はすまなさそうに体を小さくしている。じっくり聞いてやりたいが、残念ながら時間がない。
「体の調子でも悪い?」
「……そうじゃないの。旦那と喧嘩して」
千里が促すと、朋夏は昨夜のことを話しだした。
酔って帰ってきた拓海は、もう少し飲むから何か作ってくれと言いだした。
疲れていた朋夏は、急に言われても出来ないよ、と缶詰を出した。それが気に入らなかったらしい。
「二十年以上主婦やってて、つまみも作れねえのかよ」
苛立ちを隠さない口調で言われた。
時刻は夜10時。そろそろ寝たいと、風呂もすませていた。
「明日も仕事なんだから、もう止めておきなよ。たっぷり飲んできたんでしょ」
宥めるつもりで口にした言葉に、拓海は、
「あんな酒旨いわけあるか。酒ぐらい自由に飲ませろ」
と声を荒げた。
自室にいた紗友里と栞里もリビングにやってくるほどの、大声だった。
「拓海さん、酒癖悪かった?」
「普段は船に乗るから、量には気を付けてるみたいだけど、昨日はあんまりいいお酒じゃなかったみたい」
「昨夜はけっこう飲んじゃったってこと?」
「それもあるけど、今朝聞いたんだけどね」
昨日、釣り人が漁港に迷惑をかけたらしい。
一人でふらりとやってきて、禁止エリアに立ち入り釣りをしていた。
注意すれば一度離れるが、再びやってきてまた釣り糸を垂らす。
釣った魚を地面に放置し、死んだ魚を海に戻す。といった迷惑行為があった。
その度に立ち上がるのが、釣り禁止にするべき論。
禁止になったほかの漁港のように、ここも禁止にした方がいい派と、マナーを守って楽しんでいる人まで禁止にするのは気の毒だ派が激論を交わす。
いつも決着がつかず、目立つ看板を立てる、注意する、という平行線で終わってしまう。
昨夜もそうだったようだ。
「拓海さんは、どっち派なの?」
「マナーさえ守ってくれれば楽しんで欲しい派。何でも禁止にして取り上げればいいってものじゃないって。あいつもやんちゃして、たくさんの人に怒られて育ってきたから、取り上げたくないんだって。うまく付き合っていきたいって」
「それとお酒はどういう関係が?」
「舟木で飲みながら話してたんだって」
居酒屋 舟木の二階の座敷は漁港関係者が大勢集まる時によく使われている。
千里が働いていた時も、忘年会新年会歓迎会などで何度か出入りしたことがある。
料金は少し高めだが、伊勢海老やこぼれそうなイクラの載った豪華な船盛、肉料理も楽しめる、豪快な料理が売りの居酒屋。アルコール類も豊富な品揃えで、吞兵衛にはたまらないらしい。
「いつも通り平行線の話し合いだったけど、禁止派が豊おじさんの事故の話持ち出して」
朋夏が目を伏せる。
千里の父、豊は海の事故で命を落とした。
ライフジャケット未装着の釣り人が誤って海に落下し、気づいた父が救助に向かった。
暴れる釣り客にしがみつかれながら、父は船に連れて行こうとした。がパニックになった釣り客にひきずられるようにして、沈んだ。すぐに救助されたが、二人とも間に合わなかった。
もう十七年も前になるので、哀しみを引きずってはいないが、当時は突然の連絡に動揺し、深い哀しみに沈みこんだ。
今でも忘れないでいてくれる人がいるのはありがたいことだが、喧嘩になってしまうのは、やりきれない。
「あの事故の話を持ち出されたら、継続派は反論しづらくなるじゃない。拓海それでかりかりしてた状態で。あたしの対応が火をつけちゃったみたい」
「そうは言っても、朋夏だって仕事と家事と子育てと大変なのに。たしか中学校のPTAもやってたわよね」
「うん。会計。クジ引き当てちゃって。子供は二人手が離れて、一番下だけだから。だいぶ楽にはなったけど」
長女紗友里は今年から大学生。その上に長男の海人がいる。地方の大学三年生で、進学と同時に家を出た。栞里は中学二年生。
自分のことは自分でできる年齢だが、朋夏には毎日の食事や洗濯があり、仕事だけをしていればいい毎日ではない。
「拓海さんと、家事の分担はしてないのよね」
「洗濯機の回し方も知らないよ。ゴミ捨てだけはやってくれるけど」
「それも、朋夏がまとめた物をゴミの場所に持っていくだけでしょ」
千里の前職は給食会社の正社員。老人ホームで管理栄養士として働いていた。
その頃、奥様を亡くしてから入所されたとある年配男性から聞いた話だった。
渡されたゴミを指定の場所まで持って行くだけで、家事を手伝っていると本気で思っていた男性。
奥様が入院し、家事は任せろと大見得切った。ところが可燃ゴミの日、うっかり忘れてしまい、次は必ず出さなければ思っていたのに、家中のゴミを集めるのに手間取り、収集に間に合わなかった。それでやっと気づいたのだそうだ。渡されたゴミを持って出るだけでは家事のうちに入らないと。
笑いながら新婚の職員に話していた。
「持ってってくれるだけましだよ。子供たちが小さい頃は公園とか釣りに連れて行ってくれてたし。あたしは拓海との生活に不満はなかった。だから喧嘩するつもりなんて全然なかった」
朋夏は一度「はあー」と溜め息を吐いた。
「缶詰に怒っただけなら喧嘩にはならなかったんだよ。普段の料理のことまで文句言いだして。たいして美味しくないだの、レパートリーが少ないだの。あたしもカチンときちゃって。だったらもうあんたのために作らない。自分のこづかいで旨いもん食ってこいって」
「売り言葉に買い言葉ね」
「そうなの。そしたらもっと怒って出って行っちゃって」
しゅんと肩を落とす。
「船の仕事って、危険と隣り合わせじゃない。どんなに喧嘩しても、朝送り出す時はちゃんと姿を見ていってらっしゃい言うようにしてたの。昨夜は一睡もできなくて、昼、帰ってきた船にいる姿見てほっとして。反省したんだ。あたしも最近適当になってたなって。拓海って細かい事は気にしない人だからさ、部屋が多少散らかってても何も言わないし、カレーが二日続いても食べてくれるし。あたし甘えてたなって思って」
朋夏はコーヒーをこくりと飲み干し、クッキーに手を伸ばした。
朋夏の話を聞いて、拓海さん愛されてるな、と千里は思う。
一時売り言葉に反発してしまっても、翌日には冷静になって反省までする。健気でかわいい妻じゃないか。
「千里に聞いてもらったら、ちょっと落ち着いた。今日からご飯作り頑張ってみる。帰ってくるのかわからないけど」
苦笑いを浮かべる。
すぐに仲直りできるといいんだけど、と千里は心から願う。
「営業前の忙しい時間にごめんね。訊いてくれてありがとう。洗い物していくね」
「置いてていいよ」
「大丈夫」
朋夏はコーヒーカップとクッキーを入れた小皿を洗うと、「また食べに来るね」と手を振って帰って行った。
来た時よりは、少し明るくなった表情で。
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