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33. ペンネームの由来
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「母が亡くなったのは、去年の8月です。一カ月ほど入院して、最期は眠るように息を引き取りました。映画の完成を楽しみにしていたのですが、残念ながら間に合いませんでした。でも安らかな、いい顔をしていました」
小野さんは落ち着いている。悲しみはあるんだろうけど、心残りのないお見送りがちゃんとできたのかな、と想像した。
「お悔やみ申し上げます。お母様、映画は観たかったと思いますが、それ以上に、小野さんの本が読めて、喜びながら旅立たれたんじゃないでしょうか」
「そうだと思います。あんなに喜んでくれるなら、もっと早く、最初の本が出た時に、伝えても良かったなと、少しだけ後悔しました」
「それまでの小野さんの選択を、お母様は尊重されていたと思いますよ。ペンネームには、何か理由があるんですか? 本名と全然違っていますよね」
「違ってはないですよ。本名から取りましたから」
「ええ? だって」
カバンからサインをしてもらった本を取り出す。
タイトルの下に周防荘兼と書いてある。小野俊介らしさはないんだけど。
「サインを見てもらえますか」
言われて、表紙をめくる。挟んだ紙の下には、筆記体でのサイン。
「簡単なアナグラムです」
「アナグラムって、何ですか?」
「文字の配列を並び替えて、別の意味をもたせる言葉遊びですよ」
小野さんが近くに体を寄せて、アルファベットを一つひとつ指差す。
Suoh soukenn
Ono shunsuke
「わ! 本当だ! 本名になりました!」
彼の顔が近くにあって、どきっとする。元の場所に戻ってしまったのは、残念。
「漢字を当てはめてしっくりくるものを選びました。そのサイン本は、今のところ世界で一冊だけです」
「どういうことですか?」
「僕のサインは漢字を崩したものなんです。あなただとわかった時に、とっさに筆記体で書きました」
「どうしてですか?」
「後から答え合わせができればいいなと思って」
「私が言うんじゃないかって思っていたから、ですか?」
「そうかもしれません」
その通りだったから、当たっていてちょっとびっくりしている。
「実は気になっていたんです。ペンネームのこと。世界に一冊だけのサイン本、大切にしますね」
本をぎゅっと抱いてから、カバンにしまった。
小野さんが嬉しそうにはにかんでいたので、自分のやった行為が恥ずかしくなった。
「滝川さんは、この三年ほど、どうされていました? 製菓学校に通うとおっしゃっていましたが」
「歯医者で働きながら、夜に製菓学校に通いました。三年かかりましたけど、お菓子の技術と体力と、根性が鍛えられました」
「根性もですか? お菓子作りだけじゃないんですね」
私がおどけて力こぶを作るフリをすると、小野さんは軽く笑ってくれた。
「さっきの人は、元同僚だそうですが、険悪な雰囲気でしたけど」
小野さんに三井さんとの過去の出来事を話す。
話すうちに、深刻そうな表情に変わっていく。
「そんなことがあったんですか。実は、途中からお話に聞き耳を立てていて、いざとなったら出ていこうかと、タイミングを窺っていたんですよ」
「あのやりとり、聞いていたんですか? 恥ずかしい」
まさか、一番聞かれたくない人が聞いていたなんて。気の強い人だと思われていないかな。
「イメージと違ってとても頑張っておられたので、終わるまで待とうかなとも思ったんです。でも、あれ以上、声を荒らげたらお店に迷惑がかかりそうだなと思って。あのタイミングで入ったんです」
「私もやりすぎちゃったなと、少し反省しています。以前の私なら、あんなに言わなかったです。相手の言い分を聞き流したり、反論を諦めたりしてました。三井さんが私にあんな言い方をしてくるのは、文句が言いやすい相手だったからだと思います。そんな相手が反論してきたから、イライラさせてしまったみたいで。怖くはなかったですけど、厄介な人だなと困っていました。助けてくださって、ありがとうございます」
聞かれていたのは恥ずかしいけど、どうすれば三井さんを落ち着かせられたのかわからなかったから、いいタイミングだった。
「お役に立てたのなら、良かったです」
「嬉しかったです。お店で待っていて欲しいとメッセージをくれた時も、助けに入ってくれた時も、それに、友人だと言ってくれた時も」
「ああいうタイプの人は、刺激しすぎると、恨みからとんでもない行為に出ることもあるので、僕たちの身の安全を図るには、友人がベターかなと思ったんです。顔見知り程度だと、マウントを取って変な絡み方をしてきそうですし、恋人だと言うと、暴露されたり盗撮したり、過激な行為をしないとも限りませんし」
三井さんに関係を訊かれて、私の頭にあったのは、ちょっとした知り合いだった。
もちろん恋人じゃないし、友だちと言えるほど、付き合いが深いわけでもないし。
ただ、恋人と言えたなら、三井さんはどんな顔をしたかな、とは少し思った。
小野さんは三井さんのしそうな行動や、身の安全まで考えて答えてくれていたとは思わなかった。
「短い間に、たくさん考えてくださったんですね。私のせいで、小野さんにご迷惑がかからなかったらいいんですが」
「介入した時点で守る覚悟をしていましたから。今後も含めて」
愛の告白をされたわけでもないのに、守ると言ってもらえただけで、舞い上がってしまいそうなほど、嬉しい。
「以前、滝川さんが勇気を出してくれた後、僕は自分の気持ちについて考えたんです。自分の身に恋愛事が起こるだなんて想像もしていなかったので、戸惑ってしまって。いわゆる、ライクかラブかです。滝川さんに好印象は持っていましたが、恋愛の気持ちなのかは、あの時点はわかっていませんでした。僕の体のことで誰かを振り回すのは嫌だなと思っていたのもあって。それで、お断りをしたんです」
三年前の12月。私が告白した時のことだ。
何を言おうとしているのか、私は小野さんの目を見つめた。
次回⇒34. 小野さんの告白
小野さんは落ち着いている。悲しみはあるんだろうけど、心残りのないお見送りがちゃんとできたのかな、と想像した。
「お悔やみ申し上げます。お母様、映画は観たかったと思いますが、それ以上に、小野さんの本が読めて、喜びながら旅立たれたんじゃないでしょうか」
「そうだと思います。あんなに喜んでくれるなら、もっと早く、最初の本が出た時に、伝えても良かったなと、少しだけ後悔しました」
「それまでの小野さんの選択を、お母様は尊重されていたと思いますよ。ペンネームには、何か理由があるんですか? 本名と全然違っていますよね」
「違ってはないですよ。本名から取りましたから」
「ええ? だって」
カバンからサインをしてもらった本を取り出す。
タイトルの下に周防荘兼と書いてある。小野俊介らしさはないんだけど。
「サインを見てもらえますか」
言われて、表紙をめくる。挟んだ紙の下には、筆記体でのサイン。
「簡単なアナグラムです」
「アナグラムって、何ですか?」
「文字の配列を並び替えて、別の意味をもたせる言葉遊びですよ」
小野さんが近くに体を寄せて、アルファベットを一つひとつ指差す。
Suoh soukenn
Ono shunsuke
「わ! 本当だ! 本名になりました!」
彼の顔が近くにあって、どきっとする。元の場所に戻ってしまったのは、残念。
「漢字を当てはめてしっくりくるものを選びました。そのサイン本は、今のところ世界で一冊だけです」
「どういうことですか?」
「僕のサインは漢字を崩したものなんです。あなただとわかった時に、とっさに筆記体で書きました」
「どうしてですか?」
「後から答え合わせができればいいなと思って」
「私が言うんじゃないかって思っていたから、ですか?」
「そうかもしれません」
その通りだったから、当たっていてちょっとびっくりしている。
「実は気になっていたんです。ペンネームのこと。世界に一冊だけのサイン本、大切にしますね」
本をぎゅっと抱いてから、カバンにしまった。
小野さんが嬉しそうにはにかんでいたので、自分のやった行為が恥ずかしくなった。
「滝川さんは、この三年ほど、どうされていました? 製菓学校に通うとおっしゃっていましたが」
「歯医者で働きながら、夜に製菓学校に通いました。三年かかりましたけど、お菓子の技術と体力と、根性が鍛えられました」
「根性もですか? お菓子作りだけじゃないんですね」
私がおどけて力こぶを作るフリをすると、小野さんは軽く笑ってくれた。
「さっきの人は、元同僚だそうですが、険悪な雰囲気でしたけど」
小野さんに三井さんとの過去の出来事を話す。
話すうちに、深刻そうな表情に変わっていく。
「そんなことがあったんですか。実は、途中からお話に聞き耳を立てていて、いざとなったら出ていこうかと、タイミングを窺っていたんですよ」
「あのやりとり、聞いていたんですか? 恥ずかしい」
まさか、一番聞かれたくない人が聞いていたなんて。気の強い人だと思われていないかな。
「イメージと違ってとても頑張っておられたので、終わるまで待とうかなとも思ったんです。でも、あれ以上、声を荒らげたらお店に迷惑がかかりそうだなと思って。あのタイミングで入ったんです」
「私もやりすぎちゃったなと、少し反省しています。以前の私なら、あんなに言わなかったです。相手の言い分を聞き流したり、反論を諦めたりしてました。三井さんが私にあんな言い方をしてくるのは、文句が言いやすい相手だったからだと思います。そんな相手が反論してきたから、イライラさせてしまったみたいで。怖くはなかったですけど、厄介な人だなと困っていました。助けてくださって、ありがとうございます」
聞かれていたのは恥ずかしいけど、どうすれば三井さんを落ち着かせられたのかわからなかったから、いいタイミングだった。
「お役に立てたのなら、良かったです」
「嬉しかったです。お店で待っていて欲しいとメッセージをくれた時も、助けに入ってくれた時も、それに、友人だと言ってくれた時も」
「ああいうタイプの人は、刺激しすぎると、恨みからとんでもない行為に出ることもあるので、僕たちの身の安全を図るには、友人がベターかなと思ったんです。顔見知り程度だと、マウントを取って変な絡み方をしてきそうですし、恋人だと言うと、暴露されたり盗撮したり、過激な行為をしないとも限りませんし」
三井さんに関係を訊かれて、私の頭にあったのは、ちょっとした知り合いだった。
もちろん恋人じゃないし、友だちと言えるほど、付き合いが深いわけでもないし。
ただ、恋人と言えたなら、三井さんはどんな顔をしたかな、とは少し思った。
小野さんは三井さんのしそうな行動や、身の安全まで考えて答えてくれていたとは思わなかった。
「短い間に、たくさん考えてくださったんですね。私のせいで、小野さんにご迷惑がかからなかったらいいんですが」
「介入した時点で守る覚悟をしていましたから。今後も含めて」
愛の告白をされたわけでもないのに、守ると言ってもらえただけで、舞い上がってしまいそうなほど、嬉しい。
「以前、滝川さんが勇気を出してくれた後、僕は自分の気持ちについて考えたんです。自分の身に恋愛事が起こるだなんて想像もしていなかったので、戸惑ってしまって。いわゆる、ライクかラブかです。滝川さんに好印象は持っていましたが、恋愛の気持ちなのかは、あの時点はわかっていませんでした。僕の体のことで誰かを振り回すのは嫌だなと思っていたのもあって。それで、お断りをしたんです」
三年前の12月。私が告白した時のことだ。
何を言おうとしているのか、私は小野さんの目を見つめた。
次回⇒34. 小野さんの告白
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