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21. 12月 前職からの電話
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吐く息が白くなり、年末感が漂い始めた12月。
休みの日にベッドで横になって本を読んでいると、スマホに電話がかかってきた。
登録している人しか電話を受けないと決めているので、確認のために画面を見ると、『高村歯科医院』と表示されている。以前勤めていた職場からだった。
慌てて体を起こす。
まさか三井さんじゃ、と彼女の顔が頭を過る。体に力が入った。
眺めていても切れてしまうだけだし、大切な用事だったらいけないしなと、電話に出る。
『滝川さんの携帯電話ですか? 高村ですが』
相手は男性。その聞き覚えのある低めの声に、私はびっくりして座り直す。
「院長先生! こんにちは、滝川です。ご無沙汰しています」
『こんにちは。その後どうですか? 元気で頑張っていますか?』
電話をかけきたのは、高村歯科医院の院長先生本人だった。
診察中に声を荒らげることのない、温厚な先生。
でもスタッフとあまりコミュニケーションを取らない人だった。
年に2回、食事に連れて行ってくれるけど、先生は挨拶程度に顔を出し、支払いだけをしてすぐに帰る。美味しいものを食べられて、気を遣う先生がいなくて、三井さんが来るまではスタッフ間の仲も良かったから、和気あいあいと食事を楽しんだのを覚えている。
「今は植物園の喫茶店で働いています。アルバイトなんですけど」
『アルバイトなんですね。滝川さん、唐突ですけど、うちの病院に戻ってきませんか?』
「‥‥‥え!?」
思っていなかった先生からの誘いに、背筋が伸びる。
『三井さんね、辞めてもらいました。スタッフへの当たりがきつかったんですね。滝川さんの退職の原因が三井さんだったと、遅まきながら私の耳に入ってましてね。守ってあげられなくて、申し訳なかった』
電話の向こうで、60代とは思えない豊かな頭髪を揺らして、先生が頭を下げている姿が、脳裏に浮かんだ。
『滝川さんは三年間、よく頑張ってくれていました。患者さんに真摯に対応してくれていた。患者さんからもお褒めの言葉をもらっていたんですよ。顔と名前をすぐに覚えてくれた。いつも笑顔で優しく対応してくれるから、緊張が和らぐ、とね。歯医者が好きな人なんて、ほとんどいません。痛くて怖くて、できるなら来たくない場所と思っている方が多い。そんな中で、丁寧に患者さんをお迎えしてくれていたこと、感謝しています』
院長先生は見てくれていた。
嬉しくて、胸がじんわりと温かくなる。
「いえ、そんな。私は診察のことがわからないので、受付で不誠実な対応だけはしないようにと心掛けていました。大切な保険証を返し忘れてしまったり、予約表の記入漏れなんかのミスをしてしまった時は、本当に申し訳なくて。毎日、必死でした。楽しい仕事だったとは思えないです。でも、達成感はありました。歯の困り事から解放された患者さんが、ありがとうと笑顔で帰って行かれるのは嬉しかったです」
最後はつらい思い出ばかりだったけど、患者さんとのコミュケーションは楽しかった。
『来年、戻ってきませんか? すぐに正社員として勤めていただけると、助かります』
「え?」
再び歯科に戻る。そんな選択肢は頭になかった。まして、元の職場から戻ってきて欲しいと言ってもらえるなんて。
心が揺れていた。
「受付の人は足りているのでしょうか?」
『パートさんと手の空いた時に衛生士さんに対応してもらっていますが、やはりフルタイムで入ってくれる人が欲しいというのが、スタッフの意見です』
「そうですか‥‥‥少し考える時間をいただけませんか? 植物園のオーナーやスタッフにも話してみないと」
『わかりました。心が決まったら電話をください』
「はい。先生、お電話ありがとうございました。失礼いたします」
通話を切る。
クッションを抱っこしながら、ぼんやりと考える。
歯科の受付の仕事を、私は好きだったんだろうか。
三年もいたのだから、慣れてはいた。けれど、緊張感を持って向き合っていた。
今の仕事は、歯科ほどの緊張感はない。忙しくないから、ばたばたしたことはない。あのゆったりした時間が、好き。
だけどアルバイトだから、収入は減っている。実家暮らしだから贅沢をしなければ平気だけど、いつまでも母に甘えているわけにはいかないもんね。
正社員に戻れば、貯金額も増やせるし、いつか独り暮らしができるかもしれない。
だけど――植物園を辞めると小野さんに会えなくなる。
スマホで繋がっているのだから、誘えば会えるかもしれないけど、個人的に会うのは断られるかもしれない。
本を貸してくれているのは、お気に入りの喫茶店で働いている人だから、親切にしてくれているだけだろうし。
でもそんな不純な理由で断るのはちょっと嫌だな、とい思いもあって。
「どうしよう」
ぎゅーと抱きかかえたクッションに、顔を埋めた。
次回⇒22. 私の好きなこと
休みの日にベッドで横になって本を読んでいると、スマホに電話がかかってきた。
登録している人しか電話を受けないと決めているので、確認のために画面を見ると、『高村歯科医院』と表示されている。以前勤めていた職場からだった。
慌てて体を起こす。
まさか三井さんじゃ、と彼女の顔が頭を過る。体に力が入った。
眺めていても切れてしまうだけだし、大切な用事だったらいけないしなと、電話に出る。
『滝川さんの携帯電話ですか? 高村ですが』
相手は男性。その聞き覚えのある低めの声に、私はびっくりして座り直す。
「院長先生! こんにちは、滝川です。ご無沙汰しています」
『こんにちは。その後どうですか? 元気で頑張っていますか?』
電話をかけきたのは、高村歯科医院の院長先生本人だった。
診察中に声を荒らげることのない、温厚な先生。
でもスタッフとあまりコミュニケーションを取らない人だった。
年に2回、食事に連れて行ってくれるけど、先生は挨拶程度に顔を出し、支払いだけをしてすぐに帰る。美味しいものを食べられて、気を遣う先生がいなくて、三井さんが来るまではスタッフ間の仲も良かったから、和気あいあいと食事を楽しんだのを覚えている。
「今は植物園の喫茶店で働いています。アルバイトなんですけど」
『アルバイトなんですね。滝川さん、唐突ですけど、うちの病院に戻ってきませんか?』
「‥‥‥え!?」
思っていなかった先生からの誘いに、背筋が伸びる。
『三井さんね、辞めてもらいました。スタッフへの当たりがきつかったんですね。滝川さんの退職の原因が三井さんだったと、遅まきながら私の耳に入ってましてね。守ってあげられなくて、申し訳なかった』
電話の向こうで、60代とは思えない豊かな頭髪を揺らして、先生が頭を下げている姿が、脳裏に浮かんだ。
『滝川さんは三年間、よく頑張ってくれていました。患者さんに真摯に対応してくれていた。患者さんからもお褒めの言葉をもらっていたんですよ。顔と名前をすぐに覚えてくれた。いつも笑顔で優しく対応してくれるから、緊張が和らぐ、とね。歯医者が好きな人なんて、ほとんどいません。痛くて怖くて、できるなら来たくない場所と思っている方が多い。そんな中で、丁寧に患者さんをお迎えしてくれていたこと、感謝しています』
院長先生は見てくれていた。
嬉しくて、胸がじんわりと温かくなる。
「いえ、そんな。私は診察のことがわからないので、受付で不誠実な対応だけはしないようにと心掛けていました。大切な保険証を返し忘れてしまったり、予約表の記入漏れなんかのミスをしてしまった時は、本当に申し訳なくて。毎日、必死でした。楽しい仕事だったとは思えないです。でも、達成感はありました。歯の困り事から解放された患者さんが、ありがとうと笑顔で帰って行かれるのは嬉しかったです」
最後はつらい思い出ばかりだったけど、患者さんとのコミュケーションは楽しかった。
『来年、戻ってきませんか? すぐに正社員として勤めていただけると、助かります』
「え?」
再び歯科に戻る。そんな選択肢は頭になかった。まして、元の職場から戻ってきて欲しいと言ってもらえるなんて。
心が揺れていた。
「受付の人は足りているのでしょうか?」
『パートさんと手の空いた時に衛生士さんに対応してもらっていますが、やはりフルタイムで入ってくれる人が欲しいというのが、スタッフの意見です』
「そうですか‥‥‥少し考える時間をいただけませんか? 植物園のオーナーやスタッフにも話してみないと」
『わかりました。心が決まったら電話をください』
「はい。先生、お電話ありがとうございました。失礼いたします」
通話を切る。
クッションを抱っこしながら、ぼんやりと考える。
歯科の受付の仕事を、私は好きだったんだろうか。
三年もいたのだから、慣れてはいた。けれど、緊張感を持って向き合っていた。
今の仕事は、歯科ほどの緊張感はない。忙しくないから、ばたばたしたことはない。あのゆったりした時間が、好き。
だけどアルバイトだから、収入は減っている。実家暮らしだから贅沢をしなければ平気だけど、いつまでも母に甘えているわけにはいかないもんね。
正社員に戻れば、貯金額も増やせるし、いつか独り暮らしができるかもしれない。
だけど――植物園を辞めると小野さんに会えなくなる。
スマホで繋がっているのだから、誘えば会えるかもしれないけど、個人的に会うのは断られるかもしれない。
本を貸してくれているのは、お気に入りの喫茶店で働いている人だから、親切にしてくれているだけだろうし。
でもそんな不純な理由で断るのはちょっと嫌だな、とい思いもあって。
「どうしよう」
ぎゅーと抱きかかえたクッションに、顔を埋めた。
次回⇒22. 私の好きなこと
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