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11. 彼の名前

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 丸いお盆にセット一式を載せて、慎重に運ぶ。

 彼は本を閉じ、顔を上げて私を見ていた。
 心臓がどきんと飛び跳ねる。

「お待たせいたしました」
 緊張しながら、お盆を彼の前に置いた。

 目線が下がる。彼が見ていたのは私ではなく、お菓子だった。
 子どものように、目がきらきらと輝いている。かわいい。

「いい香りが漂ってきて、楽しみになっていました」

 そう言われて、生地の甘い匂いと、芳ばしい香りがお店に漂っているのに気がついた。嗅覚を働かせる余裕が、私になかったみたい。

「どら焼きは、今作ってきました」
 さりげなくアピール。声が少し震えてしまう。彼に気づかれていないかな。

「それでこの香り。あなたが作ってくださったんですか」
「あ、はい。私、滝川彩綺さいきと、言います」

 え? 彼が顔を上げた。目を丸くして、私を見ている。それから、頬を笑みの形に崩した。
 飲食店のスタッフにいきなり名乗られたら、びっくりしますよね。

「ああ、滝川彩綺さん。僕は小野俊介と言います」

 今度は私がびっくりする番だった。名前を教えてもらえるなんて、思ってもいなかったから。
 緊張して、ひきつった笑みになっていないか、心配になる。

「お、小野様、お茶は玉露をご用意しております。抽出まで少しお時間をくださいませ」
「玉露が飲めるんですか。僕、初めてです」

 私を見る時より顔が綻んでいる。ちょっと悔しいけど、心臓が口から出てきそうだったから、今は良かったかも。

 私は急須に湯を注ぐ。
 彼に見られていて、手が震る。だけど零しはしなかった。

 急須には事前に茶葉を4g量って入れている。お湯は沸騰させて60度で保温していた。
 お湯を入れ終わると、蓋は閉めずに開けたまま、タイマーを押す。2分。
 カウントダウンするにつれて、茶葉が開いていき、ほのかに海苔に似た匂いが漂う。
 タイマーが鳴り、急須の蓋を閉めて、玉露用の真っ白なお茶碗にお茶を注いだ。

「お待たせしました。どうぞ」
「いただきます」

 彼がお茶を楽しんでいる間に、二煎目のお茶の準備のために、温度調節ができるケトルを取りに行った。戻ってくると、彼はメモ帳に何かを記入していた。

 コンセントに差して、80度に温度を上げる。
 玉露は一煎目は60度、二煎目は70~80度、三煎目は100度と、温度を高くしていって楽しむお茶。
 抽出の時間は一煎目は2分、二煎目は20秒ほど、三煎目は15秒ほどと短くなる。

 それらの説明を小野様に伝えると、彼はそれもメモを取っていた。

 玉露の楽しみ方を書いたイラスト付きの説明書きを見せる。
「こちらにも書いておりますので、必要でしたらご利用ください」

「わかりました。ありがとうございます」
 興味深そうに説明書を見つめた。

 私は「失礼いたします」と一礼して、テーブルから離れた。



   次回⇒12. 少し近づく距離
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