【完結】想いはピアノの調べに乗せて

衿乃 光希(恋愛小説大賞参加しています)

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番外編 さいごに見る夢は

ピアノに会いに行こう

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 ストリートピアノのある駅は、病院の最寄り駅から三駅先だった。
 夫に運転してもらって車で移動し、駅で降ろしてもらう。
 車椅子を押して、エレベーターで地下に下りる。

 連日、季節外れの暖かさを記録していたのに、出かける日に限って半月先の気温に下がった。やせ細った母に防寒具を着せてもこもこに仕立て上げたが、地下は暖かかった。

「お祖母ちゃん、暑くない?」
「大丈夫よ」
 今日は愛実も付き添ってくれた。

 地下道を改札方面に歩いていくと、件のストリートピアノが見えた。

「母さん、あのピアノよ」
 声をかけると、愛おしい物を手に入れようとするように、桂子は両腕を伸ばした。

「普通のピアノだよね。お祖母ちゃんはどうしてあれが思い出のピアノだってわかったんだろう」

 小声で呟く愛実に、恵はさあねと答えた。それは恵にも理解できないところだった。
 認知症か高齢ゆえの思い込みなのか、母にだけわかる傷か何かがあるのか。
 大事なのは、思い出のピアノかどうかより、そう思っている母の気持ちを汲んでやることだ。

「さ、着いたわよ。このままでいい? それともイスに座る?」
「座りたいわね」

 体を支えながら立たせてやり、ピアノ前に設置されたイスに座らせる。
 指を鍵盤に這わせる母の目尻に皺が寄る。マスクで覆った口元は、綻んでいることだろう。

 節くれだった指が鍵盤を押す。弱々しいながらも音が出た。人差し指だけで奏でるのは、ゆっくりテンポのきらきら星だった。

 うんうんと頷く母の瞳が、楽しい遊びに夢中になる子供のように輝いていく。

 連れてこられてよかった。楽しそうな姿を見て、恵の胸が熱くなった。

 十分ほどで満足した様子の母を、病院に連れ帰った。

 ピアノに会えて思い残すことはないとでもいうかのように、その後体調が悪化した。
 忍耐強い母が痛みに呻き、満足に眠れなくなり、強い鎮痛剤を使うことになった。
 緩和病棟に移っていた母を、恵は以前と同じように毎日見舞ったけど、起きている母には会えなかった。それでも、恵は毎日病室を訪れた。

 その日、見舞いに来た恵は、ナースから便箋を受け取った。
「高谷さんが病室からいなくなった日に、面会室に来ていた子供さんが持ち帰っていたようで。昨日届けられて、失礼ながら中を拝見しました。おそらく高谷さんが書かれたのではないかと思いまして」

 半分ほど薄くなっている便箋の表紙をめくる。見覚えのある文字。
「たしかに、母の文字です。ありがとうございます」
「こちらは便箋代としてお預かりしました」

 白い封筒を渡された。傾けると二百円がころんと出てきた。押し花風のきれいな花柄だったから、気に入った子供が持って帰って使ったのだろう。あの日、母は便箋を買いに購買に向かったのだ。面会室で書いている途中で、テレビのピアノに興味を奪われたのだろう。

 病室に持ち帰り、書きかけの文章に目を通す。
『有村恵様へ お店と家のことと大変なのに、毎日来てくれて、ありがとう。病気になってごめんなさい。あなたに迷惑をかけない老後を過ごすつもりをしていたのに、かなり世話になっていますね。恵ちゃんがいてくれて良かった。私は心底そう思っています。あなたがいなければ、』

 ここで文章は終わっていた。何を恵に伝えようとしていたのか、母に訊ねたかった。
「母さん、病気になって悪いなんて思わないで。わたし大変なんて思ってないよ。いくらでも来るから」

 そっと声をかけても、母はやっぱり眠っていた。

 年が明け五日、世間はお祭りムードだったけど、我が家は病院から連絡を受けて病室に駆けつけた。
 眠っている母の手を取り、村井を含めた四人で声をかけた。
 はたしてそれが正解なのかはわからない。苦しんだのだから、静かに見守ってやればいいのかもしれない。だけどわたしたちは母に話しかけた。
 愛実がスマホで録画していた、母がストリートピアノを弾く動画を流した。

 何時間も呼びかけ続けていると、母の瞼がぴくりと反応をした。
 自然と声が大きくなってしまう。それが呼び水になったのか、目がゆっくりと開いた。
 ぼんやりした瞳と恵の目が合う。
 母の口が動く。
 何かを伝えようとしているんじゃないか。
 そう判断した恵は、母の口を覆っていた酸素呼吸器を外し、耳を近づけた。

「恵ちゃん……ありがとう。私の……娘に生まれて……くれて」

 生気を使い果たしたのか、母はぱたりと意識を閉じた。
 恵たちはもう声をかけなかった。
 それから三時間後。母は静かに人生の幕を下ろした。
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読みに来てくださり、ありがとうございます。ほっこりじんわり大賞用の現代恋愛を28日から開始する予定です。初恋のドキドキを読みにきていていただけると、嬉しいです。
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