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番外編 さいごに見る夢は
桂子のお願い
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病院から連絡を受けた恵は、ランチの時間終了と同時に店を飛び出した。
母が病室からいなくなったと。
入院して一カ月。これまで問題行動はなかった。
抗がん剤の投与が始まってからはぐったりしていたけど、休薬中に少し元気になった。でも一人で歩き回れるほど回復はしていないと思っていたのに。
病院の外に出てしまっていなければいいけど。
はやる気持ちを抑えながらアクセルを踏む。
途中、スマホのコールが鳴った。着信だ。
車を道路脇に止め、電話に出る。
担当ナースから、桂子が見つかったと報告を受け、ほっと息をつく。
良かった。本当に。どっと疲れが押し寄せて、少しの間瞼を閉じた。
母は病院内にはいたが、別棟の面会室にいたらしい。魅入られたように、テレビを見ていたそうだ。
テレビは病室にもあるのに、どうしてわざわざ離れた所で見ていたのだろうか。母に聞いてみないと。
落ち着いてきたので、恵は車を動かした。
恵が病室に入ったとき、桂子はベッドで大人しくしていた。
雑誌を読んでいる。
ん? 雑誌? 新聞は毎日届けているけど、雑誌を買ってきたことはない。
「母さん、それどうしたの?」
「え? 何? これ?」
母は読んでいたものを掲げる。週刊誌なんて読む人だっただろうか。
「机に置いてあったから、暇つぶしに読んでるだけ。つまらない記事ばかりね」
ぽんと読んでいた週刊誌を机に置いた。
母はゴシップに興味を持つ人ではなかったから、そりゃ楽しくないだろうに。
机に目をやると、母の財布が置きっ放しになっていた。
普段は引き出しの中の貴重品入れに鍵をかけてしまっている。
母が売店まで行って週刊誌を買ってきたということのようだ。
興味を持っていないのに、わざわざどうして? らしくない行動に疑問が沸く。
「売店までこれを買いに行ったの?」
「行ってないわよ。そこに置いてあったの?」
「財布もここにあるじゃない。母さんが行ったのよ」
「私はここにいたわよ」
「嘘言わないで。病院で迷子になって、看護師さんたちに迷惑かけて」
「迷子? どこにも行ってないのに、どうして迷子になるの? 恵ちゃんどうしたの?」
母は他人事のような顔をして覗き込んでくる。
恵は落ち着こうと、心の中で数秒数える。
失念していた。母は認知症だった。
財布を持って病室から出たことも、買い物をしてきたことも忘れているのだ。
財布は持って帰ったほうがいいかもしれない。でも、なければないで、盗まれたと騒ぐかも。
思案していると、
「ああ、そうだわ。恵ちゃんにお願いがあったの」
桂子がぽんと手を打ち鳴らした。
「さっきテレビでやってたんだけどね、男の子が駅でピアノを弾いてたの。私、そのピアノに会いに行きたいの」
「ええ? ピアノ? 弾いてた子じゃなくて」
無邪気な笑みを向けてくる。外出したことは忘れているのに、発見されたときに見ていたテレビの内容を覚えているのはどうしてなのだろう? 母の何かを刺激したのだろうか。
「どこの駅?」
母は首を傾げた。肝心なことは覚えていなかった。駅がわからないことには連れて行きようがない。
「テレビ局に訊いたら教えてくれないかしら?」
「どこの局?」
それすらもわかっていなかった。
「探してみるね」
探している間に母は忘れてしまうだろうか。このまま忘れてしまったほうがいいのかもしれない。
母が病室からいなくなったと。
入院して一カ月。これまで問題行動はなかった。
抗がん剤の投与が始まってからはぐったりしていたけど、休薬中に少し元気になった。でも一人で歩き回れるほど回復はしていないと思っていたのに。
病院の外に出てしまっていなければいいけど。
はやる気持ちを抑えながらアクセルを踏む。
途中、スマホのコールが鳴った。着信だ。
車を道路脇に止め、電話に出る。
担当ナースから、桂子が見つかったと報告を受け、ほっと息をつく。
良かった。本当に。どっと疲れが押し寄せて、少しの間瞼を閉じた。
母は病院内にはいたが、別棟の面会室にいたらしい。魅入られたように、テレビを見ていたそうだ。
テレビは病室にもあるのに、どうしてわざわざ離れた所で見ていたのだろうか。母に聞いてみないと。
落ち着いてきたので、恵は車を動かした。
恵が病室に入ったとき、桂子はベッドで大人しくしていた。
雑誌を読んでいる。
ん? 雑誌? 新聞は毎日届けているけど、雑誌を買ってきたことはない。
「母さん、それどうしたの?」
「え? 何? これ?」
母は読んでいたものを掲げる。週刊誌なんて読む人だっただろうか。
「机に置いてあったから、暇つぶしに読んでるだけ。つまらない記事ばかりね」
ぽんと読んでいた週刊誌を机に置いた。
母はゴシップに興味を持つ人ではなかったから、そりゃ楽しくないだろうに。
机に目をやると、母の財布が置きっ放しになっていた。
普段は引き出しの中の貴重品入れに鍵をかけてしまっている。
母が売店まで行って週刊誌を買ってきたということのようだ。
興味を持っていないのに、わざわざどうして? らしくない行動に疑問が沸く。
「売店までこれを買いに行ったの?」
「行ってないわよ。そこに置いてあったの?」
「財布もここにあるじゃない。母さんが行ったのよ」
「私はここにいたわよ」
「嘘言わないで。病院で迷子になって、看護師さんたちに迷惑かけて」
「迷子? どこにも行ってないのに、どうして迷子になるの? 恵ちゃんどうしたの?」
母は他人事のような顔をして覗き込んでくる。
恵は落ち着こうと、心の中で数秒数える。
失念していた。母は認知症だった。
財布を持って病室から出たことも、買い物をしてきたことも忘れているのだ。
財布は持って帰ったほうがいいかもしれない。でも、なければないで、盗まれたと騒ぐかも。
思案していると、
「ああ、そうだわ。恵ちゃんにお願いがあったの」
桂子がぽんと手を打ち鳴らした。
「さっきテレビでやってたんだけどね、男の子が駅でピアノを弾いてたの。私、そのピアノに会いに行きたいの」
「ええ? ピアノ? 弾いてた子じゃなくて」
無邪気な笑みを向けてくる。外出したことは忘れているのに、発見されたときに見ていたテレビの内容を覚えているのはどうしてなのだろう? 母の何かを刺激したのだろうか。
「どこの駅?」
母は首を傾げた。肝心なことは覚えていなかった。駅がわからないことには連れて行きようがない。
「テレビ局に訊いたら教えてくれないかしら?」
「どこの局?」
それすらもわかっていなかった。
「探してみるね」
探している間に母は忘れてしまうだろうか。このまま忘れてしまったほうがいいのかもしれない。
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読みに来てくださり、ありがとうございます。ほっこりじんわり大賞用の現代恋愛を28日から開始する予定です。初恋のドキドキを読みにきていていただけると、嬉しいです。
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