【完結】想いはピアノの調べに乗せて

衿乃 光希(恋愛小説大賞参加しています)

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第二話 遠野眞子 ~初期衝動~

久しぶりに

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 ここは最後にすれば良かった。
 これからまだ他の店舗も回るのに疲れちゃったよ。ビール飲みたい。

 ランチをどこで取ろうかなと考えながら駅に向かって地下街を歩いていると、一台のアップライトピアノが視界に入った。

 そうだ忘れてた。来るときにも見かけた、ここはピアノのある駅だった。

 ピアノはもう弾かない。決めたのは四年半前。
 十六年間続けたけれど、大学を卒業と同時に辞めた。
 今ピアノは就職を機に出た実家でカバーをかけたまま、わたしの部屋にある。
 もう弾かないから処分してくれていいと言っても、両親はそのままにしている。
 いくつかの受賞トロフィーと一緒に。

 どうして駅にピアノがあるんだろう。わたしの視界に入るところに置かないで欲しい。

 倍増したイライラは、次の店舗に行くまでに消化しておきたい。
 アルコールは夜まで我慢するとして、甘い物でも食べて発散しようかな。
 パフェやパンケーキを思い浮かべながら、ピアノの前を通りかかった。
 見るつもりはなかったのに、目が向いてしまう。

 黒く艶やかなボディ。整然と並ぶ白と黒の鍵盤。
『ご自由にお弾きください。櫻木』と書かれた看板。

 楽器屋の宣伝用じゃなくて、個人の所有物なのかな。
 いつからここにあるんだろう。

 改札に向かっていたはずなのに、気が付くとわたしはピアノの前に佇んでいた。

 頭の中でピアノの音が流れる。ピアノにはたくさんの思い出がある。
 違う。わたしの思い出には、ほぼピアノしかない。
 楽しい記憶だけじゃない。悪いものも、苦いものも、胸を抉られるほどの痛いものもある。

 だからもう、ピアノは弾かない。

 それなのに、自分が出した音に驚いた。
 わたし、ピアノに触れてる。鍵盤を押さえている。

 澄んだ音色。強く弾けば情熱的に、優しく押さえると繊細で柔らかい音が出る。

 懐かしくて、癒される。

 いい音。
 ストリートに置かれていても、きちんと手を掛けてもらえているのね。

 久しぶりに触れたピアノが愛おしく思えてきて、吸い寄せられるように、腰を掛けた。

 わたしはピアノが大好きだった。
 六歳の頃から十六年も心血を注いできた。ピアノ以上に夢中になれたものも人もいない。

 そして、同じくらい、憎んでもいる。

 同じ時期同じ大学で学んだ大澤かおりにはたくさん笑顔を見せていたピアノの神様は、わたしには一柱たりと降りてきてくれなかった。

 それはピアノに裏切られたも同然で、ピアニストになる夢は断たれた。
 ううん、違う。わたしが自分から断ったんだ。
 これだけ尽くしてきたのに、得られないのならもういらないと、逆切れして。
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読みに来てくださり、ありがとうございます。ほっこりじんわり大賞用の現代恋愛を28日から開始する予定です。初恋のドキドキを読みにきていていただけると、嬉しいです。
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