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番外編 猫のいる街 1997

5. 誠二郎 3

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思い起こせばあの日、わしは風邪気味だったのか、少し咳をしていた。
身体のだるさや熱っぽさはなかったから、病院には行かなかった。
耳だの目だの歯だのと、週にあちこちの医者をはしごしていたから、病院にはうんざりしていた。
朝早くから年寄りの寄合所と化している病院で何時間も待っているほうが、かえって体調が悪くなりそうだ。それなら家で寝ているほうが早く治るだろう。
そう思っていた。
もともと病院は好きではない。行かずに済ませられるものなら、それにこしたことはない。
切らしていた牛乳と、久しぶりに甘いものが食べたくなったので羊羹を籠に入れ、惣菜を数点買い、足早に家に帰った。
羊羹が好物だった久子の仏壇に備え、合掌していると、どこからともなく珠が現れ、わしの横にちょこんと座った。
妻の久子は五年前に亡くなったから、珠とは当然面識がない。にも関わらず、わしが仏壇にいると朝な夕なやってきては、念仏を唱えていようがいまいが、神妙な顔で隣に座っている。
そしてわしの移動についてきて、羊羹を食べているわしの足元にじゃれついてくる。
そんな姿も可愛いもので、ついおやつをあげすぎてしまう。
ジャーキーに満足した珠がうとうとと寝始めたので、わしも横になっていようと、布団に潜った。
眠ったり起きたりとまどろみを繰り返し、空腹を覚えたので夕飯を食べ、楽しみしている時代劇を見て、風呂に入り、再び布団に入った。
1月も下旬に入り、いっそう寒さが募ってきていたが、珠と寄り添って眠っていると、ぽかぽかで電気コタツも電気毛布も必要なかった。
翌日は、咳が少し増えていたようだったから、歯医者の予約をキャンセルして外出は控えた。
特にすることもなく、洗濯物を干し、時代劇の再放送を見て、昼食をとり、掃除機をかけ、珠と昼寝をし、寒さから外出が減っている珠の運動不足解消にと猫じゃらしで遊んでやり、洗濯物を取り込んで畳み、夕食をとり、ニュース番組を見、風呂には入らず横になった。
その翌日に、身体が少しだけ熱っぽい感じがしたが、節々の痛みや悪寒はなく、食欲もあったため、前日と同じように過ごした。念のため市販の風邪薬を飲んだ。
さらに翌日、咳をするとすこし血が混ざっていた。呼吸をすると胸が痛いような気がした。
これは内科にでも行ったほうが良さそうだなとようやく思った。
その日は雪がちらついていた。車で15分ほどの所に住んでいる娘の京子に電話をすると留守にしていて、寒いなか自分の足で病院に行くのは億劫に感じた。
夜京子から電話がかかってきて、症状を伝え、あくる朝車で連れて行ってもらった。
細菌性肺炎で、即入院となった。
数日か、長くても一週間ほどで退院できるだろうと勝手に予想し、その間に珠の世話を京子に頼んでおいた。
動物が好きな子だから、喜んで引き受けてくれたが、三日後、珠が家からいなくなった。
ほうぼう探したけれども見つからない。餌だけは家に置いておくけど、家と病院の往復でなかなか探しにはいけない。
京子がすまなさそうな顔をするので、なんとしても探して見つけて欲しい、とは言えなかった。
それでも京子はできる範囲で捜索をしてくれたようだ。チラシを作って近所のポストに入れたり、お店に置いてもらったりと手はつくしてくれたらしい。
結局珠はそのまま見つからなかった。
気がつけば、わしは珠の姿をずっと探していた。
朝も昼も夜も夜中も、お構いなしに街を歩き、路地を覗き込んだ。
疲れも空腹も感じないのに、それをおかしいと思うこともなかった。
日にちの感覚もなくなっていた。
猫に尋ねようとしたら、全身の毛を逆立てて一目散に逃げられてしまう。
どうしたものかと考えあぐねていたら、あの男の家に迷いこんでいた。
男と話しているうちに、ようやく自分が死んだことを自覚した。
おそらく肺炎が悪化したのだろう。今となっては知りようもないが。
咳があった地点で医者にかかっていれば、悪化を防げたかもしれない。
ただの風邪と侮っていた己が愚かであったと、今更後悔したところで遅いのはわかっていても、思わずにはいられない。
珠を野良にしてしまったのは、わしのせいだ。
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