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一度でいいから――伊部瀬 麻理(享年25歳)

7. 麻理 1の続き

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光ちゃんは殴られる覚悟で、すぐに挨拶に来てくれた。
パパは殴ったりしなかったけど、あたしとママを部屋から出して、光ちゃんと二人きりで話をしていた。
内容は教えてもらってない。お義父さんと男の約束をしたからって。
安定するまで実家で過ごしながら新居を探し、夏で仕事を退職して、9月に引っ越した。
10月に式を挙げ、入籍して。
この数ヶ月はあっという間で、怒涛過ぎてあまり覚えてないな。
それからの光ちゃんとの新生活は、思ってたほど楽しいことばかりじゃなかった。
好きなことや苦手なことの価値観が合ったから、一緒に住んでも問題なんてないって思ってた。けど、付き合っているだけじゃわからないことっていっぱいあるんだね。
呑んで帰ってきてお風呂に入らずリビングで寝てしまうだらしない面があったり。
着ていたものを脱ぎちらかしたり。
最初のうちは奥さんなんだからあたしが面倒を見てあげなくちゃ、なんて思って何も言わず片付けていたけれど、それが毎日となるとまた今日も? またなの? って。体調の悪いときなんて勘弁してよ、になり。
うるさい奥さんになりたくないし、あたしが片付けてあげてたらそのうち気が付いて自分で片付けてくれるかな? って期待していたんだけど気付いてもらえなくて、あたしのイライラゲージが溜まっていって。
ある日どうしても気力が沸かなくて、光ちゃんが散らかしたままにしていたら、やっと自分で脱衣所へ持って行ってくれた。それだけでずいぶん気分が楽になって、光ちゃんにお礼を言ったらなんか照れくさそうな顔をしてた。
それからは自分で片付けるようになってくれたね。
あ、生活をするってこういうことなんだ、って思ったな。
こうして欲しいって、つい自分のリズムを押し付けてしまうけれど、光ちゃんには光ちゃんのリズムがあって。
だからって相手のリズムに合わせてばかりだと、あたしの不満が溜まってしまう。
お互い自分勝手なことばかりするわけにはいかないけど、文句ばかりも言えない。
妥協できるところは諦めつつ、納得できないことは話し合いをして、考えをすりあわせて。
育った環境の違う二人がひとつの空間で居心地良く暮らしていくには、ある程度の努力と妥協が必要なんだって。
もちろん楽しいことだってたくさんあった。
一緒に買い物に行ったり、お料理をしたり、テレビを見て同じところで笑ったり時には意見を言い合ったり。
嫌な面もあるけど楽しいことで消化して、そうやって夫婦の呼吸を合わせていくんだなってわかってきて、これからってときだったのにね。
ねえ、光ちゃん。
光ちゃんはあたしと付き合ってて楽しかった?
結婚して幸せだった?
口うるさい奥さんじゃなかった?
知り合ってからお別れするまで短かったけど、あたしはあなたを幸せにできたのかな?
もっとたくさん手料理を食べてもらいたかったよ。
一緒に子育てしたかったんだよ。
もっと触れ合っていたかったんだよ。
もっともっと一緒にいたかったよ。
光ちゃんと一緒に年をとりたかったよ。
届きそうなのに、この手は光ちゃんに届かない。
触れたいのに頬をすり抜け、起きてと揺さぶりたいのに肩をすり抜け、繋ぎたいのに指をすり抜ける。
どうして。
どうして、あたしは死ななきゃならなかったの。
人生ってもっと長いものだと思ってたのに。
たった25年で終わるなんて。
思ってもみなかった。
光ちゃん、あたしはここにいるよ。
気づいてよ。ねえ、光ちゃん。
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