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一度でいいから――伊部瀬 麻理(享年25歳)

3. 博田老人の過去

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すぐに戻ってきた老人は分厚い図鑑のような物を持っていた。
真っ白いハードカバーの表紙で、花やリボンなど品のある絵が描かれている。角はつぶれてしまっていた。
それを手渡された彼女は、予想以上の重さに慌てて両手で掴みなおした。
「家内と娘」
手渡された物はきちんと整理されたアルバムだった。
白無垢の女性が座り、隣で羽織袴の男性が立っている。二人とも緊張の面持ちだ。
男性には老人の面影があった。三十台半ばから後半くらい。対する女性は二十代半ばを過ぎた頃くらいだろうか。
「奥様、お綺麗な方ですね。和美人って感じ」
「そ、奥さん綺麗だったの。着物がよく似合ってねぇ。洋装より着物で過ごすことが多かったねぇ」
老人の言うように、写真に写る女性は洋服より和服姿が多かった。着物がよく似合っているし、品の良い色気があった。
めくっていくと、赤ちゃんの写真が増えてきた。
「お嬢さんは奥様似ですか。かわいい」
「ありがとうねぇ」
「幸せそうないい笑顔。七五三ですね」
親子三人の家族写真。母子が着物で、老人はスーツを着てネクタイを締めている。
写真はやや色褪せてはいるが、女児が着ているものは真っ赤な地で、袖と裾に華やかな大輪の花がいくつも咲き誇っている。
「家内が小さいときに使った着物を大事にとっていてねぇ。着せてやったらはしゃいではしゃいで。大変だったねぇ」
大変だったと言いながらも、その口調はどこか楽しそうだ。遠い目をしながら、口元が綻んでいる。
牧場のような所で山羊に触れているものや海など、子供の成長とともにお出かけの写真が増え、幼稚園の入園式を迎えると、イモ堀りや発表会で演奏する姿など、行事物が増えていく。しかし小学校の入学式の写真を最後に、唐突に終わった。未使用のページはまだ半分残っている。これからまだまだ増える予定だったのだろう。
何かある事を察したらしい彼女は、しかし老人に問いかけることができずに黙ってしまった。
「このすぐ後にねぇ、交通事故で二人ともあっけなく逝ってしまってねぇ」
空気を察した老人が口を開いた。
「娘が生まれた頃はバブル真っ盛りでねぇ。車は増えているのに道路整備が追いついていなくて、事故がとても多かった。普段から二人には気をつけるようにと言いきかせていたから、当日も気をつけていたはずなんだよねぇ」
老人はしわしわの手で、愛おしそうに写真の二人を撫でる。言葉の端々から零れんばかりの愛情が溢れている。
「あの日、家内は珍しく洋装でねぇ。小学校で知り合ったお母さんたちと出かけてくるって。ここから三十分ほど電車で行ったところのデパートの近辺に行ってたらしくて。
その帰り際だったみたいでねぇ。スピードを出しすぎた車が信号で止まりきれずに交差点に侵入して別の車とぶつかって、反動で歩道に乗り上げたらしくてねぇ。家内は即死。家内がかばった娘も打ち所が悪くて、病院で看取りました。
子供に先立たれる親の気持ちってね、そりゃ言葉なんかで言い表せるもんじゃないよぉ。生きる気力もなくなって、何もしたくなくなる。毎日どうやったら妻と娘のところへ行けるか、そればかり考えるようになるんよぉ。それでもねぇ、腹はすくし、夜になると眠くなる。それがまたつらくてねぇ。
家内の父親と同居してたんだけどねぇ、急激に呆けちゃってね。衰弱も早かった。一年経たずに家内を追いかけて。奥さんを病気で早くに亡くされてたから、家内との絆も強かったんだねぇ」
写真を見つめる老人の瞳は愛情の色に溢れていた。と同時に深い悲しみの色も湛えている。突然家族を失い、傷ついた老人の心は、歳月では癒されず、さらに傷が深まっているようだ。
「お爺さんのお話聞かせてもらって、あたし自分と赤ちゃんのことばかり考えてたなって、今すごく反省してます。両親のこと考えてなかったなって。両親にしてみたら、今の状況ってお爺さんと同じなんですよね」
「そうだねぇ」
「赤ちゃんの傍でさまよってたとき、ママはなんでもっと来てくれないんだろう。どうしてもっと抱いてくれないんだろうって思ってたんです。赤ちゃんが可愛くないのかなって。  あたしに先立たれて気持ちの整理がついてないんですね。きっと。
つらい話をしてくださってありがとうございました。母を誤解したままになるところでした」
老人がにっこりしてゆっくりと首を振った
老人と彼女が話しこんでいる間に、時刻は午前二時になろうとしていた。
「ん……なんだ、ここ」
唐突に現れた男に、彼女は小さな悲鳴を上げた。
「いらっしゃい」
老人は驚きもせず、平然と男に声をかける。
「ここは?」
若い男はきょろきょろしている。
「心残りがあるのなら、お好きな物をどうぞぉ」
「心残り? あるよ。俺、あの女に殺されたようなもんなんだ」
「心残りがなくなるのなら、マネキンをお使いなさい。お金はいらないからねぇ」
「使うってどういうことだよ」
言いながら男はマネキンに身体を重ねていた。
「なんだこれ、すっげ。触れるじゃんかよー。あいつ覚えてろよ。爺さんサンキュ―な」
突然やってきた男は、すぐに荒々しく出て行った。
「大丈夫なんですか」
「なにか気がかりでもぉ?」
「誰かを恨んでいるみたいでしたよ。人を傷つけちゃったりしませんか」
「するかもしれないねぇ」
「構わないんですか」
「彼には彼の事情があるからねぇ。私には止める権利も諭す権利もありませんよぉ」
「それは、そうですけど」
「さて、今夜は疲れたから、私は休ませてもらうねぇ。あなたはお好きな所をお使いなさい。二階に余ってるベッドがあるから、横になりたかったら使ってくれて構わないよぉ。掃除はちゃんとしてもらってるからねぇ」
そう言うと、机の蛍光灯はつけたまま、老人はアルバムと湯のみの入ったお盆を持って、出て行った。
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