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第一部

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 夕餉の手伝いのため途中から席を外していたディーノは、外で子供たちと遊んでいたマウロ、寝室で眠っているピエール、工房にこもっている二人の順に声をかけて回った。今日は昨夜のような宴会はなく、みんな家々で過ごしている。次に宴会をするのは客人たちが集落を去る前夜になるだろう。

 全員の前に用意されていたワイングラスを掲げて乾杯し、ロゼッタ自慢の料理に舌鼓を打つ。ピエールの食欲はまだ完全回復ではないのかスローペースだが、それでもディーノが昼間見たときよりは顔色が良くなっていた。ワインは乾杯のときに少し口をつけただけで、後は手に取っていないようだった。それはディーノも同じだったが。二人の前には別のコップに入った水が用意されてあった。

 イレーネは遅く起きてきたロドヴィーゴたちの少し後に起きたようだが、食欲もあり、顔色も普段と変わりない。昨夜が遅かったからそんな頃まで寝入っていただけで、酒で体調がどうこうということはなさそうだった。

 食卓での話は主にリュートのことだった。ロドヴィーゴが質問し、リノが答えるのがほとんどで、ディーノたちは口を挟めずただ耳を傾けているだけ。しかしわからないからこそこそと別の会話をする、ということようなことはない。客人の会話を遮ることはマナー違反であると心得ているからだ。仕事の話であるのだからなおさらだ。

 リノとロドヴィーゴは高めの音が出るようなリュートを作れるか、いついつの演奏会に間に合わせたい、などと話し込んでいる。ときおりピエールが水を向けられてスケジュールの確認をしている。

 熱心に話をしているということは、依頼はほぼあるとみていいだろう。あとは書面に双方のサインを記せば正式契約となる。書面の内容はそう細かいものではない。依頼主の必須項目が加えられることもあるが、ほとんどは「リュートの製作お願いします」と一行で事足りる文章と、あとは両者の名が記されるだけ。報酬は口約束のことが多い。法によって決まり事があるわけではないからその程度で正式契約となるのだ。

 不履行になった場合のことは書かれていないが、不慮の事故や病気にならない限りは、職人の名誉と意地にかけて不履行になることなどない。噂が立てば途端に仕事を失うことが分かっているからだ。「この仕事は信頼が第一だからね」、とリノは口癖のように言っている。それは音楽家とて同じだ。

 演奏会で使うリュートをリノに依頼するのだとしたら、今回は期限付きの製作になるのだろうか。前回の依頼には期限がなかったから、リノは半年かけてじっくりと作りあげていた。今回はどれくらいの期間で作ることになるのだろうか。忙しくなりそうだ。ディーノはパスタを口に運びながら、リノのこれからの工程を考えた。

 間もなく冬が来る。工房は寒い。暖炉はあるが、リノは滅多に薪をくべない。寒い方が集中力が持続する、というのがその理由らしい。手伝っているときのディーノの全身が震えるほどの寒さに見舞われていても文句は言えない。製作に没頭しているときのリノは、普段とは全く違う顔をしている。

 普段はのんびりして、気の抜けた顔で、何を言っても声を荒げることなどなさそうだが、製作をしているときは目つきが鋭く、唇はきゅっと引き締められ、精悍な顔つきで没頭している。そんな表情をしているときのリノには、無駄口を叩くどころかいつもの調子で気安く話しかけることも、食事を呼びに行くことすら憚られる、緊張した雰囲気を漂わせている。

 期限のある今回はいつも以上の緊張感で仕事をすることになるかもしれない。どんなリュートが仕上がるのか、製作工程にはさほど興味のないディーノでも、出来あがるリュートがどんな音を奏でるのか、今からとても楽しみだった。

 食卓上の食べ物は七人の胃にすべて収まり、イレーネお手製の焼菓子が並んだ。

 リュートに関する話は終わり、ロドヴィーゴの演奏旅行の話になった。

 どこそこの国で食べたものは癖になるほど美味かった、だとか、同じ貴族であっても山一つ越えるだけで風習が異なり戸惑った、など。ディーノの知らない国や分化の話がたくさん出てきて、狭い世界しか知らないディーノの心を揺さぶった。

 この集落で強制されることなく嬉々として日々の仕事をこなし、心穏やかに暮らしている毎日に不満はまったくない。イレーネが手の届くところにいて、好きにリュートを弾ける、幸福と思える日々。これ以上何を望むのだろう、充分幸せなのに。

 それなのに、ディーノの心はロドヴィーゴの話す生活に憧れを抱き始めていた。馬車に乗って見知らぬ国を訪れ、自分の演奏を聴いてもらう。盛大な拍手をもらい、惜しまれながら次の国へ。数年後再び訪れたその国の人たちから総出で迎え入れられる。そうやって知名度と人気を上げていき、どこかの貴族に招かれて演奏会は大成功を収め、やがて貴族の身分と住まいを得る。

 想像の羽を広げたところで、ディーノは自身の欲深さに愕然とした。リュートさえ弾ければいいと願っていたはずなのに、気付けば貴族になっている。はたして自分はそんなことを望んでいたのだろうか。これではリュートはのし上がるための単なる道具に過ぎないではないか。

 オレは貴族になんか憧れていない。地位なんかいらない。リュート演奏を続けていける程度の名声を得ることができればいい。

 近いうちにロドヴィーゴに演奏を聴いてもらおう。

 迷っていたディーノの心に決意の灯がともった。これはチャンスなのだ。そのチャンスを最大限に生かさなければ、二度目はもうないかもしれない。

 三年前、決死の思いで脱走して、自由を得た。ようやく時を刻み始めたのに、やる前から諦めたり遠慮したりするのは嫌だ。

 今すぐにでも聴いてもらいたいくらい心は意気込んでいたが、ロドヴィーゴの饒舌な話はまだ続いている。今夜は無理だろう。ロドヴィーゴに始終くっついているわけにはいかないが、明日から出来るだけ彼の近くにいて機会を窺おうと、密かに決心していた。
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