30 / 157
第一部
30 イレーネのこと
しおりを挟む
隣からすーすーという安定した音が聞こえてきた。腕を絡ませたままイレーネは眠ってしまったらしい。
腕をはずしてみようとゆっくりと動かしてみると、イレーネがうーんと不満げな寝息をつく。
どうやら彼女のほうから外してくれるのを待つしかないようだ。
諦めてディーノは動くことをやめた。
顔を動かして、イレーネを見る。枕元の薄灯りに照らされた彼女の顔を見て、奴隷時代のことを思い出した。
健康的だった顔色は食生活のせいか、青白かった。眸はいつも不安そうに揺れていた。毎日湯浴みできる環境ではなかったため、顔や腕はいつも泥だらけだったし、着ている服も元の色がわからないほどぼろで汚れていた。臭いのはお互い様で、奴隷全員がそういう状態だった。
ここで暮らすようになってから、一度も奴隷のころの話を口にしなかった。リノとロゼッタに嘘をついてから奴隷という言葉自体が禁句だった。禁句にしようと示し合せることもなく、暗黙のうちにそうなっていた。
いつのまにかイレーネは少女から娘になっていた。畑仕事をしているうちに日に焼けた肌は健康的で、眸はきらきらと輝き、表情はよく変化した。笑ったり怒ったり泣いたり、楽しそうに過ごしている。
ディーノももちろん、毎日が楽しかった。人と協力して労働をすることの喜びを知り、みんなで作ったものや獲ってきたものを食卓に並べ、大勢で食事をする楽しみを知り、そこにリュートがあっていつでも弾くことができ、聴いてくれる人がいることに。なによりかつて願ったイレーネの笑顔が日々絶えることなく見られることに。幸せと呼べる毎日が続いていることに。
今あの屋敷の人たちがどうなっているかなど、思い出すことも気にかけることもなかった。
隣でイレーネが穏やかな寝息をたてている。傷跡は幸いなことに残らなかった。心に傷は受けなかっただろうか。イレーネが過去を思い出すことがあるのか聞けるようなことではないから、それはわからなかった。
彼女の考えや想いはディーノには全く伝わってこない。ディーノが鈍感なのかもしれないし、イレーネが発していないのかもしれない。
ディーノにわかっていることは、自分の心はいつもイレーネに向いていて、イレーネも自分を嫌っているわけではないということ。兄として想ってくれているのか友達と想っているのかわからないけれど、こうやって寄り添ってくれることに胸が弾むやら恥ずかしいやら、複雑な気持ちだった。
灯りがふっと切れ、部屋が真っ暗になった。油がなくなってしまったようだ。
夜は更けていく。しかしディーノは身動きもできず、寝ることもできないでいた。灯りが一晩中続くものであったなら、ずっとイレーネの顔を見て夜を明かしたかった。消えてしまって見えていなくても、そこにイレーネがいるのだから。
腕をはずしてみようとゆっくりと動かしてみると、イレーネがうーんと不満げな寝息をつく。
どうやら彼女のほうから外してくれるのを待つしかないようだ。
諦めてディーノは動くことをやめた。
顔を動かして、イレーネを見る。枕元の薄灯りに照らされた彼女の顔を見て、奴隷時代のことを思い出した。
健康的だった顔色は食生活のせいか、青白かった。眸はいつも不安そうに揺れていた。毎日湯浴みできる環境ではなかったため、顔や腕はいつも泥だらけだったし、着ている服も元の色がわからないほどぼろで汚れていた。臭いのはお互い様で、奴隷全員がそういう状態だった。
ここで暮らすようになってから、一度も奴隷のころの話を口にしなかった。リノとロゼッタに嘘をついてから奴隷という言葉自体が禁句だった。禁句にしようと示し合せることもなく、暗黙のうちにそうなっていた。
いつのまにかイレーネは少女から娘になっていた。畑仕事をしているうちに日に焼けた肌は健康的で、眸はきらきらと輝き、表情はよく変化した。笑ったり怒ったり泣いたり、楽しそうに過ごしている。
ディーノももちろん、毎日が楽しかった。人と協力して労働をすることの喜びを知り、みんなで作ったものや獲ってきたものを食卓に並べ、大勢で食事をする楽しみを知り、そこにリュートがあっていつでも弾くことができ、聴いてくれる人がいることに。なによりかつて願ったイレーネの笑顔が日々絶えることなく見られることに。幸せと呼べる毎日が続いていることに。
今あの屋敷の人たちがどうなっているかなど、思い出すことも気にかけることもなかった。
隣でイレーネが穏やかな寝息をたてている。傷跡は幸いなことに残らなかった。心に傷は受けなかっただろうか。イレーネが過去を思い出すことがあるのか聞けるようなことではないから、それはわからなかった。
彼女の考えや想いはディーノには全く伝わってこない。ディーノが鈍感なのかもしれないし、イレーネが発していないのかもしれない。
ディーノにわかっていることは、自分の心はいつもイレーネに向いていて、イレーネも自分を嫌っているわけではないということ。兄として想ってくれているのか友達と想っているのかわからないけれど、こうやって寄り添ってくれることに胸が弾むやら恥ずかしいやら、複雑な気持ちだった。
灯りがふっと切れ、部屋が真っ暗になった。油がなくなってしまったようだ。
夜は更けていく。しかしディーノは身動きもできず、寝ることもできないでいた。灯りが一晩中続くものであったなら、ずっとイレーネの顔を見て夜を明かしたかった。消えてしまって見えていなくても、そこにイレーネがいるのだから。
16
お気に入りに追加
30
あなたにおすすめの小説


殿下はご存じないのでしょうか?
7
恋愛
「お前との婚約を破棄する!」
学園の卒業パーティーに、突如婚約破棄を言い渡されてしまった公爵令嬢、イディア・ディエンバラ。
婚約破棄の理由を聞くと、他に愛する女性ができたという。
その女性がどなたか尋ねると、第二殿下はある女性に愛の告白をする。
殿下はご存じないのでしょうか?
その方は――。
[完結]いらない子と思われていた令嬢は・・・・・・
青空一夏
恋愛
私は両親の目には映らない。それは妹が生まれてから、ずっとだ。弟が生まれてからは、もう私は存在しない。
婚約者は妹を選び、両親は当然のようにそれを喜ぶ。
「取られる方が悪いんじゃないの? 魅力がないほうが負け」
妹の言葉を肯定する家族達。
そうですか・・・・・・私は邪魔者ですよね、だから私はいなくなります。
※以前投稿していたものを引き下げ、大幅に改稿したものになります。

オタクな母娘が異世界転生しちゃいました
yanako
ファンタジー
中学生のオタクな娘とアラフィフオタク母が異世界転生しちゃいました。
二人合わせて読んだ異世界転生小説は一体何冊なのか!転生しちゃった世界は一体どの話なのか!
ごく普通の一般日本人が転生したら、どうなる?どうする?

(完結)もふもふと幼女の異世界まったり旅
あかる
ファンタジー
死ぬ予定ではなかったのに、死神さんにうっかり魂を狩られてしまった!しかも証拠隠滅の為に捨てられて…捨てる神あれば拾う神あり?
異世界に飛ばされた魂を拾ってもらい、便利なスキルも貰えました!
完結しました。ところで、何位だったのでしょう?途中覗いた時は150~160位くらいでした。応援、ありがとうございました。そのうち新しい物も出す予定です。その時はよろしくお願いします。
【商業企画進行中・取り下げ予定】さようなら、私の初恋。
ごろごろみかん。
ファンタジー
結婚式の夜、私はあなたに殺された。
彼に嫌悪されているのは知っていたけど、でも、殺されるほどだとは思っていなかった。
「誰も、お前なんか必要としていない」
最期の時に言われた言葉。彼に嫌われていても、彼にほかに愛するひとがいても、私は彼の婚約者であることをやめなかった。やめられなかった。私には責務があるから。
だけどそれも、意味のないことだったのだ。
彼に殺されて、気がつけば彼と結婚する半年前に戻っていた。
なぜ時が戻ったのかは分からない。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
あなたは私をいらないと言ったけど──私も、私の人生にあなたはいらない。
私は、私の生きたいように生きます。

【完結】婚約破棄からの絆
岡崎 剛柔
恋愛
アデリーナ=ヴァレンティーナ公爵令嬢は、王太子アルベールとの婚約者だった。
しかし、彼女には王太子の傍にはいつも可愛がる従妹のリリアがいた。
アデリーナは王太子との絆を深める一方で、従妹リリアとも強い絆を築いていた。
ある日、アデリーナは王太子から呼び出され、彼から婚約破棄を告げられる。
彼の隣にはリリアがおり、次の婚約者はリリアになると言われる。
驚きと絶望に包まれながらも、アデリーナは微笑みを絶やさずに二人の幸せを願い、従者とともに部屋を後にする。
しかし、アデリーナは勘当されるのではないか、他の貴族の後妻にされるのではないかと不安に駆られる。
婚約破棄の話は進まず、代わりに王太子から再び呼び出される。
彼との再会で、アデリーナは彼の真意を知る。
アデリーナの心は揺れ動く中、リリアが彼女を支える存在として姿を現す。
彼女の勇気と言葉に励まされ、アデリーナは再び自らの意志を取り戻し、立ち上がる覚悟を固める。
そして――。
白い結婚を言い渡されたお飾り妻ですが、ダンジョン攻略に励んでいます
時岡継美
ファンタジー
初夜に旦那様から「白い結婚」を言い渡され、お飾り妻としての生活が始まったヴィクトリアのライフワークはなんとダンジョンの攻略だった。
侯爵夫人として最低限の仕事をする傍ら、旦那様にも使用人たちにも内緒でダンジョンのラスボス戦に向けて準備を進めている。
しかし実は旦那様にも何やら秘密があるようで……?
他サイトでは「お飾り妻の趣味はダンジョン攻略です」のタイトルで公開している作品を加筆修正しております。
誤字脱字報告ありがとうございます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる