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第一部
28 台風(イレーネ目線)
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翌日は朝から雨だった。ときおり強風をともない激しく打ちつけてくる。
こんな日の畑仕事はよっぽどのことがない限りは休みだった。窓の木枠を開けることはできないため村人の姿は確認できないが、今日はきっと誰も外にでていないだろう。
鶏小屋の掃除をすませたディーノが、びしょ濡れになって戻ってきた。
待ち構えていたイレーネはすかさず布を渡す。
頭と顔を軽く拭いたディーノは、布を頭に被せたままシャツを脱いだ。
濡れたディーノの衣類を受け取り、新しい服を渡すと、イレーネは濡れた服をディーノの部屋に干しにいく。
「今日は一日雨かしら」
「止みそうな気配はなかったよ。収穫がすんでいてよかった」
「ほんとね。たまの雨も必要だけど、ここまで荒れるとちょっと怖いわね」
「風だけでもおさまってほしいところだね」
二人の心配をよそに、日が暮れるにつれ雨風はますます激しくなっていった。
こんな日のディーノの演奏は暗く哀しい曲調だった。わざと明るい曲を選んで怖さを吹き飛ばそうという発想はディーノにはないらしく、感情のまま素直に奏でる。
イレーネもいつものように編み物をしていたが、なんだか今日は気分が乗らなかった。途中で止めてしまい、ディーノの手を見つめる。
ディーノの指は男性にしては細く長い。見ているだけならまるで女性のようなきれいな指をしている。でも触ってみると大きくて固くて、やっぱり男性なんだとイレーネは実感する。
弦を押さえている左手の甲に浮き上がる二筋の血管が好きだった。十一本もの弦を四本の指で器用に押さえ、右手で弦を撫でるように弾く。
たった一台の楽器で喜怒哀楽を弾き分け、聴く者の心を揺さぶる。ときに荒々しく、ときには穏やかに。
聴く者はまるでディーノの感情がそのまま乗り移ったかのように涙し、ときに笑う。聴き終わると不思議なことに、気持ちがすっきりしている。悩んでいたことが些細なことと思えるほどに前向きになれる。しっかり遊んで、たっぷりの睡眠をとったときのように、心身ともに癒されるのだ。
それを感じているのはイレーネだけではなかった。リノもロゼッタも、演奏を聴いた村人もそのことを感じていた。ディーノの演奏にはなにか特別なものが宿っていると信じ、拝礼して感謝する者もいるほどだった。
しかしそういうことを抜きにして、イレーネはディーノのリュート演奏がとても好きだった。口下手なディーノの考えや想いをリュートが代わりに運んでくれていると思っていた。言葉よりも真っ直ぐに、言葉よりも明確に。
その想いに応える方法をイレーネは知ってはいたが、知らないふりをしていた。とても恥ずかしくて、挨拶代わりに額に口付けてもらうので精一杯だった。
イレーネは自分の胸を手で押さえた。動悸が激しくなり、呼吸がしづらくなってきていた。短い呼吸を何度も繰り返す。
ディーノの演奏が止まった。
「イレーネ! どうかした?」
ディーノの叫び声に、イレーネは一瞬呼吸を止めた。ついで大きな息を吐いた。深い呼吸を何度かした後、頷いた。大丈夫よと答えるように。
「驚いた。もう平気?」
リュートを置いて傍にやってきたディーノは、イレーネの手をとった。心配そうに見上げてくる。
「ええ。もう落ち着いたわ。私もびっくりしたけれど、大丈夫よ」
「イレーネ。疲れているんだよ。休もう」
「そうね。そうするわ」
椅子から立ちあがるイレーネに手を貸し、二人は手を繋いだまま部屋を出てイレーネとロゼッタの部屋に向かう。
イレーネが横になるまで見届けると、ディーノは部屋を出ていった。
その背を見送り、イレーネは布団の中で考えていた。
ディーノの演奏を聴いて胸が苦しくなったのは初めてのことだったし、あんな状態になった者は一人としていなかった。
ディーノの演奏とは関係なく起こってしまったのだろうか。となるとイレーネの身体に問題があることになる。流行り病に罹るまで両親に持病はなかったし、自身が医者にかかるほどの大病を患った記憶はイレーネになかった。
ディーノの演奏が原因だとするならば、彼の想いを受け取ったからだろうか。
彼の熱い想いが、イレーネの心を揺さぶったのだろうか。
彼から言葉ではもらっていないから、その想いは兄が妹に向けるものと同質のものかもしれない。しかし男女のものである可能性のほうが大きいとずっと感じていた。
イレーネは身を起こし、寝台から足を下ろした。
こんな日の畑仕事はよっぽどのことがない限りは休みだった。窓の木枠を開けることはできないため村人の姿は確認できないが、今日はきっと誰も外にでていないだろう。
鶏小屋の掃除をすませたディーノが、びしょ濡れになって戻ってきた。
待ち構えていたイレーネはすかさず布を渡す。
頭と顔を軽く拭いたディーノは、布を頭に被せたままシャツを脱いだ。
濡れたディーノの衣類を受け取り、新しい服を渡すと、イレーネは濡れた服をディーノの部屋に干しにいく。
「今日は一日雨かしら」
「止みそうな気配はなかったよ。収穫がすんでいてよかった」
「ほんとね。たまの雨も必要だけど、ここまで荒れるとちょっと怖いわね」
「風だけでもおさまってほしいところだね」
二人の心配をよそに、日が暮れるにつれ雨風はますます激しくなっていった。
こんな日のディーノの演奏は暗く哀しい曲調だった。わざと明るい曲を選んで怖さを吹き飛ばそうという発想はディーノにはないらしく、感情のまま素直に奏でる。
イレーネもいつものように編み物をしていたが、なんだか今日は気分が乗らなかった。途中で止めてしまい、ディーノの手を見つめる。
ディーノの指は男性にしては細く長い。見ているだけならまるで女性のようなきれいな指をしている。でも触ってみると大きくて固くて、やっぱり男性なんだとイレーネは実感する。
弦を押さえている左手の甲に浮き上がる二筋の血管が好きだった。十一本もの弦を四本の指で器用に押さえ、右手で弦を撫でるように弾く。
たった一台の楽器で喜怒哀楽を弾き分け、聴く者の心を揺さぶる。ときに荒々しく、ときには穏やかに。
聴く者はまるでディーノの感情がそのまま乗り移ったかのように涙し、ときに笑う。聴き終わると不思議なことに、気持ちがすっきりしている。悩んでいたことが些細なことと思えるほどに前向きになれる。しっかり遊んで、たっぷりの睡眠をとったときのように、心身ともに癒されるのだ。
それを感じているのはイレーネだけではなかった。リノもロゼッタも、演奏を聴いた村人もそのことを感じていた。ディーノの演奏にはなにか特別なものが宿っていると信じ、拝礼して感謝する者もいるほどだった。
しかしそういうことを抜きにして、イレーネはディーノのリュート演奏がとても好きだった。口下手なディーノの考えや想いをリュートが代わりに運んでくれていると思っていた。言葉よりも真っ直ぐに、言葉よりも明確に。
その想いに応える方法をイレーネは知ってはいたが、知らないふりをしていた。とても恥ずかしくて、挨拶代わりに額に口付けてもらうので精一杯だった。
イレーネは自分の胸を手で押さえた。動悸が激しくなり、呼吸がしづらくなってきていた。短い呼吸を何度も繰り返す。
ディーノの演奏が止まった。
「イレーネ! どうかした?」
ディーノの叫び声に、イレーネは一瞬呼吸を止めた。ついで大きな息を吐いた。深い呼吸を何度かした後、頷いた。大丈夫よと答えるように。
「驚いた。もう平気?」
リュートを置いて傍にやってきたディーノは、イレーネの手をとった。心配そうに見上げてくる。
「ええ。もう落ち着いたわ。私もびっくりしたけれど、大丈夫よ」
「イレーネ。疲れているんだよ。休もう」
「そうね。そうするわ」
椅子から立ちあがるイレーネに手を貸し、二人は手を繋いだまま部屋を出てイレーネとロゼッタの部屋に向かう。
イレーネが横になるまで見届けると、ディーノは部屋を出ていった。
その背を見送り、イレーネは布団の中で考えていた。
ディーノの演奏を聴いて胸が苦しくなったのは初めてのことだったし、あんな状態になった者は一人としていなかった。
ディーノの演奏とは関係なく起こってしまったのだろうか。となるとイレーネの身体に問題があることになる。流行り病に罹るまで両親に持病はなかったし、自身が医者にかかるほどの大病を患った記憶はイレーネになかった。
ディーノの演奏が原因だとするならば、彼の想いを受け取ったからだろうか。
彼の熱い想いが、イレーネの心を揺さぶったのだろうか。
彼から言葉ではもらっていないから、その想いは兄が妹に向けるものと同質のものかもしれない。しかし男女のものである可能性のほうが大きいとずっと感じていた。
イレーネは身を起こし、寝台から足を下ろした。
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