92 / 157
第二部
39 ペンダント
しおりを挟む
夫人が手に触れた物を、服の上から握り締める。
「お守りなんです。とても大切な人とある約束をしたんです。その時までオレが大事に預かっているんです」
火照っていた顔から熱が引いていく。
イレーネから預かった木彫りのペンダントに、触られてしまった。肌身離さず大切に持っていたお陰で自分は覚醒できたけれど、同時にイレーネが汚されたような気がした。
夫人はしばらくディーノを見つめていたけれど、やがて溜め息をついて立ち上がった。
ディーノがびくんと身体を強張らせる。
貴族の手を払いのけてしまったことに今更ながら気づいた。どうしようと思いながらも、逃げ出す無礼はしなかった。
「服を着ますわ。あちらを向いていて頂けますか?」
夫人の言葉が頭に浸透するまでやや時間がかかった。理解した途端、素早く身体を捻った。
さらさらと衣擦れの音がして、「結構ですわ」と声がかかった。
ゆっくりと身体を戻すと、夫人は鏡台に向かって座っていた。露出の少ない服を纏っている。結っていた髪を下ろしていく夫人と、鏡越しに視線が合う。
「羨ましいですわね」
夫人の言葉に、ディーノは首を傾げた。何のことだかわからない。無言でいると、夫人が続けた。
「その大切な方というのは、先生のいい方なのでしょう?」
「いい方というは?」
「嫌ですわ、先生。本気でおっしゃっておられるの?」
「……はい。わかりません」
「恋人なのでしょう?」
「恋人!?」
びっくりして声が上擦った。「そ、そんなんじゃない……です」
夫人がころころと笑う。
「恋人でないなら、先生の想い人かしら。可愛い方なのですか?」
「イレーネが?」
「まあ、イレーネさんとおっしゃるのね。どこかのご令嬢にそのようなお名前の方いらしたかしら?」
「イレーネは、貴族のご令嬢ではありません。町娘です。リュート職人の養子として暮らしています」
「まあ、リュート職人の。そうなのですね。先生に想われていらして、本当に羨ましいですわ」
「でも、弟子になってから会えてないんです。近頃手紙もあまり出せなくて。もうオレのことなんて忘れているかも知れません」
「ダメですわよ、先生。大切な方なのなら、きちんと言葉と態度で伝えてさしあげないと。女は不安になって疑心暗鬼に捉われてしまうのですよ。お忙しいとは思いますけれど、お手紙はきちんと出しておあげなさいな」
叱られて、ディーノは戸惑った。ついさっき自分を誘惑したところなのに。まさか見透かされたあげく怒られるとは。
「わたくしね、先生が奏でる愛の曲が大好きなのですよ。まるで十代の娘に戻ったような気がいたしますの。好きな方と結ばれて、その方の子供をたくさん産んで。自分の未来は輝いていて、楽しいことしかないと夢を見ていた頃に」
「マルティナ様にはご立派なご主人様がおられるではないですか」
おずおずとディーノが云うと、夫人は声を上げて笑った。それは嘲るような笑い方だった。
「あの人との間に愛情はありませんわ、結婚当初から。ならどうして結婚をと云いたそうなお顔をですわね」
思ったことが顔に出ていたらしい。ディーノは焦って顔を拭った。
「先生、貴族にはしがらみがたくさんあるのですよ。それは本当にたくさんの。どんなに好いた方でも、家の徳になるような方でないと婚姻の赦しなど出ません。反対に嫌いな方でも家の徳になるのなら、嫁がねばなりません。家柄や家格などに縛られずに自由に選択できる世の中になればよろしいのに」
夫人は長い髪に櫛を入れながら、どこか遠いところを見つめていた。
はっきりとは云わないが、夫人にもいろいろとあったのだろう。具体的にわからなくとも、家に縛られることつらさが、ほんの少しディーノにも理解することができた。この方もある意味奴隷なのだな、と。
「お守りなんです。とても大切な人とある約束をしたんです。その時までオレが大事に預かっているんです」
火照っていた顔から熱が引いていく。
イレーネから預かった木彫りのペンダントに、触られてしまった。肌身離さず大切に持っていたお陰で自分は覚醒できたけれど、同時にイレーネが汚されたような気がした。
夫人はしばらくディーノを見つめていたけれど、やがて溜め息をついて立ち上がった。
ディーノがびくんと身体を強張らせる。
貴族の手を払いのけてしまったことに今更ながら気づいた。どうしようと思いながらも、逃げ出す無礼はしなかった。
「服を着ますわ。あちらを向いていて頂けますか?」
夫人の言葉が頭に浸透するまでやや時間がかかった。理解した途端、素早く身体を捻った。
さらさらと衣擦れの音がして、「結構ですわ」と声がかかった。
ゆっくりと身体を戻すと、夫人は鏡台に向かって座っていた。露出の少ない服を纏っている。結っていた髪を下ろしていく夫人と、鏡越しに視線が合う。
「羨ましいですわね」
夫人の言葉に、ディーノは首を傾げた。何のことだかわからない。無言でいると、夫人が続けた。
「その大切な方というのは、先生のいい方なのでしょう?」
「いい方というは?」
「嫌ですわ、先生。本気でおっしゃっておられるの?」
「……はい。わかりません」
「恋人なのでしょう?」
「恋人!?」
びっくりして声が上擦った。「そ、そんなんじゃない……です」
夫人がころころと笑う。
「恋人でないなら、先生の想い人かしら。可愛い方なのですか?」
「イレーネが?」
「まあ、イレーネさんとおっしゃるのね。どこかのご令嬢にそのようなお名前の方いらしたかしら?」
「イレーネは、貴族のご令嬢ではありません。町娘です。リュート職人の養子として暮らしています」
「まあ、リュート職人の。そうなのですね。先生に想われていらして、本当に羨ましいですわ」
「でも、弟子になってから会えてないんです。近頃手紙もあまり出せなくて。もうオレのことなんて忘れているかも知れません」
「ダメですわよ、先生。大切な方なのなら、きちんと言葉と態度で伝えてさしあげないと。女は不安になって疑心暗鬼に捉われてしまうのですよ。お忙しいとは思いますけれど、お手紙はきちんと出しておあげなさいな」
叱られて、ディーノは戸惑った。ついさっき自分を誘惑したところなのに。まさか見透かされたあげく怒られるとは。
「わたくしね、先生が奏でる愛の曲が大好きなのですよ。まるで十代の娘に戻ったような気がいたしますの。好きな方と結ばれて、その方の子供をたくさん産んで。自分の未来は輝いていて、楽しいことしかないと夢を見ていた頃に」
「マルティナ様にはご立派なご主人様がおられるではないですか」
おずおずとディーノが云うと、夫人は声を上げて笑った。それは嘲るような笑い方だった。
「あの人との間に愛情はありませんわ、結婚当初から。ならどうして結婚をと云いたそうなお顔をですわね」
思ったことが顔に出ていたらしい。ディーノは焦って顔を拭った。
「先生、貴族にはしがらみがたくさんあるのですよ。それは本当にたくさんの。どんなに好いた方でも、家の徳になるような方でないと婚姻の赦しなど出ません。反対に嫌いな方でも家の徳になるのなら、嫁がねばなりません。家柄や家格などに縛られずに自由に選択できる世の中になればよろしいのに」
夫人は長い髪に櫛を入れながら、どこか遠いところを見つめていた。
はっきりとは云わないが、夫人にもいろいろとあったのだろう。具体的にわからなくとも、家に縛られることつらさが、ほんの少しディーノにも理解することができた。この方もある意味奴隷なのだな、と。
10
お気に入りに追加
30
あなたにおすすめの小説
「不細工なお前とは婚約破棄したい」と言ってみたら、秒で破棄されました。
桜乃
ファンタジー
ロイ王子の婚約者は、不細工と言われているテレーゼ・ハイウォール公爵令嬢。彼女からの愛を確かめたくて、思ってもいない事を言ってしまう。
「不細工なお前とは婚約破棄したい」
この一言が重要な言葉だなんて思いもよらずに。
※約4000文字のショートショートです。11/21に完結いたします。
※1回の投稿文字数は少な目です。
※前半と後半はストーリーの雰囲気が変わります。
表紙は「かんたん表紙メーカー2」にて作成いたしました。
❇❇❇❇❇❇❇❇❇
2024年10月追記
お読みいただき、ありがとうございます。
こちらの作品は完結しておりますが、10月20日より「番外編 バストリー・アルマンの事情」を追加投稿致しますので、一旦、表記が連載中になります。ご了承ください。
1ページの文字数は少な目です。
約4500文字程度の番外編です。
バストリー・アルマンって誰やねん……という読者様のお声が聞こえてきそう……(;´∀`)
ロイ王子の側近です。(←言っちゃう作者 笑)
※番外編投稿後は完結表記に致します。再び、番外編等を投稿する際には連載表記となりますこと、ご容赦いただけますと幸いです。

巻き込まれて気づけば異世界 ~その配達員器用貧乏にて~
細波
ファンタジー
(3月27日変更)
仕事中に異世界転移へ巻き込まれたオッサン。神様からチートもらってやりたいように生きる…
と思ってたけど、人から頼まれる。神から頼まれる。自分から首をつっこむ!
「前の世界より黒くないし、社畜感無いから余裕っすね」
周りの人も神も黒い!
「人なんてそんなもんでしょ? 俺だって黒い方だと思うし」
そんな元オッサンは今日も行く!

公爵家三男に転生しましたが・・・
キルア犬
ファンタジー
前世は27歳の社会人でそこそこ恋愛なども経験済みの水嶋海が主人公ですが…
色々と本当に色々とありまして・・・
転生しました。
前世は女性でしたが異世界では男!
記憶持ち葛藤をご覧下さい。
作者は初投稿で理系人間ですので誤字脱字には寛容頂きたいとお願いします。

召喚勇者の餌として転生させられました
猫野美羽
ファンタジー
学生時代最後のゴールデンウィークを楽しむため、伊達冬馬(21)は高校生の従弟たち三人とキャンプ場へ向かっていた。
途中の山道で唐突に眩い光に包まれ、運転していた車が制御を失い、そのまま崖の下に転落して、冬馬は死んでしまう。
だが、魂のみの存在となった冬馬は異世界に転生させられることに。
「俺が死んだのはアイツらを勇者召喚した結果の巻き添えだった?」
しかも、冬馬の死を知った従弟や従妹たちが立腹し、勇者として働くことを拒否しているらしい。
「勇者を働かせるための餌として、俺を異世界に転生させるだと? ふざけんな!」
異世界の事情を聞き出して、あまりの不穏さと不便な生活状況を知り、ごねる冬馬に異世界の創造神は様々なスキルや特典を与えてくれた。
日本と同程度は難しいが、努力すれば快適に暮らせるだけのスキルを貰う。
「召喚魔法? いや、これネット通販だろ」
発動条件の等価交換は、大森林の素材をポイントに換えて異世界から物を召喚するーーいや、だからコレはネット通販!
日本製の便利な品物を通販で購入するため、冬馬はせっせと採取や狩猟に励む。
便利な魔法やスキルを駆使して、大森林と呼ばれる魔境暮らしを送ることになった冬馬がゆるいサバイバルありのスローライフを楽しむ、異世界転生ファンタジー。
※カクヨムにも掲載中です

子爵家の長男ですが魔法適性が皆無だったので孤児院に預けられました。変化魔法があれば魔法適性なんて無くても無問題!
八神
ファンタジー
主人公『リデック・ゼルハイト』は子爵家の長男として産まれたが、検査によって『魔法適性が一切無い』と判明したため父親である当主の判断で孤児院に預けられた。
『魔法適性』とは読んで字のごとく魔法を扱う適性である。
魔力を持つ人間には差はあれど基本的にみんな生まれつき様々な属性の魔法適性が備わっている。
しかし例外というのはどの世界にも存在し、魔力を持つ人間の中にもごく稀に魔法適性が全くない状態で産まれてくる人も…
そんな主人公、リデックが5歳になったある日…ふと前世の記憶を思い出し、魔法適性に関係の無い変化魔法に目をつける。
しかしその魔法は『魔物に変身する』というもので人々からはあまり好意的に思われていない魔法だった。
…はたして主人公の運命やいかに…

外れスキルと馬鹿にされた【経験値固定】は実はチートスキルだった件
霜月雹花
ファンタジー
15歳を迎えた者は神よりスキルを授かる。
どんなスキルを得られたのか神殿で確認した少年、アルフレッドは【経験値固定】という訳の分からないスキルだけを授かり、無能として扱われた。
そして一年後、一つ下の妹が才能がある者だと分かるとアルフレッドは家から追放処分となった。
しかし、一年という歳月があったおかげで覚悟が決まっていたアルフレッドは動揺する事なく、今後の生活基盤として冒険者になろうと考えていた。
「スキルが一つですか? それも攻撃系でも魔法系のスキルでもないスキル……すみませんが、それでは冒険者として務まらないと思うので登録は出来ません」
だがそこで待っていたのは、無能なアルフレッドは冒険者にすらなれないという現実だった。
受付との会話を聞いていた冒険者達から逃げるようにギルドを出ていき、これからどうしようと悩んでいると目の前で苦しんでいる老人が目に入った。
アルフレッドとその老人、この出会いにより無能な少年として終わるはずだったアルフレッドの人生は大きく変わる事となった。
2024/10/05 HOT男性向けランキング一位。

「宮廷魔術師の娘の癖に無能すぎる」と婚約破棄され親には出来損ないと言われたが、厄介払いと嫁に出された家はいいところだった
今川幸乃
ファンタジー
魔術の名門オールストン公爵家に生まれたレイラは、武門の名門と呼ばれたオーガスト公爵家の跡取りブランドと婚約させられた。
しかしレイラは魔法をうまく使うことも出来ず、ブランドに一方的に婚約破棄されてしまう。
それを聞いた宮廷魔術師の父はブランドではなくレイラに「出来損ないめ」と激怒し、まるで厄介払いのようにレイノルズ侯爵家という微妙な家に嫁に出されてしまう。夫のロルスは魔術には何の興味もなく、最初は仲も微妙だった。
一方ブランドはベラという魔法がうまい令嬢と婚約し、やはり婚約破棄して良かったと思うのだった。
しかしレイラが魔法を全然使えないのはオールストン家で毎日飲まされていた魔力増加薬が体質に合わず、魔力が暴走してしまうせいだった。
加えて毎日毎晩ずっと勉強や訓練をさせられて常に体調が悪かったことも原因だった。
レイノルズ家でのんびり過ごしていたレイラはやがて自分の真の力に気づいていく。
[完結]いらない子と思われていた令嬢は・・・・・・
青空一夏
恋愛
私は両親の目には映らない。それは妹が生まれてから、ずっとだ。弟が生まれてからは、もう私は存在しない。
婚約者は妹を選び、両親は当然のようにそれを喜ぶ。
「取られる方が悪いんじゃないの? 魅力がないほうが負け」
妹の言葉を肯定する家族達。
そうですか・・・・・・私は邪魔者ですよね、だから私はいなくなります。
※以前投稿していたものを引き下げ、大幅に改稿したものになります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる