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第二部
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今日は六名の婦人にリュートを教示してから食事を共にし、三十人の前で演奏会、というほぼ一日伯爵の屋敷で過ごすことになっていた。
流し目を送ってくる苦手なご夫人であったとしても、仕事とお客を選べる立場にはない。
バルドリーニ伯爵夫人だけはディーノを見るのが目的でレッスンは二の次らしく、絡みついてくる彼女の視線を感じつつも平静を装い、しかし他のリュートや音楽が好きで熱心に練習している婦人たちと同じように接した。彼女の主催なのだから無視するわけにはいかない。けれど特別扱いをするほど接したくはなかった。
短い練習用の曲を全員で演奏し終えてレッスンの時間を終えた。昼食の支度は整っていたが、ディーノは少しの間部屋で休憩を取らせてもらった。
演奏会よりも貴族たちにリュートを教える仕事の方が多かったが、ディーノは教師の仕事を不得手としていた。宴に呼んでもらえるようになるための営業活動のようなものだとピエールが仕事を取ってくるのだが、人に教えることは難しい。それが大好きなリュートであっても。
熱心度によって個人のレベルは相当違う。同じようには教えられないから、一つの部屋にいるのに、個人レッスンをしているようなものだ。全体を見ながら、個人も見て。終わるとぐったりと疲れてしまう。おまけに今日は病み上がり。
控え室として借りている部屋には、一人用の寝台が備えられている。仰向けに寝転がり、しばし瞼を瞑る。
教えている間は嫌なことは忘れられたが、一時的なもので、すぐに不安が襲ってくる。
うっかり挑発に乗ってしまい、イレーネが生きていることが男爵にわかってしまった。男爵はイレーネを見つけ出そうとするだろうか。手紙を書いて報せたほうがいいのだろか。いたずらに不安を煽ることはしたくなかったが、備えるのも必要ではないのか。いっそのこと集落に帰ってしまおうか。
イレーネの笑顔を思い出す。ロゼッタからもらった服を喜んで身体に当てている姿。集落の子供たちと一緒にはしゃいでいる姿。雪が積もる寒い日も、汗が吹き出る暑い日も、つらい顔など全くせず家事をこなし、畑にも出て。つらい過去などなかったかのようなその笑顔を思い出すだけで、心がほっと温まる。
今何をしてるかな。ずいぶん大人になったんだろうな。
思い出さない日などない。いつもイレーネを想っている。けれど、最近手紙を書いていなかった。郵便のシステムが行き届いていない異国にいたせいもあるが、多忙のせいでもあった。
演奏会、音楽教師、移動が繰り返される中、練習もし、睡眠不足になる日々も多い。いくら若くても、充分な睡眠が取れなくては疲れが溜まる。ついうとうとし、眠ってしまうこともあり――
はっと気づいて慌てて身を起こす。
眠ってしまったのか、短い時間うとうとしただけなのか定かではなかったが、姿見で着衣の乱れを簡単に確認すると、慌てて部屋を出た。
婦人たちが昼食をとっている部屋に着くと、彼女たちはすでに食事を始めていた。前菜はすでに終わっており、スープが運ばれてきたところだった。
「あら、先生。ゆっくりでしたわね。こちらへどうぞ」
「申し訳ありません。うとうとしてしまいました」
伯爵夫人が差し出した席につく間、くすくすと抑えた笑い声が広がっていった。婦人たちが口元を押さえて、朗らかに笑っている。全員の目線はディーノに向けられていた。
ディーノが席につくと、
「先生。寝癖が」
伯爵夫人が自分の右側に手をやった。
瞬時に気づいたディーノは慌てて手をやって髪の毛を撫でつけた。
「先生、お忙しくしていらっしゃるから」
別の婦人に笑いかけられ、「お蔭様で」と呟き笑顔を浮かべた。
ディーノの前にも前菜が並べられ、止まっていた食事が再開された。
流し目を送ってくる苦手なご夫人であったとしても、仕事とお客を選べる立場にはない。
バルドリーニ伯爵夫人だけはディーノを見るのが目的でレッスンは二の次らしく、絡みついてくる彼女の視線を感じつつも平静を装い、しかし他のリュートや音楽が好きで熱心に練習している婦人たちと同じように接した。彼女の主催なのだから無視するわけにはいかない。けれど特別扱いをするほど接したくはなかった。
短い練習用の曲を全員で演奏し終えてレッスンの時間を終えた。昼食の支度は整っていたが、ディーノは少しの間部屋で休憩を取らせてもらった。
演奏会よりも貴族たちにリュートを教える仕事の方が多かったが、ディーノは教師の仕事を不得手としていた。宴に呼んでもらえるようになるための営業活動のようなものだとピエールが仕事を取ってくるのだが、人に教えることは難しい。それが大好きなリュートであっても。
熱心度によって個人のレベルは相当違う。同じようには教えられないから、一つの部屋にいるのに、個人レッスンをしているようなものだ。全体を見ながら、個人も見て。終わるとぐったりと疲れてしまう。おまけに今日は病み上がり。
控え室として借りている部屋には、一人用の寝台が備えられている。仰向けに寝転がり、しばし瞼を瞑る。
教えている間は嫌なことは忘れられたが、一時的なもので、すぐに不安が襲ってくる。
うっかり挑発に乗ってしまい、イレーネが生きていることが男爵にわかってしまった。男爵はイレーネを見つけ出そうとするだろうか。手紙を書いて報せたほうがいいのだろか。いたずらに不安を煽ることはしたくなかったが、備えるのも必要ではないのか。いっそのこと集落に帰ってしまおうか。
イレーネの笑顔を思い出す。ロゼッタからもらった服を喜んで身体に当てている姿。集落の子供たちと一緒にはしゃいでいる姿。雪が積もる寒い日も、汗が吹き出る暑い日も、つらい顔など全くせず家事をこなし、畑にも出て。つらい過去などなかったかのようなその笑顔を思い出すだけで、心がほっと温まる。
今何をしてるかな。ずいぶん大人になったんだろうな。
思い出さない日などない。いつもイレーネを想っている。けれど、最近手紙を書いていなかった。郵便のシステムが行き届いていない異国にいたせいもあるが、多忙のせいでもあった。
演奏会、音楽教師、移動が繰り返される中、練習もし、睡眠不足になる日々も多い。いくら若くても、充分な睡眠が取れなくては疲れが溜まる。ついうとうとし、眠ってしまうこともあり――
はっと気づいて慌てて身を起こす。
眠ってしまったのか、短い時間うとうとしただけなのか定かではなかったが、姿見で着衣の乱れを簡単に確認すると、慌てて部屋を出た。
婦人たちが昼食をとっている部屋に着くと、彼女たちはすでに食事を始めていた。前菜はすでに終わっており、スープが運ばれてきたところだった。
「あら、先生。ゆっくりでしたわね。こちらへどうぞ」
「申し訳ありません。うとうとしてしまいました」
伯爵夫人が差し出した席につく間、くすくすと抑えた笑い声が広がっていった。婦人たちが口元を押さえて、朗らかに笑っている。全員の目線はディーノに向けられていた。
ディーノが席につくと、
「先生。寝癖が」
伯爵夫人が自分の右側に手をやった。
瞬時に気づいたディーノは慌てて手をやって髪の毛を撫でつけた。
「先生、お忙しくしていらっしゃるから」
別の婦人に笑いかけられ、「お蔭様で」と呟き笑顔を浮かべた。
ディーノの前にも前菜が並べられ、止まっていた食事が再開された。
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