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第二部
15 ソロでの活動
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翌日、部屋での朝食後、中庭に面したガラス窓から向かいの建物を見下ろしていると、慌ただしそうな雰囲気が見えた。屋敷で働いている使用人たちが集まってきているようだ。帰ってきた主人を出迎えるために集まっているのだろう。
ふと昔のことが頭によぎる。良い思い出などではない。誰にも言いたくない、思い出すことなどしたくない嫌なこと。何か一つを思い出すとそれをきっかけにして嫌なことが次々と蘇る。
たぶんこういう環境のせいだろう。ここはあの屋敷とは似ても似つかない豪華な屋敷だし、良いご主人のようなのに、奴隷として自由がなかった頃のことを思い出してしまう。消し去りたい記憶。
ロドヴィーゴにもピエールにも、当然ながら話してはいない。二人とも過去のことは訊ねてこないし、ディーノとしても話したくなかった。
一人前のリュート奏者の道に、やっと手が届きそうなのだ。過去を知ったからとてなかったことにするような二人ではないと思うが、知られたくない事でもある。
ディーノは嫌な思い出を振り払うように頭を振り、窓から離れた。
「静かですよね」
座りながらぽつりと呟く。
ここは物音がほとんどしない。生活音はないし、廊下を行き交う音も聞こえない。
さすがに練習していることだけは音が漏れてくるからわかるのだが、他の音楽家たちが今どうしているのか、いるのかいないのかさえわからない。
「造りが違うからだろうね」
卓に広げた紙で日程を確認しているピエールが、顔も上げずに答えた。なんだか上の空っぽい。
ロドヴィーゴはまだ食事中だ。寝起きであろうと夜遅くであろうと、師匠の胃袋は時間を全く気にしない。いつでも何でも食べられる。ディーノいわく魔法の胃袋だ。
財布の関係上、朝から分厚い肉、ということはさすがにしないが、師匠なら食べられるだろうとディーノは思っている。ディーノの胃袋では肉の欠片も無理だ。
師匠は自分の分とディーノが食べ残したパンやサラダを平らげ、ミルクを飲み干す。まだ物足りなさそうな顔をして口を拭っている。驚きの胃袋だ。
口元を拭った師匠が、ピエールに話しかけた。
「いつ頃発つ予定かな」
「遅くても三日後には発たないと、道程に少々無理をしないといけなくなりそうです」
「いつまでも世話になっているわけにもいかないし、仕事は終わったわけだから、明日か明後日には発つべきかな。マウロには何と云ってあるんだ」
「新年が明けたニ・三日後と伝えてあります。決定次第彼が泊まっている宿に行って来ますが」
「一度公爵に願い出て、それからカリエール公爵にお伝えしよう」
「お願い致します。それから、先生。ディーノ君の今後ですが」
「うん?」
「昨日の演奏、評価はかなり良かったですし、今後、先生と共にステージに立つ方向でよろしいでしょうか?」
話題が自身のことになり、ディーノは身を乗りだした。ようやく社交界デビューを果たしたのだ。これからどんどん人前で演奏をしていきたいに決まっている。
「私と一緒でなくても、ソロでやっていけだろうから、話があれば引き受けてみたらどうだ」
師匠の言葉にディーノの胸が弾んだ。
「そうですね。では、先生の日程と合うように営業活動をしてみましょう」
「オレ、どこででも演奏します」
勢い込んでディーノが言うと、師匠とピエールはきょとんとした後、笑った。
「ディーノ、どこででもって。私たちは音楽家なんだ。職業として楽器演奏をしているんだから、場所は選ばないとそれは仕事ではない。軽んじられてしまうよ」
「あ……すみません。オレ、いろんな人に聴いてもらいたいって思ったから」
「心配しなくても、おまえさんならすぐに貴族たちに気に入られるさ。公爵からも褒められただろう。あの方々は口先だけで褒める人たちじゃない。興味がなければ声なんてかけないよ。今すぐには無理でもこれから徐々に仕事に繋がっていくよ」
師匠がにこりと微笑んで頷いた。
ふいに扉がノックされた。ピエールが返事をすると、入ってきたのは最初にここを訪れたときに案内してくれた執事長だった。
「失礼致します。主人より今晩のお食事を御招待に参りました。ご予定はいかがでしょうか」
「大丈夫ですが」
ロドヴィーゴとピエールがちらりと視線を交わした。今夜は何の予定もなかったから、このまま誘いがなければ部屋での食事となっていただろう。
「他の音楽家の方々もお誘いすることになっております。皆様でお越しくださいませ」
「三人ともですか。わかりました。ありがとうございます」
ピエールは立ち上がって深々と頭を下げた。
ディーノもすっと立ち上がった。
「どうかされましたか?」
表情をまったく崩さない執事長に尋ねられ、ディーノはあわあわとうろたえた。
「他の音楽家って、その……ヴァイオリンの人とかチェンバロの人ってことですよね」
「もちろんでございます」
「お弟子さんたちもってことで」
「はい」
「あ……そうですか。何でもありません。すみません」
執事長はそれ以上の追及をしてこなかった。
「では夕刻お呼びに参ります。失礼致します」
慇懃に頭を下げ、執事長は下がった。
食事会の席に他の演奏者たちが来る。しかも弟子たちまで。
ディーノは不安を覚えた。
彼らが怖かった。できれば顔を合わせたくない。
しかし断るわけにもいかない。そんな失礼なことをできるわけがない。
「ディーノ?」
師匠に声をかけられたが、ディーノは黙って部屋をでた。
ふと昔のことが頭によぎる。良い思い出などではない。誰にも言いたくない、思い出すことなどしたくない嫌なこと。何か一つを思い出すとそれをきっかけにして嫌なことが次々と蘇る。
たぶんこういう環境のせいだろう。ここはあの屋敷とは似ても似つかない豪華な屋敷だし、良いご主人のようなのに、奴隷として自由がなかった頃のことを思い出してしまう。消し去りたい記憶。
ロドヴィーゴにもピエールにも、当然ながら話してはいない。二人とも過去のことは訊ねてこないし、ディーノとしても話したくなかった。
一人前のリュート奏者の道に、やっと手が届きそうなのだ。過去を知ったからとてなかったことにするような二人ではないと思うが、知られたくない事でもある。
ディーノは嫌な思い出を振り払うように頭を振り、窓から離れた。
「静かですよね」
座りながらぽつりと呟く。
ここは物音がほとんどしない。生活音はないし、廊下を行き交う音も聞こえない。
さすがに練習していることだけは音が漏れてくるからわかるのだが、他の音楽家たちが今どうしているのか、いるのかいないのかさえわからない。
「造りが違うからだろうね」
卓に広げた紙で日程を確認しているピエールが、顔も上げずに答えた。なんだか上の空っぽい。
ロドヴィーゴはまだ食事中だ。寝起きであろうと夜遅くであろうと、師匠の胃袋は時間を全く気にしない。いつでも何でも食べられる。ディーノいわく魔法の胃袋だ。
財布の関係上、朝から分厚い肉、ということはさすがにしないが、師匠なら食べられるだろうとディーノは思っている。ディーノの胃袋では肉の欠片も無理だ。
師匠は自分の分とディーノが食べ残したパンやサラダを平らげ、ミルクを飲み干す。まだ物足りなさそうな顔をして口を拭っている。驚きの胃袋だ。
口元を拭った師匠が、ピエールに話しかけた。
「いつ頃発つ予定かな」
「遅くても三日後には発たないと、道程に少々無理をしないといけなくなりそうです」
「いつまでも世話になっているわけにもいかないし、仕事は終わったわけだから、明日か明後日には発つべきかな。マウロには何と云ってあるんだ」
「新年が明けたニ・三日後と伝えてあります。決定次第彼が泊まっている宿に行って来ますが」
「一度公爵に願い出て、それからカリエール公爵にお伝えしよう」
「お願い致します。それから、先生。ディーノ君の今後ですが」
「うん?」
「昨日の演奏、評価はかなり良かったですし、今後、先生と共にステージに立つ方向でよろしいでしょうか?」
話題が自身のことになり、ディーノは身を乗りだした。ようやく社交界デビューを果たしたのだ。これからどんどん人前で演奏をしていきたいに決まっている。
「私と一緒でなくても、ソロでやっていけだろうから、話があれば引き受けてみたらどうだ」
師匠の言葉にディーノの胸が弾んだ。
「そうですね。では、先生の日程と合うように営業活動をしてみましょう」
「オレ、どこででも演奏します」
勢い込んでディーノが言うと、師匠とピエールはきょとんとした後、笑った。
「ディーノ、どこででもって。私たちは音楽家なんだ。職業として楽器演奏をしているんだから、場所は選ばないとそれは仕事ではない。軽んじられてしまうよ」
「あ……すみません。オレ、いろんな人に聴いてもらいたいって思ったから」
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「他の音楽家の方々もお誘いすることになっております。皆様でお越しくださいませ」
「三人ともですか。わかりました。ありがとうございます」
ピエールは立ち上がって深々と頭を下げた。
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「どうかされましたか?」
表情をまったく崩さない執事長に尋ねられ、ディーノはあわあわとうろたえた。
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「もちろんでございます」
「お弟子さんたちもってことで」
「はい」
「あ……そうですか。何でもありません。すみません」
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彼らが怖かった。できれば顔を合わせたくない。
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