66 / 157
第二部
13 余韻
しおりを挟む
白々と夜が明け始めていた。
新年を迎えたこの日の空模様は、雪は止み、太陽がそろそろと顔を覗かせ始めている。快晴とはいかないまでも、穏やかな一日になりそうな気配があった。
寝台で横になったまま、ディーノは空を見つめていた。
隣室の師匠の鼾と、隣のピエールの寝息を背景に聴きながら。
部屋に戻ったのは昨夜、というより、今朝方のことだ。宴は日が変わるまでお開きにならず、ようやく解放されたのは数時間前のことだ。
早々に横になって、二人はすぐに寝ついたようだが、ディーノは一睡もできず、ずっと空を見ていた。
空を見ながら、頭では別のことを考えていた。
ついに果たした社交界デビュー。単独ではなかったが、一歩を踏み出せたことにディーノは興奮した。評価も良かった。いや、良かったなんて冷静に語れるものではなかった。
演奏が終わった途端、地を揺るがすほどの大きな拍手と歓声に包まれた。
数人が立ち上がると他の者も立ち上がり、波のように広がっていく。ステージに近いところからその現象は起こり、ステージ上からの眺めはディーノに驚きと、感動を与えた。
平然と頭を下げる師匠に倣い、ディーノも四方にお辞儀を繰り返しながら、ホール全体を見渡した。
満足そうな表情で、華美な服に身を包む貴族たちからの熱い賞賛。
師匠の演奏が貴族たちの心を惹きこみ、師弟の演奏でさらなる評価を得た。師匠が受けた賞賛よりも大きいものを。
貴族たちの期待に大きく応えられたのだと、弾き終えた直後にディーノは実感した。
演奏中は周囲のことなど気に掛けていなかった。緊張のあまり余裕がなかったのではなく、演奏にのめりこんでしまうという、悪い癖がでてしまったのだ。そのことに気づいたのは寝台に横になってから。師匠の指摘を思い出し、反省する冷静さを取り戻してからだった。
『聴く者の動向に左右されない演奏ができるのは長所であると同時に、短所でもある。人々が求めている演奏ができなければ、演奏家として高い評価は得られない』
師匠はディーノの癖を即座に見抜いた。リュートが好きで、好き過ぎた結果、自らの演奏に陶酔してしまうという欠点。ある程度の陶酔は、聴衆を惹きこむためには必要である。例えポーズであっても。
しかし行き過ぎは逆に出ることもある。独り善がりの演奏には、引いてしまう聴衆もいるだろう。
『プロの演奏家とは聴衆を満足させてこそプロフェッショナルと呼べるのであって、演奏家の満足だけで終わってしまってはただの趣味だ。しかしポーズはいずれ聴衆に見抜かれる。自分の演奏世界に引き込む才能を持っているのなら、それを活かしながら、第三者的な目線で自身の演奏を冷静に判断するようになりなさい』とも師匠は付け加えた。
それ以来、気をつけて周囲も見るように練習を重ねてきたのだが、昨夜はできなかった。師匠の音すらきちんと聴いていたかどうか定かでない。おそらく師匠がディーノの演奏に合わせてくれたのだろう。そのお陰で得た評価なのだと、興奮の傍ら、冷静に考えた。
眠れないのは興奮のせいなのか、他のことも思い出して考えてしまったからなのか。
楽屋での出演者たちの態度や視線が気になった。
ステージを降りてから貴族たちに取り囲まれ、口々に賞賛の言葉をかけられた。師匠とも引き離され、どうしたらよいのかわからず困惑しつつも、嬉しかった。ピエールの姿を見つけて、なんとか出口に辿りついたものの、貴族たちは次々やってくる。
楽屋に戻ってようやく解放された。興奮からやや落ち着いてみると、今度は他の出演者たちの視線が気になった。楽屋までリュートの音が届いていたのかどうかはディーノにはわからないが、その音量の小ささゆえ、まともに届いてはいなかっただろうと思った。
ヴァイオリンやチェンバロの弟子たちは、ディーノをちらちらと見、こそこそ話している。なんとなく尻の納まりが悪かったが、他に行くところはなく、宴が終わってロドヴィーゴが戻るまで楽屋にいるしかなかった。
彼らの視線からは良い感情を読み取ることはできなかった。貴族たちの眸からは宝物でも見つけたかのような輝きを感じたが、楽屋の彼らの視線はディーノに宝物を横取りされておもしろくない、といった負の感情ばかりだった。
それはいわゆる『嫉妬』という感情だった。
師匠同士の演奏だけであればここまで対立されることはなかっただろう。しかし見た目にも若くて冴えない風貌のディーノが、自分たちの師匠よりもはるかに良い評価を得た。誰かが演奏風景を見て、悪い噂を立てたのだろうか。それとも彼らにはディーノの演奏が伝わらなかったのだろうか。
チェンバロの弟子の彼も、ディーノと目を合わせようとしなかった。ちらりと視線を送ってくるものの、顔を向けると気まずそうに逸らしてしまう。妙な雰囲気のせいで、せっかくの興奮に水を差されたが、ピエールに呼ばれてその場を離れることができたときには安堵した。
人間は矛盾した生き物だ。助け合い庇い労わりながらも、一方で憎悪や嫉妬を向けることがある。
これまでの体験から人の黒いところは嫌というほど見てきた。わかっていたつもりでいた。けれど、ああいう形でぶつけられると、戸惑い、落ち込む。同じ音楽家なのに、敵愾心を剥き出しにして、人が得た評価を妬む。
ライバル心を燃やされるのなら嬉しいことだ。自分の演奏が認められたということなのだから。しかし嫉妬は認めてもらえていない。とてもつらかった。彼らの評価が欲しくて演奏をしているわけではないけれど、やはり認めてもらいたい。お互いを認め合って技術を向上させていければいいのになと思う。
ディーノの胸の内は、複雑だった。
ステージに立った興奮と高評価を得られた嬉しさ。反面、音楽家同士は仲間でなく敵と認識された悲しみ。全ての人がそうではないと思いたいが、今はまだそう考えられる心の余裕はなかった。
新年を迎えたこの日の空模様は、雪は止み、太陽がそろそろと顔を覗かせ始めている。快晴とはいかないまでも、穏やかな一日になりそうな気配があった。
寝台で横になったまま、ディーノは空を見つめていた。
隣室の師匠の鼾と、隣のピエールの寝息を背景に聴きながら。
部屋に戻ったのは昨夜、というより、今朝方のことだ。宴は日が変わるまでお開きにならず、ようやく解放されたのは数時間前のことだ。
早々に横になって、二人はすぐに寝ついたようだが、ディーノは一睡もできず、ずっと空を見ていた。
空を見ながら、頭では別のことを考えていた。
ついに果たした社交界デビュー。単独ではなかったが、一歩を踏み出せたことにディーノは興奮した。評価も良かった。いや、良かったなんて冷静に語れるものではなかった。
演奏が終わった途端、地を揺るがすほどの大きな拍手と歓声に包まれた。
数人が立ち上がると他の者も立ち上がり、波のように広がっていく。ステージに近いところからその現象は起こり、ステージ上からの眺めはディーノに驚きと、感動を与えた。
平然と頭を下げる師匠に倣い、ディーノも四方にお辞儀を繰り返しながら、ホール全体を見渡した。
満足そうな表情で、華美な服に身を包む貴族たちからの熱い賞賛。
師匠の演奏が貴族たちの心を惹きこみ、師弟の演奏でさらなる評価を得た。師匠が受けた賞賛よりも大きいものを。
貴族たちの期待に大きく応えられたのだと、弾き終えた直後にディーノは実感した。
演奏中は周囲のことなど気に掛けていなかった。緊張のあまり余裕がなかったのではなく、演奏にのめりこんでしまうという、悪い癖がでてしまったのだ。そのことに気づいたのは寝台に横になってから。師匠の指摘を思い出し、反省する冷静さを取り戻してからだった。
『聴く者の動向に左右されない演奏ができるのは長所であると同時に、短所でもある。人々が求めている演奏ができなければ、演奏家として高い評価は得られない』
師匠はディーノの癖を即座に見抜いた。リュートが好きで、好き過ぎた結果、自らの演奏に陶酔してしまうという欠点。ある程度の陶酔は、聴衆を惹きこむためには必要である。例えポーズであっても。
しかし行き過ぎは逆に出ることもある。独り善がりの演奏には、引いてしまう聴衆もいるだろう。
『プロの演奏家とは聴衆を満足させてこそプロフェッショナルと呼べるのであって、演奏家の満足だけで終わってしまってはただの趣味だ。しかしポーズはいずれ聴衆に見抜かれる。自分の演奏世界に引き込む才能を持っているのなら、それを活かしながら、第三者的な目線で自身の演奏を冷静に判断するようになりなさい』とも師匠は付け加えた。
それ以来、気をつけて周囲も見るように練習を重ねてきたのだが、昨夜はできなかった。師匠の音すらきちんと聴いていたかどうか定かでない。おそらく師匠がディーノの演奏に合わせてくれたのだろう。そのお陰で得た評価なのだと、興奮の傍ら、冷静に考えた。
眠れないのは興奮のせいなのか、他のことも思い出して考えてしまったからなのか。
楽屋での出演者たちの態度や視線が気になった。
ステージを降りてから貴族たちに取り囲まれ、口々に賞賛の言葉をかけられた。師匠とも引き離され、どうしたらよいのかわからず困惑しつつも、嬉しかった。ピエールの姿を見つけて、なんとか出口に辿りついたものの、貴族たちは次々やってくる。
楽屋に戻ってようやく解放された。興奮からやや落ち着いてみると、今度は他の出演者たちの視線が気になった。楽屋までリュートの音が届いていたのかどうかはディーノにはわからないが、その音量の小ささゆえ、まともに届いてはいなかっただろうと思った。
ヴァイオリンやチェンバロの弟子たちは、ディーノをちらちらと見、こそこそ話している。なんとなく尻の納まりが悪かったが、他に行くところはなく、宴が終わってロドヴィーゴが戻るまで楽屋にいるしかなかった。
彼らの視線からは良い感情を読み取ることはできなかった。貴族たちの眸からは宝物でも見つけたかのような輝きを感じたが、楽屋の彼らの視線はディーノに宝物を横取りされておもしろくない、といった負の感情ばかりだった。
それはいわゆる『嫉妬』という感情だった。
師匠同士の演奏だけであればここまで対立されることはなかっただろう。しかし見た目にも若くて冴えない風貌のディーノが、自分たちの師匠よりもはるかに良い評価を得た。誰かが演奏風景を見て、悪い噂を立てたのだろうか。それとも彼らにはディーノの演奏が伝わらなかったのだろうか。
チェンバロの弟子の彼も、ディーノと目を合わせようとしなかった。ちらりと視線を送ってくるものの、顔を向けると気まずそうに逸らしてしまう。妙な雰囲気のせいで、せっかくの興奮に水を差されたが、ピエールに呼ばれてその場を離れることができたときには安堵した。
人間は矛盾した生き物だ。助け合い庇い労わりながらも、一方で憎悪や嫉妬を向けることがある。
これまでの体験から人の黒いところは嫌というほど見てきた。わかっていたつもりでいた。けれど、ああいう形でぶつけられると、戸惑い、落ち込む。同じ音楽家なのに、敵愾心を剥き出しにして、人が得た評価を妬む。
ライバル心を燃やされるのなら嬉しいことだ。自分の演奏が認められたということなのだから。しかし嫉妬は認めてもらえていない。とてもつらかった。彼らの評価が欲しくて演奏をしているわけではないけれど、やはり認めてもらいたい。お互いを認め合って技術を向上させていければいいのになと思う。
ディーノの胸の内は、複雑だった。
ステージに立った興奮と高評価を得られた嬉しさ。反面、音楽家同士は仲間でなく敵と認識された悲しみ。全ての人がそうではないと思いたいが、今はまだそう考えられる心の余裕はなかった。
13
お気に入りに追加
31
あなたにおすすめの小説

日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

エリクサーは不老不死の薬ではありません。~完成したエリクサーのせいで追放されましたが、隣国で色々助けてたら聖人に……ただの草使いですよ~
シロ鼬
ファンタジー
エリクサー……それは生命あるものすべてを癒し、治す薬――そう、それだけだ。
主人公、リッツはスキル『草』と持ち前の知識でついにエリクサーを完成させるが、なぜか王様に偽物と判断されてしまう。
追放され行く当てもなくなったリッツは、とりあえず大好きな草を集めていると怪我をした神獣の子に出会う。
さらには倒れた少女と出会い、疫病が発生したという隣国へ向かった。
疫病? これ飲めば治りますよ?
これは自前の薬とエリクサーを使い、聖人と呼ばれてしまった男の物語。

婚約破棄?一体何のお話ですか?
リヴァルナ
ファンタジー
なんだかざまぁ(?)系が書きたかったので書いてみました。
エルバルド学園卒業記念パーティー。
それも終わりに近付いた頃、ある事件が起こる…
※エブリスタさんでも投稿しています
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
人質姫と忘れんぼ王子
雪野 結莉
恋愛
何故か、同じ親から生まれた姉妹のはずなのに、第二王女の私は冷遇され、第一王女のお姉様ばかりが可愛がられる。
やりたいことすらやらせてもらえず、諦めた人生を送っていたが、戦争に負けてお金の為に私は売られることとなった。
お姉様は悠々と今まで通りの生活を送るのに…。
初めて投稿します。
書きたいシーンがあり、そのために書き始めました。
初めての投稿のため、何度も改稿するかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。
小説家になろう様にも掲載しております。
読んでくださった方が、表紙を作ってくださいました。
新○文庫風に作ったそうです。
気に入っています(╹◡╹)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる