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三章 元カレ来たりて父、動揺

1.元カレ、リイチ

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「ちょっ、ちょっとリイチ。何やってんの離れて」
「ごめん、久しぶりだったから嬉しくて」
「あたし、仕事中だから。とりあえずこっち」

 呆気に取られた顔で見送る従業員と、好奇の視線を送ってくるお客様から逃げるように、春風はリイチを連れ、駐車場の脇を通って寮に向かった。

「どうして、あんたがここにいるのよ。あたしたち、別れたよね」
「ちゃんと予約取って来たよ」
「……え?」

 にこにこと可愛らしい笑みを浮かべるリイチを見つめる。
「僕、ちゃんと電話して二泊予約したから。お客さんだよ」
「お客……様?」
 リイチが力強く頷いた。

 今日も部屋は満室。十組の中に一人で部屋を取っているお客様がおられた。
剛力利一ごうりきとしかず
「そ、僕でしょ」
「たしかに……」
 リイチの本名を知らなかったわけじゃない。ずっとリイチと呼んでいたから、ピンとこなかった。来るなんて、思ってもなかったし。

「えっと……じゃあ、チェックインの手続きをしなきゃ、ね」
 会いに来たんだよ、とでも言うのかと思っていた。予想と違う答えが返ってきて戸惑いつつも、お客様ならお迎えをしなければ、と頭が動く。

「春ちゃん、本当に女将さんなんだあ。なんか、かっこいいね」
「え? いや、別に」
 突然褒められても困ってしまう。頭をかきつつ、照れている場合ではないと気がつく。

「夜、部屋に行くから、チェックインして適当に過ごしてて。あたし仕事に戻らないといけない」
「わかった。待ってるね」

 にこぉと、人を惹きつける満面の笑顔におもわず見惚れそうになって、春風は視線をそっと外した。

「受付で名前を言って。部屋のキーをもらえるから」
 リイチは何度か振り返って、春風に手を振った。
 玄関に向かうその背中を見つめる春風の胸は、少しドキドキしていた。

 仕事中、リイチの姿を何度か見かけた。お土産コーナーにいたり、何をやるでもなくロビーに座っていたり。
 春風が通るたび、手を振って、「頑張って」と声には出さず、口だけを動かして応援してくれる。

 悪い気はしないけれど、なんだか照れ臭い。
 以前の職場で出会い、人懐っこいところが可愛いなと思っていたところに、食事に誘われ、告られて、付き合うことにした。リイチには本業があり、地下アイドルをしていると聞かされた。まさか自分がアイドルと付き合うとは、思ったこともなかった。

 リイチの公演を見に行ったのは、たった一度だけ。それも本人に黙って行った。
 一線を引きたいから、公演は見ないでと言われていたから。
 五人グループの末っ子キャラとして、歌い踊り喋っていた。ファンもいて、黄色い声援を浴びるリイチは、いつもと同じようでいて、別人にも見えた。

 給料は多くなく、アルバイトをしていたので、働いている自分がグッズを買って、わずかでも貢献してあげた方がいいのかと思っていた。でもライブに行くのはその日限りでやめた。

 リイチに疑似恋愛しているファンに、マウントを取っているような気がしたから。
 アイドルとしてのリイチに、恋はしない。プライベートのリイチが好きだから。

 二年ほど付き合って、春風から別れを告げた。実家に帰るから、と言うのが理由だった。住む距離が少し遠くなるからではなく、なんとなくけじめをつけたかったから。
 母が亡くなる一カ月ほど前のこと。

 この半年ちょっと、自分と旅館のことが忙しくて、思い出す暇もなかった。春風の中では終わらせたことになっていたせいでもある。

 リイチに実家が旅館だとは話したが、詳しくは教えていない。どうやって突き止めたのだろう。
 何をしに泊まりに来たのか。ビジネスホテルのような気軽に利用できる宿泊料金ではない旅館に二泊も。
 
 いろいろと気にかかりながらも、ぼんやりしている暇はなく、発注や予約の確認、大小トラブルの対応、各お部屋への挨拶回り、片付けや掃除などなど。業務が終わると、お風呂に入る前に、ひよどりの間に向かった。

「リイチ、入っていい?」
「春ちゃん! どうぞどうぞ」
 弾んだようなリイチの声に、少し嬉しくなってしまう。
 ああ、だめだめ。と気持ちを抑えてから、扉を開けた。

 リイチは担当の郁が敷いた布団の上に座っていた。横にスマホが転がっている。
「遅くなってごめんね」
「大丈夫だよ。お仕事お疲れさま」

「なにもないから、退屈だったでしょう? サウナ使った?」
「ううん。春ちゃんの働く姿見ていられたから、退屈じゃなかったよ。サウナは入ってない。僕シャワーで充分だから」
「そうだったね」

 リイチの対面に座る。着物だと自然と正座になってしまう。着替えてくればよかったと思った。気が急いていたので、着ているものにまで頭が回らなかった。

「着物姿の春ちゃんも、きりっとしててすごくかっこいいね」
「あ……ありがとう。って褒められに来たんじゃないの。調子崩さないで」
「思ったままを伝えただけだよ。実家が旅館だとは聞いてたけど、着物姿を見るのは初めてだから」

「それよ。どうやってここを知ったの? 教えてなかったでしょう」
「それなら、これを見たんだ。春ちゃん知らなかったんだね」

 傍らのスマホを操作してリイチが見せてくれたのは、YouTubeだった。
『どーもー。さらです。ゆらです。さらゆらチャンネルに沼ってる?』
 そんな出だしで始まった動画。しばらく前、予約なしでお泊めした女性二人組のお客様が写っていた。初めてのキャンプで大惨事、とタイトルがついている。

「これ見てたら、春ちゃんが出てきてびっくりしたんだよ」
 リイチが動画を先に送ると、青陽荘が写った。ずぶ濡れの二人が旅館にやってきたところ、お風呂に入っているところ、食事をしているところ、翌朝の朝食後、お土産を見ているところ、テントを片付けに行ったところ、そして春風が写った。
 
「カットされなかったんだ」
「さらゆらが感謝したってことだと思うよ。コメント見て」

 リイチが見せてくれたコメントを読む。二人を泊めたことへの感謝や、お料理美味しそう、泊まりに行く、など友好的なコメントが掲載されていた。

「これがアップされたのいつ?」
「6月30日だね」
「この頃から急に宿泊予約が増えだしたの。何があったんだろうって思ってたんだけど、動画の影響だったのね」

「この登録者数見てよ」
「11万人! インフルエンサーだったんだ」
「知らなかったの? 知ってて泊めたんだと思ってた」
「ぜんぜん知らなかった。断ってたら大変なことになってたかも」

「さすがにカットしたと思うけど。旅館名は出さないとかさ。でも、泊めてあげられてよかったね」
「お部屋は空いてたからね。今なら無理だけど」
「僕もなかなか予約取れなかったからね。すごい影響力だよね」

 いい方に動けばありがたい影響だが、悪い方だったらと思うと、ひやりとした。

「リイチがどうやってここに来たのかはわかった。で、理由は? 元カノが経営してるんだから、安く泊まれるとか思った?」
「春ちゃんに会いに来たに決まってんじゃん」
「……!」

 昼間は違う返答をしたくせに、疲れている今それを言うとは。心臓が撃ち抜かれたかと思った。

「実家に帰るから、別れましょう。ってたった一言で終わらせて。どれだけ連絡しても返してくれなくて、僕かなり落ち込んだんだよ」
 上目遣いでぷーっと唇を尖らせる。その仕草も可愛らしくて、春風の心臓がばくばくと激しく高鳴る。

「春ちゃんロスになっている時に行方がわかったら、会いたくなるじゃん。ぜんぜん予約取れないから、もう予約無しで行っちゃうおうかと何回思ったか」
「も、もうわかった。ありがとう……ありがとう」
 はあはあと息が絶え絶えになり、リイチの言葉を止めた。

 四歳年下のマイペースな彼に、こちらの調子が狂わされるのはいつものことだったが、久しぶりの感覚にどうしたらいいのやら、困惑する。

 呼吸を整えて、崩れていた姿勢を正す。
「一方的で悪かったと思ってる。ごめん。いろいろあって仕事辞めて、次がなかなか見つからなくて。気持ちがちょっと荒すさんでた。戻ってきたら母が急に亡くなって、旅館を継ぐって決めてからまっしぐらに進んできたから、余裕なくて。自分勝手でごめんなさい」

 春風の懺悔を、リイチは優しい眼差しで聞いてくれた。
「謝って欲しいなんてちっとも思ってないから、平気だよ。春ちゃんが元気でいてくれるのが、一番嬉しい」
「リイチは優しいね」
「春ちゃんが好きだからだよ」
「……も、やめて。鼻血でそう」
「え!? まじで。ティッシュ、ティッシュどこ?」

 実際に鼻血は出ていないのに、ティッシュを探して右往左往するリイチが、とてつもなく愛おしく感じた。
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