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46.妖狐の過去
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「家族を奪って申し訳ありません。父と兄に代わってお詫びします」
正座で夏樹の話を訊いた冬樺は、頭を下げた。
「え、いや、やめてえな。冬樺に謝ってもらおうと思って話したんやないねん。少しでもトラウマが軽くならへんかなと思って。間違えたかな」
「いえ。話してくださってありがとうございます。お陰で足が動きそうです」
そう言うなり、腰が抜けたようだった冬樺が立ち上がった。
「そっか。ほんなら話して良かったわ。ほな行くか!」
夏樹も立ち上がる。頭痛はなくなった。体の痛いところもない。
「ああ、その前に、この間の事謝るわ」
「突然なんですか?」
「大地が消えた日、オレは冬樺に友だちおらん奴にはわからんへんって言ってしもた。嫌いやとも」
「言われましたね」
「酷い言い方した。ごめん。あと、嫌いやって嘘ついた。オレは冬樺のこと、頼りにしてる。嫌いやない」
「気にしてませんよ」
「大人やな。オレはガキやから、ちゃんと言っとかな気すまんねん。オレと冬樺は仕事仲間やけど、友だちやと思ってるから」
冬樺は何も言わず横を向いた。でも、その顔は照れているように見えた。
「行きましょう」
夏樹もわざわざ指摘しなかった。
所長たちがいるところを捜す必要はなかった。妖力が照明のように、立ち昇っているのが見えている。
二人がそこに向かって走っていくと、
「冬樺。先行くな」
夏樹は冬樺に告げてから、高くジャンプした。
「この狐――――!」
注意を自分に向けさせながら、妖狐の頭上に着地を定めた。
真上に顔を上げた妖狐が、ひょいと飛びのく。
妖狐の下には、所長が倒れていた。迫ってくる妖狐の顎を、霊力の弓で抑えて押し戻そうとふんばっていたのが、夏樹に見えていた。
ちかくに下り立つと、背中に手を添えて所長の体を起こす。
「すまないな。体は大丈夫か?」
「もう平気」
「間近で妖力を浴びて、よく平気だったな」
「あ、そうなんや。あんまわかってなかった。たださ、数珠弾けてしもた。師匠が遺してくれた物やったのに」
数珠のなくなった左腕を見せる。
「妖力を浴びて大丈夫だったのは、あれのお陰だよ。形ある物はいつかなくなる。夏樹を守ってくれたんだから、師匠もあっちで喜んでるさ。本来の使い方ができたってな」
「そうかな」
「そうさ。無事で良かった。無茶はしなくていいから」
「少しは無理せな。あんなん退治できひんやん」
妖狐は離れた場所で、耳の後ろをぽりぽりと掻いている。
「余裕かましとんな。腹立つわ」
「いや、あれはおそらく、そう見せているだけだ。俺の矢が痛みを与えているのと、妖力を放出させ続けているからな」
妖狐の体からは、きらきらしたものが水のように流れ出ている。
天狗がつけた傷は、逃亡中に治せたのかもしれないが、今流れ出ている妖力を止めたければ、また逃げて力を補充するしかない。
それをしないのは、夏樹たちが見逃してくれないとわかっているからだ。
背中を見せるよりも、倒す方がいいと判断したのだろう。
しかし、夏樹たちの誰も倒されるつもりはない。妖狐の餌にされるなんて、絶対にごめんだ。
「周囲の草や木が枯れてきています」
「冬樺、来れたな」
冬樺がやってきた。恐ろしいトラウマを植え付けた父親の前に、自分の足でちゃんと辿り着いた。
「所長、ケガが」
血が流れている所長の姿を見た冬樺が、走り寄ってきた。
「俺は近接戦があまり得意じゃないからな。でも、大丈夫だよ。折れているわけじゃないから」
とはいえ、所長の右手からは、赤い血が筋になっている。
「弓、引けますか」
「痛みを我慢すればな」
「僕がうまくできればいいんですが、まだ自信がないです」
「自信がないと思っていると、うまくできないよ。できると思い込むのも、上達するコツだ。嘘も方便ってね。それに、矢の使い方は刺すだけじゃないよ。ナイフみたいに切ることもできるんだからね」
「時間稼ぎはそれくらいにしないか。儂の時間切れを狙っておるのかしらんが、無駄だぞ」
飽きてきたのか妖狐がこちらを向いていた。ギラギラと鋭い目を光らせている。
「それは残念ですね。自滅してもらえると、こちらも楽だったんですけどね」
所長の軽口に、妖狐はぐわははと大口を開けて嗤った。
嗤い終わると、静寂が訪れた。そして、夏樹と妖狐が同時に動いた。
夏樹が木々の間を縫って走る。
妖狐が手を振りかざすと、目の前で数本の木が倒れてきた。
めきめきと裂ける音を立てて迫りくる木を躱しながら、タイミングを見てジャンプする。
妖狐の頭上に飛び上がると、尻尾が先端を立てて向かってきた。
体をひねって躱すと、妖狐の頭に肘を打ちつける。
「があああ」
妖狐か悲鳴のような声を上げた。
体重と落下が重なった肘打ちは、ダメージになったようだ。
さっきまでと違う体の軽さを、夏樹は感じていた。
新月のときは、満月の4分の1ほどに霊力が減る。さっきまでも、その減った霊力を感じていた。体もそんなに軽くはなかった。
今は満月ほどではないけれど、いつもよりは動きやすい。
妖狐の体の上をヒョイヒョイと移動して、背中の傷に向かうと、右の拳をがつんと加えた。
痛いのか、妖狐がのたうつように体を動かす。
金毛を掴んで振り落とされないようにすると、さらに拳を振り下ろす。
傷口が広がり、妖力が放出されていった。
「小僧めが!」
8本すべての尻尾が集まり、再び尻尾の先端が夏樹に向く。
「やっべ」
言葉ほどに焦る気持ちはなく、余裕で飛び上がった。
落下しながら、バラバラに襲い来る尻尾をすべて躱し、尻尾の付け根に降り立った。
一本の尻尾をむんずと掴んだ夏樹は、力任せに引っ張り始めた。
「小僧! 何を!」
がらがら声に、焦りが交じる。
「引っこ抜いたる」
「や、やめい!」
夏樹は足を根っこに引っ掛け、角度をつけた。力を込めると、メキメキと尻尾の付け根から音を上がる。
「ギャー」
痛そうな悲鳴があがった。
相手が妖でなかったら完全に虐待だけど、この妖狐は人に害をなした。それに夏樹の仇でもあった。
骨を折るようにふんぬと力を加えていき、やがて手応えがあった。バキンという音ともに、尻尾が垂れ下がる。
グルグルと近くで声がした。振り返ると、背後に妖狐の顔が迫ってきていた。
恐ろしい形相に顔を歪めて、さらにいかつい顔になっている。
尻尾を一本折ったのが、怒りに火をつけたのだろう。
巨大な口が開いて、鋭い歯が迫る。
尻尾から手を放し、夏樹が逃げようとしたところで、妖狐がギャッと鳴いた。
夏樹からは見えない場所で、所長が何かをしたのだろう。
その隙に、離した尻尾をまた掴んだ。
「夏樹さん」
体を低くして冬樺が近づいてきていた。
「持っていてください。切り落とします」
「そんなん出来るん?」
「今教わりました。やれます」
「任せるで」
切りやすいように尻尾を持ち直す。
冬樺が手に妖力を集め、白いナイフを作り出すと、尻尾の下に当てた。
「いきます」
宣言するように言ったあと、しゅっと腕を上げた。
刃が滑らか過ぎたのか、切れたのかわからなかった。
一瞬の後、妖力が迸ほとばしった。空に向かって噴水のように放出された妖力は、陽の光できらきらと輝く。
切り落とされた尻尾は霧散していく。
同時に、妖狐が叫び声とともに、身もだえた。
「おのれえ! 小童が!」
勢いよく振り返った妖狐は、怒りの形相で腕を振る。
冬樺を突き飛ばしてから、夏樹も転がって回避した。
目の前の地面が抉れて、土や石が飛んでくる。
「血を分けた者に尻尾を切られるとはな、不覚をとったわ」
7本の尾が、苛立だしげに揺らめいている。
「妖狐と呼ぶのは恥ずかしい妖力しか持たぬおまえが、多少成長しているのは、人間のお陰だと礼を言うべきかのか? いらぬことをしてくれたわ」
鼻にシワを寄せ、尖った牙を見せる。
「おまえから離れられて、冬樺は幸せやわ。おまえなんかと一緒におったら、性格歪んでた」
妖狐の言い分にむっとした夏樹が、嫌味を言った。
「とうか? ‥‥‥そうかそうか。おまえそんな名前だったのう。忘れておったわ」
「酷い父親やな」
「儂にとって、我が子はひとり、兄だけだ。アレは儂そっくりの性質と妖力を引き継いで生まれた。あの人間の女、そこだけは役に立ったわ」
「ったく、情の欠片もない人ですね。仮にも、子どもまで作っておいて。ああ、間違えました。人ではなかったですね。あなたは」
反論する冬樺の口調はいつもと変わりなく、冷静だった。
「儂を前にして、言うようになったな。ぴーぴー泣くことしかできなかった小僧が」
「何年経っていると思っているんですか。いつまでも子どもじゃないんですよ」
「親にとって子どもはいつまで経っても子ども、だったか」
「どこで仕入れた情報なのかしりませんが、思ってもいないのに親の顔をしないでください」
「ふん。遊んでみただけよ」
「愛情なんか持ち合わせていないくせに、どうして人との子を成したんですか。あなたに何の得があるんですか。ただの気まぐれですか」
冬樺は子どもの頃できなかった反抗を今しているようだ。
「気まぐれではない。必要があったからだ」
「わずかでも、母に愛情があったんですか?」
「儂が愛しておるのはあやつのみ。人には憎悪しか持っておらぬわ」
「あやつ?」
「いいだろう。二千年を生きた儂の過去を、教えてやろう。その小僧との因縁も含めてな」
冬樺と話していた妖狐の目が、夏樹に向いた。
「オレの家族を殺した理由を、教えてくれるってわけやな」
理由を知ったところで家族は帰ってこない。でもわかるのなら、知りたかった。
妖狐と目が合った。ぐんと意識を引っ張られる感覚があって、次の瞬間、夏樹は空を駆けていた。
*
青い空を駆ける。すぐそこに雲が迫ってくる。
一転、急降下。遥か下に見えていた地面に降り立った。
再び跳躍。
空を飛ぶように移動する。爽快な気分だ。
これは妖狐の意識の中に入っているのかな、と感じた。
どうやら妖狐の中で、過去を教えてもらえるらしい。
重力に逆らうように跳びはねることが、こんなにも楽しいなんて。
妖狐はほかにもいた。三尾が一匹と一尾が二匹。
四匹は一緒に跳びはね、山を森を川を越えていく。
三尾は番で、一尾たちは子どもだろうか。
家族で自由に飛び跳ねる楽しさを妖狐が味わっているのを、夏樹は感じていた。
場面が変わった。
妖狐の感情が、怒りに溢れている。
ガルルと唸り声を上げながら、周囲を見渡した。
十数人に取り囲まれている。
彼らは現代人ではなかった。袖の長い着物の上に鎧をつけ、背中に矢の尾羽が見え、腰には太刀を佩いている。左右のこめかみには小さな扇のような物をつけていて、変わった帽子を被っていた。
妖狐が体を振っている。思うように身動きが取れないようだ。
視線の先に、三尾の番が倒れていた。
全身から妖力が立ち昇っている。
「よくも、貴様」
番の傍にいる男に、憎しみの感情を向けた。
男は細長い紙のようなものを、倒れている番に向けて投げた。
それが貼りついた箇所から番の体は霧散していき、さほど時間をかけずに消滅した。
「貴様貴様貴様ー!」
妖狐が怒りで体を震わせ、咆哮を上げる。
怒声を浴びせられても、表情を変えなかった陰陽師が、目を見開いた。
妖狐を束縛していた拘束がほどけていた。
近くにいた男に噛みつく。悲鳴を上げた別の男に飛びかかり、爪を立てた。
陰陽師が急いで紙を取り出し、何かを唱えた。
紙が、妖狐めがけて飛んでくる。
躱したはずのはずの紙は、妖狐の傍を飛び回り、背中に貼りついた。
ギャアアと悲鳴を上げる。
一方的な殺戮をやめ、妖狐は陰陽師から距離を取る。
「この恨み、必ず晴らす! 貴様の血が絶えるまで、忘れん!」
捨てセリフとともに、妖狐は跳んだ。
番を失い、自らも傷ついた妖狐は、人の入って来られない深い山で、数百年間眠りについた。
その哀しみに触れ、夏樹も心が痛かった。
大切な人を失う哀しみと怒りは、記憶を取り戻した夏樹には、痛いほどよくわかった。
眠りから醒めた妖狐は、仲間の行方を探した。が、子どもたちも退治されたのか、匂いを追えなかった。
妖狐は一人きりで、ある場所にやってきた。
そこは、夏樹にとって懐かしい場所だった。
記憶の中にあるお地蔵さまの姿。
その先には、夏樹が暮らしていた里があるはずだった。
だが、妖狐はなぜか先に進めなかった。
くんくんと匂いを嗅く。番を倒した陰陽師の匂いがした。
けれど、時が経っている。あの陰陽師が生きているわけがなかった。
おそらく、里に子孫がいたのだろう。
力が戻った妖狐は、恨みを果たすべく里に来たのだろう。
だが里に入れない。
お地蔵さまには結界の役目があったからだ。
姉たちにお地蔵さまを越えてはならないと、さんざん言われてきたのは、これが理由だった。
結界内にいれば、妖狐は入ってこられない。しかし越えると匂いを感知され、妖狐に襲われる。
夏樹もそこまでは知らなかった。長い時の中で禁止事項だけが残り、理由は失われてしまったのだろう。
復讐を果たせない妖狐の深い哀しみが、ずきずきと夏樹の胸を刺す。
つらいだろうなと、同情した。
番や仲間が退治されたのだ。復讐だけが心の拠り所だっただろうに。
満月のあの日、妖狐が里に侵入できた理由はわからない。
お地蔵さまの結界の力が弱っていたのだろうか。
それとも、妖狐の力が勝ったのか。
家族を失った復讐を果たすと誓った想いが強かったからか。
あの陰陽師の子孫が生きていたのなら、里が襲われても仕方がなかったのかもしれない。
妖狐の復讐は、まだ終わっていない。
里出身の夏樹が生きている限り、終わらない。
正座で夏樹の話を訊いた冬樺は、頭を下げた。
「え、いや、やめてえな。冬樺に謝ってもらおうと思って話したんやないねん。少しでもトラウマが軽くならへんかなと思って。間違えたかな」
「いえ。話してくださってありがとうございます。お陰で足が動きそうです」
そう言うなり、腰が抜けたようだった冬樺が立ち上がった。
「そっか。ほんなら話して良かったわ。ほな行くか!」
夏樹も立ち上がる。頭痛はなくなった。体の痛いところもない。
「ああ、その前に、この間の事謝るわ」
「突然なんですか?」
「大地が消えた日、オレは冬樺に友だちおらん奴にはわからんへんって言ってしもた。嫌いやとも」
「言われましたね」
「酷い言い方した。ごめん。あと、嫌いやって嘘ついた。オレは冬樺のこと、頼りにしてる。嫌いやない」
「気にしてませんよ」
「大人やな。オレはガキやから、ちゃんと言っとかな気すまんねん。オレと冬樺は仕事仲間やけど、友だちやと思ってるから」
冬樺は何も言わず横を向いた。でも、その顔は照れているように見えた。
「行きましょう」
夏樹もわざわざ指摘しなかった。
所長たちがいるところを捜す必要はなかった。妖力が照明のように、立ち昇っているのが見えている。
二人がそこに向かって走っていくと、
「冬樺。先行くな」
夏樹は冬樺に告げてから、高くジャンプした。
「この狐――――!」
注意を自分に向けさせながら、妖狐の頭上に着地を定めた。
真上に顔を上げた妖狐が、ひょいと飛びのく。
妖狐の下には、所長が倒れていた。迫ってくる妖狐の顎を、霊力の弓で抑えて押し戻そうとふんばっていたのが、夏樹に見えていた。
ちかくに下り立つと、背中に手を添えて所長の体を起こす。
「すまないな。体は大丈夫か?」
「もう平気」
「間近で妖力を浴びて、よく平気だったな」
「あ、そうなんや。あんまわかってなかった。たださ、数珠弾けてしもた。師匠が遺してくれた物やったのに」
数珠のなくなった左腕を見せる。
「妖力を浴びて大丈夫だったのは、あれのお陰だよ。形ある物はいつかなくなる。夏樹を守ってくれたんだから、師匠もあっちで喜んでるさ。本来の使い方ができたってな」
「そうかな」
「そうさ。無事で良かった。無茶はしなくていいから」
「少しは無理せな。あんなん退治できひんやん」
妖狐は離れた場所で、耳の後ろをぽりぽりと掻いている。
「余裕かましとんな。腹立つわ」
「いや、あれはおそらく、そう見せているだけだ。俺の矢が痛みを与えているのと、妖力を放出させ続けているからな」
妖狐の体からは、きらきらしたものが水のように流れ出ている。
天狗がつけた傷は、逃亡中に治せたのかもしれないが、今流れ出ている妖力を止めたければ、また逃げて力を補充するしかない。
それをしないのは、夏樹たちが見逃してくれないとわかっているからだ。
背中を見せるよりも、倒す方がいいと判断したのだろう。
しかし、夏樹たちの誰も倒されるつもりはない。妖狐の餌にされるなんて、絶対にごめんだ。
「周囲の草や木が枯れてきています」
「冬樺、来れたな」
冬樺がやってきた。恐ろしいトラウマを植え付けた父親の前に、自分の足でちゃんと辿り着いた。
「所長、ケガが」
血が流れている所長の姿を見た冬樺が、走り寄ってきた。
「俺は近接戦があまり得意じゃないからな。でも、大丈夫だよ。折れているわけじゃないから」
とはいえ、所長の右手からは、赤い血が筋になっている。
「弓、引けますか」
「痛みを我慢すればな」
「僕がうまくできればいいんですが、まだ自信がないです」
「自信がないと思っていると、うまくできないよ。できると思い込むのも、上達するコツだ。嘘も方便ってね。それに、矢の使い方は刺すだけじゃないよ。ナイフみたいに切ることもできるんだからね」
「時間稼ぎはそれくらいにしないか。儂の時間切れを狙っておるのかしらんが、無駄だぞ」
飽きてきたのか妖狐がこちらを向いていた。ギラギラと鋭い目を光らせている。
「それは残念ですね。自滅してもらえると、こちらも楽だったんですけどね」
所長の軽口に、妖狐はぐわははと大口を開けて嗤った。
嗤い終わると、静寂が訪れた。そして、夏樹と妖狐が同時に動いた。
夏樹が木々の間を縫って走る。
妖狐が手を振りかざすと、目の前で数本の木が倒れてきた。
めきめきと裂ける音を立てて迫りくる木を躱しながら、タイミングを見てジャンプする。
妖狐の頭上に飛び上がると、尻尾が先端を立てて向かってきた。
体をひねって躱すと、妖狐の頭に肘を打ちつける。
「があああ」
妖狐か悲鳴のような声を上げた。
体重と落下が重なった肘打ちは、ダメージになったようだ。
さっきまでと違う体の軽さを、夏樹は感じていた。
新月のときは、満月の4分の1ほどに霊力が減る。さっきまでも、その減った霊力を感じていた。体もそんなに軽くはなかった。
今は満月ほどではないけれど、いつもよりは動きやすい。
妖狐の体の上をヒョイヒョイと移動して、背中の傷に向かうと、右の拳をがつんと加えた。
痛いのか、妖狐がのたうつように体を動かす。
金毛を掴んで振り落とされないようにすると、さらに拳を振り下ろす。
傷口が広がり、妖力が放出されていった。
「小僧めが!」
8本すべての尻尾が集まり、再び尻尾の先端が夏樹に向く。
「やっべ」
言葉ほどに焦る気持ちはなく、余裕で飛び上がった。
落下しながら、バラバラに襲い来る尻尾をすべて躱し、尻尾の付け根に降り立った。
一本の尻尾をむんずと掴んだ夏樹は、力任せに引っ張り始めた。
「小僧! 何を!」
がらがら声に、焦りが交じる。
「引っこ抜いたる」
「や、やめい!」
夏樹は足を根っこに引っ掛け、角度をつけた。力を込めると、メキメキと尻尾の付け根から音を上がる。
「ギャー」
痛そうな悲鳴があがった。
相手が妖でなかったら完全に虐待だけど、この妖狐は人に害をなした。それに夏樹の仇でもあった。
骨を折るようにふんぬと力を加えていき、やがて手応えがあった。バキンという音ともに、尻尾が垂れ下がる。
グルグルと近くで声がした。振り返ると、背後に妖狐の顔が迫ってきていた。
恐ろしい形相に顔を歪めて、さらにいかつい顔になっている。
尻尾を一本折ったのが、怒りに火をつけたのだろう。
巨大な口が開いて、鋭い歯が迫る。
尻尾から手を放し、夏樹が逃げようとしたところで、妖狐がギャッと鳴いた。
夏樹からは見えない場所で、所長が何かをしたのだろう。
その隙に、離した尻尾をまた掴んだ。
「夏樹さん」
体を低くして冬樺が近づいてきていた。
「持っていてください。切り落とします」
「そんなん出来るん?」
「今教わりました。やれます」
「任せるで」
切りやすいように尻尾を持ち直す。
冬樺が手に妖力を集め、白いナイフを作り出すと、尻尾の下に当てた。
「いきます」
宣言するように言ったあと、しゅっと腕を上げた。
刃が滑らか過ぎたのか、切れたのかわからなかった。
一瞬の後、妖力が迸ほとばしった。空に向かって噴水のように放出された妖力は、陽の光できらきらと輝く。
切り落とされた尻尾は霧散していく。
同時に、妖狐が叫び声とともに、身もだえた。
「おのれえ! 小童が!」
勢いよく振り返った妖狐は、怒りの形相で腕を振る。
冬樺を突き飛ばしてから、夏樹も転がって回避した。
目の前の地面が抉れて、土や石が飛んでくる。
「血を分けた者に尻尾を切られるとはな、不覚をとったわ」
7本の尾が、苛立だしげに揺らめいている。
「妖狐と呼ぶのは恥ずかしい妖力しか持たぬおまえが、多少成長しているのは、人間のお陰だと礼を言うべきかのか? いらぬことをしてくれたわ」
鼻にシワを寄せ、尖った牙を見せる。
「おまえから離れられて、冬樺は幸せやわ。おまえなんかと一緒におったら、性格歪んでた」
妖狐の言い分にむっとした夏樹が、嫌味を言った。
「とうか? ‥‥‥そうかそうか。おまえそんな名前だったのう。忘れておったわ」
「酷い父親やな」
「儂にとって、我が子はひとり、兄だけだ。アレは儂そっくりの性質と妖力を引き継いで生まれた。あの人間の女、そこだけは役に立ったわ」
「ったく、情の欠片もない人ですね。仮にも、子どもまで作っておいて。ああ、間違えました。人ではなかったですね。あなたは」
反論する冬樺の口調はいつもと変わりなく、冷静だった。
「儂を前にして、言うようになったな。ぴーぴー泣くことしかできなかった小僧が」
「何年経っていると思っているんですか。いつまでも子どもじゃないんですよ」
「親にとって子どもはいつまで経っても子ども、だったか」
「どこで仕入れた情報なのかしりませんが、思ってもいないのに親の顔をしないでください」
「ふん。遊んでみただけよ」
「愛情なんか持ち合わせていないくせに、どうして人との子を成したんですか。あなたに何の得があるんですか。ただの気まぐれですか」
冬樺は子どもの頃できなかった反抗を今しているようだ。
「気まぐれではない。必要があったからだ」
「わずかでも、母に愛情があったんですか?」
「儂が愛しておるのはあやつのみ。人には憎悪しか持っておらぬわ」
「あやつ?」
「いいだろう。二千年を生きた儂の過去を、教えてやろう。その小僧との因縁も含めてな」
冬樺と話していた妖狐の目が、夏樹に向いた。
「オレの家族を殺した理由を、教えてくれるってわけやな」
理由を知ったところで家族は帰ってこない。でもわかるのなら、知りたかった。
妖狐と目が合った。ぐんと意識を引っ張られる感覚があって、次の瞬間、夏樹は空を駆けていた。
*
青い空を駆ける。すぐそこに雲が迫ってくる。
一転、急降下。遥か下に見えていた地面に降り立った。
再び跳躍。
空を飛ぶように移動する。爽快な気分だ。
これは妖狐の意識の中に入っているのかな、と感じた。
どうやら妖狐の中で、過去を教えてもらえるらしい。
重力に逆らうように跳びはねることが、こんなにも楽しいなんて。
妖狐はほかにもいた。三尾が一匹と一尾が二匹。
四匹は一緒に跳びはね、山を森を川を越えていく。
三尾は番で、一尾たちは子どもだろうか。
家族で自由に飛び跳ねる楽しさを妖狐が味わっているのを、夏樹は感じていた。
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妖狐が体を振っている。思うように身動きが取れないようだ。
視線の先に、三尾の番が倒れていた。
全身から妖力が立ち昇っている。
「よくも、貴様」
番の傍にいる男に、憎しみの感情を向けた。
男は細長い紙のようなものを、倒れている番に向けて投げた。
それが貼りついた箇所から番の体は霧散していき、さほど時間をかけずに消滅した。
「貴様貴様貴様ー!」
妖狐が怒りで体を震わせ、咆哮を上げる。
怒声を浴びせられても、表情を変えなかった陰陽師が、目を見開いた。
妖狐を束縛していた拘束がほどけていた。
近くにいた男に噛みつく。悲鳴を上げた別の男に飛びかかり、爪を立てた。
陰陽師が急いで紙を取り出し、何かを唱えた。
紙が、妖狐めがけて飛んでくる。
躱したはずのはずの紙は、妖狐の傍を飛び回り、背中に貼りついた。
ギャアアと悲鳴を上げる。
一方的な殺戮をやめ、妖狐は陰陽師から距離を取る。
「この恨み、必ず晴らす! 貴様の血が絶えるまで、忘れん!」
捨てセリフとともに、妖狐は跳んだ。
番を失い、自らも傷ついた妖狐は、人の入って来られない深い山で、数百年間眠りについた。
その哀しみに触れ、夏樹も心が痛かった。
大切な人を失う哀しみと怒りは、記憶を取り戻した夏樹には、痛いほどよくわかった。
眠りから醒めた妖狐は、仲間の行方を探した。が、子どもたちも退治されたのか、匂いを追えなかった。
妖狐は一人きりで、ある場所にやってきた。
そこは、夏樹にとって懐かしい場所だった。
記憶の中にあるお地蔵さまの姿。
その先には、夏樹が暮らしていた里があるはずだった。
だが、妖狐はなぜか先に進めなかった。
くんくんと匂いを嗅く。番を倒した陰陽師の匂いがした。
けれど、時が経っている。あの陰陽師が生きているわけがなかった。
おそらく、里に子孫がいたのだろう。
力が戻った妖狐は、恨みを果たすべく里に来たのだろう。
だが里に入れない。
お地蔵さまには結界の役目があったからだ。
姉たちにお地蔵さまを越えてはならないと、さんざん言われてきたのは、これが理由だった。
結界内にいれば、妖狐は入ってこられない。しかし越えると匂いを感知され、妖狐に襲われる。
夏樹もそこまでは知らなかった。長い時の中で禁止事項だけが残り、理由は失われてしまったのだろう。
復讐を果たせない妖狐の深い哀しみが、ずきずきと夏樹の胸を刺す。
つらいだろうなと、同情した。
番や仲間が退治されたのだ。復讐だけが心の拠り所だっただろうに。
満月のあの日、妖狐が里に侵入できた理由はわからない。
お地蔵さまの結界の力が弱っていたのだろうか。
それとも、妖狐の力が勝ったのか。
家族を失った復讐を果たすと誓った想いが強かったからか。
あの陰陽師の子孫が生きていたのなら、里が襲われても仕方がなかったのかもしれない。
妖狐の復讐は、まだ終わっていない。
里出身の夏樹が生きている限り、終わらない。
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その後悠人に新たな恋人ができたと知り、傷付いてバーで慣れない酒を飲んでいたのだが、途中質の悪い男にナンパされ絡まれた。危ういところを助けてくれたのは、なんと偶然同じバーで飲んでいた、担当の小説家・湊(みなと 34)。湊は嘔吐し、足取りの覚束ない永夢を連れ帰り、世話してくれた上にベッドに寝かせてくれた。
翌朝、永夢はいい香りで目が覚める。昨夜のことを思い出し、とんでもないことをしたと青ざめるのだが、香りに誘われそろそろとキッチンに向かう。そこでは湊が手作りの豚汁を温め、炊きたてのご飯をよそっていて?
「ちょうどよかった。朝食です。一度誰かに味見してもらいたかったんです」
ある理由から「普通に美味しいご飯」を作って食べたいイケメン小説家と、私生活ポンコツ女性編集者のほのぼのおうちご飯日記&時々恋愛。
.。*゚+.*.。 献立表 ゚+..。*゚+
第一話『豚汁』
第二話『小鮎の天ぷらと二種のかき揚げ』
第三話『みんな大好きなお弁当』
第四話『餡かけチャーハンと焼き餃子』
第五話『コンソメ仕立てのロールキャベツ』
保健室の秘密...
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僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。
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