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26.バトル
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先頭を切って飛び出したのは、佐和。すさまじい瞬発力で、30mほどある距離を詰めていく。
後ろから夏樹も追いかけて走っていく。
その場に残った所長は、両手を合わせてぐいと引っ張るような動作をした。
拳にまとっていた銀色の光が洋弓の形になる。中央から三本の線が引かれ、それは矢になった。
冬樺の目の前で弓をきりりと引き絞る所長の姿は、同性の目から見ても格好いいと思う。
所長が指を離した。
しゅんと勢いよく飛び出した三本の矢は、先頭を走る二人の背後に迫る。
と、二人は後ろに目がついているかのように左右に避けた。佐和は左に、夏樹は右に。
三本の矢は妖たちに向かって突き進む。
陰摩羅鬼がグギャーと声を上げて飛び上がった。羽を左右に広げ、二度三度と羽ばたく。
巻き上がった空気がぐるぐると渦を巻いた。
できあがった竜巻は、矢に向かって進み、巻き込み、その方向を変えてしまった。
「ああっ」
いとも簡単に方向を変えられたのが悔しくて、冬樺は声を上げてしまう。
所長は冷静で、表情を変えていない。
先頭の二人が、森を抜けた。
「はあああああ!」
気迫の込められた声が森に響く。佐和の拳が野寺坊に届いた。
ガインと甲高い音がする。
野寺坊は錫杖で、佐和の拳を受け止めていた。だが力に押し切られたのか、一歩下がる。
下がったところに、横手から銀の矢が野寺坊を襲った。
竜巻によって方向を変えられた矢がどこかで方向を変え、妖に向かったらしい。
しかし、矢は野寺坊の袈裟を切り裂いただけで終わり、背後の祠の柱に刺さった。
チッと所長が舌打ちをした。つがえていた矢を再び放つ。今度は真っ直ぐではなくて、木に隠れるように蛇行して。どうやら所長は矢を自由自在に動かせるようだ。
佐和に二歩ほど遅れて夏樹も到達していた。体を捻って右腕を引きながら、高く跳躍した。勢いのまま、一つ目入道に向かっていく。
一つ目入道は余裕の笑みを浮かべ、着物の懐に左手を突っ込んだまま、赤い光をまとった拳を振り下ろす夏樹をよけた。
ぼこっという音の後に土煙が巻き上がり、冬樺のいる場所まで振動を感じた。
「ぐわっ。小僧!」
一つ目入道が不愉快そうな銅鑼声を上げて、目を抑える。
地面に穴を開けた夏樹が、土を掴み投げつけたのだろう。
初歩的な手に引っかかるとは、以外にも間抜けな妖だった。
一つ目入道が怯んだ隙を見逃す夏樹では当然なかった。
外国人レスラー並の体格をもつ一つ目入道の胴体へ、拳を叩きこむ。
瞬きを数回する間に何発入れたのか。冬樺の目では赤い線をひく残像にしか見えなかったが、一つ目入道の重たそうな体が傾いた。
しかし一つ目入道もやられたままではなかった。右足を引いてふんばり、左手を懐から抜いて振りかぶった。
丸太のように太い腕を、夏樹はひょいと身軽な動きで腕をよけた。ただし相手は人ではなく妖。風圧には妖力がこもっていた。
夏樹が煽られ、バランスを崩す。
一つ目入道が組んだ両手を頭の上に持ち上げた。目をうっすらと開いている。
その目に所長の銀の矢が突き立った。
「ぎゃっっ!」
短い悲鳴を上げてのけ反る。
バランスを崩していた夏樹が地面に手をつき、体をひねった。遠心力でもって一つ目入道を蹴り上げる。
首と足に蹴りが入った一つ目入道は、横手に吹っ飛んで行った。佐和と闘っていた野寺坊を巻き込んで。
佐和がちらりとこっちに顔を向けた。
所長が親指を上げると、二人は妖が吹っ飛んだ方に走っていった。
「所長、陰摩羅鬼はどうなっているんでしょう」
一つ目入道と野寺坊にばかり目がいってしまって、怪鳥の姿を見失っていた。
「上空だよ。俺の矢で誘導した」
ここからは茂った木が邪魔をして、上空は見えない。
耳を澄ませると、金切声が聴こえてきた。
「俺も向こうに行くけど、冬樺は隠れているように。万一妖に襲われそうになったら、これを妖に投げつけて」
パールのような艶々した銀色の玉を手渡される。
「これは?」
「僕の矢を封印した珠だよ。ようく狙いをつけるんだよ。万一外れても妖を感知して飛び出すようにしているけど、直に当たった方が、威力が高いからね、今の冬樺の妖力なら、反応しないと思うから」
「新月だと、僕に向かってくる可能性もあるってことですね」
「そういうこと。使用しなかったら、回収するよ」
そう言うと、所長は廃寺に向かって進んだ。
一人取り残された冬樺は、とたんに心細くなる。
誰のものかわからない声が響いて不気味だし、近くでがさりと音がして、体が縮こむ。
三人のように戦えたらと思うけれど、忌まわしい記憶が体を硬くさせる。
物心つく前から、父と兄に殴られた。やり返そうとしても、力が違い過ぎて歯が立たなかった。同じ体格の兄にすら、まったく適わない。
諦めてやられっぱなしになると、兄は飽きて父に相手をせがんだ。
弱い冬樺に打たれ強くなるからと、父は容赦なかった。ほとんど暴行だったと思うのだが、幼い頃はそれが当たり前なのだと思っていた。
母は毎日血だらけで傷をつくる兄弟を、行き過ぎたケンカだと思っていたらしい。看護師である母が、「ケンカばっかりしちゃだめよ。仲良くしなさいね」と手早く処置してくれた。
ある日母から「毎日どうして怪我ばかりするの?」と訊ねられて話した。母の顔色が変わり、父の行為はおかしいのだと気がついた。
成長にともない、冬樺の方があきらかに怪我が酷くなっていて、母は不審に感じたらしい。
父によるDVを疑った母が、離婚にむけてひそかに動く中で、衝撃の事実が判明していく。
父がバケモノだったこと、父に戸籍がないせいで、母と籍が入っていないばかりか、冬樺たちの戸籍すらなかったこと。
父と兄から距離を取れ、痛い思いをしないですんだが、冬樺は血や暴力シーンが苦手になっていた。
年を重ねて少しはましになったものの、夏樹とダルマの思わぬ戦闘行為に、血の気が引いた。
足が動かなくて、体ががたがたと震えた。
しかし夏樹が、ダルマと人を引き剥がそうと奮闘している姿を見て、怖がっているだけではだめだと、奮い立たせた。
人を守ろうとしている夏樹の邪魔にならないように動こうと、人を避難させようとした。
結果的に、夏樹に怪我をさせてしまった。
天狗の揚羽さまのお陰ですぐに治癒したものの、足を引っ張った事実は変わらない。
事務所を辞めよう。
考えた末そう決めたのに、電話をかけてきた夏樹はいつもと同じで、その明るさに冬樺は救われた。
気が楽になり、辞めるのは保留にした。
あの父と同じ血が流れている。いつか狂ってしまうかもしれない。人とは距離を置こう。
最初は寂しかったけれど、父と兄を思い出したら寂しさは消えた。人を傷つけてしまう恐ろしさの方が上回った。
学生時代、作った壁を乗り越えようとする物好きはいた。冬樺が何の反応も示さないでいるとすぐに飽きられた。
夏樹も彼らと同じだろうと思っていた。壁を乗り越えようとするのは最初だけ。無愛想な冬樺にそのうち愛想を尽かすだろうと。
冬樺のせいで怪我をしても、重い過去を知った今も、変わらない態度で接してくる。
所長も佐和もだ。二人は大人だから、親に近い思いで見守ってくれていると感じていた。
夏樹があんなに明るく、めげないのは、二人の影響なのかもしれない。
やたら名前呼びを求められるのは辟易しているけれど。
そんな友だちみたいなこと、恥ずかしくてできない。冬樺と夏樹は同僚であって、友人ではないのだから。
*
「‥‥‥か。と‥‥‥か」
三人の姿が見えなくなったことで、冬樺は自身の心の奥深くに潜ってしまっていた。名前らしきものを呼ばれてはっとし、意識を浮上させる。
声が聞こえた背後を振り返ると、
「岩倉さん?」
そこには全身ぼろぼろの夏樹が立っていた。木に手をつき、よろよろと歩いてくる。
顔の半分は血に塗れ、左手は骨が折れたのか関節が外れたのか、力なくぶらんと揺れている。左足をひきずりながら少し進んだが、すぐに力尽きたように、木にもたれた。
はあはあと激しい呼吸を繰り返している。
「だ、大丈夫ですか」
どうみても満身創痍で、大丈夫には見えないのに。言葉が出てこなくて、ありきたりな声掛けをしてしまった。
救急セットは用意していない。車に戻ればあるのかもしれないが、こんな状態で下山できるのだろうか。
「肩‥‥‥貸して」
消え入りそうな声。
そうか。支えが必要なんだ。
夏樹らしくない光景に気が動転してしまい、助けを求められるまでその必要性に気が回らなかった。
「そちらに行きます」
ゆっくりと近づいていく。
壮絶な顔で、夏樹が手を伸ばしてくる。その手を取ろうとして――
「冬樺!!!」
大声で制され、冬樺は動きを止めた。手を伸ばしたまま、固まる。
目の前にいた夏樹が、一瞬で姿を消した。
幹に所長の弓が二本突き刺さる。
がさがさと草をかきわける音が素早く遠ざかっていった。
「冬樺。騙されんな」
夏樹は違う場所にいた。怪我ひとつしていない、元気そうな姿で。
「あの‥‥‥怪我は?」
「さっきのは川獺や。冬樺は騙されたんや」
「川獺?」
「冬樺が言うたんやで。川獺は化かすことが得意って」
「そうですけど‥‥‥今のあなたが川獺でない証拠はあるんですか?」
「呆然としとったくせに、急に冬樺節ぶちこんでくんなや。オレがあんな無様なやられ方するわけないやろ。オレ強いんやで」
「一つ目入道も相当強そうでしたけど」
「体でかいだけ、全然大したことなかったわ」
「とどめをさしたのは俺だけどな」
所長の返答が、どこかから響いてきた。
「矢の効果が出るまで弱らせたんは、オレや」
夏樹が言い返す。
「そうだな。よくやった」
「そういうことや。一つ目入道は退治した。鳥も所長が退治した。あとは佐和さんの野寺坊だけ」
「そうでしたか。お疲れ様でした」
「信じてくれたん」
「はい。一応」
「一応って、疑い深いな。それをさっきも発揮してほしかったな」
苦笑しながらも、冗談めかした口調で言う。
夏樹たちのことを考えていたタイミングを突かれて騙された。とは口が裂けても言えない。
こぼしてしまえば、喜んでからかってくるだろう。「実はオレらのことめっちゃ好きなんやん」とか「ツンデレか」とか、にこにこしながら言うに違いない。肩に腕を回しながらとか。
べとべとするのもされるのも苦手だから、つけ込まれないようにしないと。
「川獺の化け方が秀逸だったんですよ」
なぞに川獺を褒める返事になってしまった。
「そんなにそっくりやったん? オレ一瞬しか見てないねん。ちょっと見たかったかも」
「友だちになったらどうですか? カマイタチと仲良くなれたんですから、川獺だって似たようなようなものでしょう」
「できるかもしれへんな。おーい川獺、オレと仲良うせえへん?」
歩きながら呼びかける夏樹。
「ちょっと、呼びかけないでくださいよ。本当に来たらどうするんです」
「友だちになるんやったら、来てもらわなあかんやん」
「また誰かに化けたらどうするんですか」
「妖力と霊力は見たら違うんやから、騙されへんよ。おーい、川獺」
「区別できるんですか」
「できるよ。なんかこう、ゆらめき方が違うっていうか」
手でゆらめき方を表現しながら説明しようとする。
「妖力はこんな風に尖がってて、霊力は波みたいで」
ぜんぜんわからない。
「マジでわからへんの?」
冬樺を見て、体をのけぞらせた。
その途端、夏樹の姿がまた冬樺の視線から消えた。
もしかして騙されていたのかと身構えたが、
「いたたた」
足を滑らせただけらしく、夏樹は尻もちをついていた。
「何やってるんですか」
やれやれと助け起こすために近寄ろうとしたところに、
「人間めえ!!!」
山姥が白髪を振り乱して襲ってきた。ふりかざした右手には、包丁が握られている。
「やっば」
夏樹が焦った声を出すが、立ち上がらない。足でもくじいたのだろうか。
山姥の見た目は老婆だが、足は俊敏だった。冬樺が三歩ほど先にいる夏樹を助け起こしたところで、すぐに追いつかれそうだ。
「そうだ。珠」
冬樺は右手に握りしめていた小さな珠を、山姥に向かって投げつけた。
「ぐえっ」
小さな珠が額に命中した直後、銀色の光がほとばしった。
後ろから夏樹も追いかけて走っていく。
その場に残った所長は、両手を合わせてぐいと引っ張るような動作をした。
拳にまとっていた銀色の光が洋弓の形になる。中央から三本の線が引かれ、それは矢になった。
冬樺の目の前で弓をきりりと引き絞る所長の姿は、同性の目から見ても格好いいと思う。
所長が指を離した。
しゅんと勢いよく飛び出した三本の矢は、先頭を走る二人の背後に迫る。
と、二人は後ろに目がついているかのように左右に避けた。佐和は左に、夏樹は右に。
三本の矢は妖たちに向かって突き進む。
陰摩羅鬼がグギャーと声を上げて飛び上がった。羽を左右に広げ、二度三度と羽ばたく。
巻き上がった空気がぐるぐると渦を巻いた。
できあがった竜巻は、矢に向かって進み、巻き込み、その方向を変えてしまった。
「ああっ」
いとも簡単に方向を変えられたのが悔しくて、冬樺は声を上げてしまう。
所長は冷静で、表情を変えていない。
先頭の二人が、森を抜けた。
「はあああああ!」
気迫の込められた声が森に響く。佐和の拳が野寺坊に届いた。
ガインと甲高い音がする。
野寺坊は錫杖で、佐和の拳を受け止めていた。だが力に押し切られたのか、一歩下がる。
下がったところに、横手から銀の矢が野寺坊を襲った。
竜巻によって方向を変えられた矢がどこかで方向を変え、妖に向かったらしい。
しかし、矢は野寺坊の袈裟を切り裂いただけで終わり、背後の祠の柱に刺さった。
チッと所長が舌打ちをした。つがえていた矢を再び放つ。今度は真っ直ぐではなくて、木に隠れるように蛇行して。どうやら所長は矢を自由自在に動かせるようだ。
佐和に二歩ほど遅れて夏樹も到達していた。体を捻って右腕を引きながら、高く跳躍した。勢いのまま、一つ目入道に向かっていく。
一つ目入道は余裕の笑みを浮かべ、着物の懐に左手を突っ込んだまま、赤い光をまとった拳を振り下ろす夏樹をよけた。
ぼこっという音の後に土煙が巻き上がり、冬樺のいる場所まで振動を感じた。
「ぐわっ。小僧!」
一つ目入道が不愉快そうな銅鑼声を上げて、目を抑える。
地面に穴を開けた夏樹が、土を掴み投げつけたのだろう。
初歩的な手に引っかかるとは、以外にも間抜けな妖だった。
一つ目入道が怯んだ隙を見逃す夏樹では当然なかった。
外国人レスラー並の体格をもつ一つ目入道の胴体へ、拳を叩きこむ。
瞬きを数回する間に何発入れたのか。冬樺の目では赤い線をひく残像にしか見えなかったが、一つ目入道の重たそうな体が傾いた。
しかし一つ目入道もやられたままではなかった。右足を引いてふんばり、左手を懐から抜いて振りかぶった。
丸太のように太い腕を、夏樹はひょいと身軽な動きで腕をよけた。ただし相手は人ではなく妖。風圧には妖力がこもっていた。
夏樹が煽られ、バランスを崩す。
一つ目入道が組んだ両手を頭の上に持ち上げた。目をうっすらと開いている。
その目に所長の銀の矢が突き立った。
「ぎゃっっ!」
短い悲鳴を上げてのけ反る。
バランスを崩していた夏樹が地面に手をつき、体をひねった。遠心力でもって一つ目入道を蹴り上げる。
首と足に蹴りが入った一つ目入道は、横手に吹っ飛んで行った。佐和と闘っていた野寺坊を巻き込んで。
佐和がちらりとこっちに顔を向けた。
所長が親指を上げると、二人は妖が吹っ飛んだ方に走っていった。
「所長、陰摩羅鬼はどうなっているんでしょう」
一つ目入道と野寺坊にばかり目がいってしまって、怪鳥の姿を見失っていた。
「上空だよ。俺の矢で誘導した」
ここからは茂った木が邪魔をして、上空は見えない。
耳を澄ませると、金切声が聴こえてきた。
「俺も向こうに行くけど、冬樺は隠れているように。万一妖に襲われそうになったら、これを妖に投げつけて」
パールのような艶々した銀色の玉を手渡される。
「これは?」
「僕の矢を封印した珠だよ。ようく狙いをつけるんだよ。万一外れても妖を感知して飛び出すようにしているけど、直に当たった方が、威力が高いからね、今の冬樺の妖力なら、反応しないと思うから」
「新月だと、僕に向かってくる可能性もあるってことですね」
「そういうこと。使用しなかったら、回収するよ」
そう言うと、所長は廃寺に向かって進んだ。
一人取り残された冬樺は、とたんに心細くなる。
誰のものかわからない声が響いて不気味だし、近くでがさりと音がして、体が縮こむ。
三人のように戦えたらと思うけれど、忌まわしい記憶が体を硬くさせる。
物心つく前から、父と兄に殴られた。やり返そうとしても、力が違い過ぎて歯が立たなかった。同じ体格の兄にすら、まったく適わない。
諦めてやられっぱなしになると、兄は飽きて父に相手をせがんだ。
弱い冬樺に打たれ強くなるからと、父は容赦なかった。ほとんど暴行だったと思うのだが、幼い頃はそれが当たり前なのだと思っていた。
母は毎日血だらけで傷をつくる兄弟を、行き過ぎたケンカだと思っていたらしい。看護師である母が、「ケンカばっかりしちゃだめよ。仲良くしなさいね」と手早く処置してくれた。
ある日母から「毎日どうして怪我ばかりするの?」と訊ねられて話した。母の顔色が変わり、父の行為はおかしいのだと気がついた。
成長にともない、冬樺の方があきらかに怪我が酷くなっていて、母は不審に感じたらしい。
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父がバケモノだったこと、父に戸籍がないせいで、母と籍が入っていないばかりか、冬樺たちの戸籍すらなかったこと。
父と兄から距離を取れ、痛い思いをしないですんだが、冬樺は血や暴力シーンが苦手になっていた。
年を重ねて少しはましになったものの、夏樹とダルマの思わぬ戦闘行為に、血の気が引いた。
足が動かなくて、体ががたがたと震えた。
しかし夏樹が、ダルマと人を引き剥がそうと奮闘している姿を見て、怖がっているだけではだめだと、奮い立たせた。
人を守ろうとしている夏樹の邪魔にならないように動こうと、人を避難させようとした。
結果的に、夏樹に怪我をさせてしまった。
天狗の揚羽さまのお陰ですぐに治癒したものの、足を引っ張った事実は変わらない。
事務所を辞めよう。
考えた末そう決めたのに、電話をかけてきた夏樹はいつもと同じで、その明るさに冬樺は救われた。
気が楽になり、辞めるのは保留にした。
あの父と同じ血が流れている。いつか狂ってしまうかもしれない。人とは距離を置こう。
最初は寂しかったけれど、父と兄を思い出したら寂しさは消えた。人を傷つけてしまう恐ろしさの方が上回った。
学生時代、作った壁を乗り越えようとする物好きはいた。冬樺が何の反応も示さないでいるとすぐに飽きられた。
夏樹も彼らと同じだろうと思っていた。壁を乗り越えようとするのは最初だけ。無愛想な冬樺にそのうち愛想を尽かすだろうと。
冬樺のせいで怪我をしても、重い過去を知った今も、変わらない態度で接してくる。
所長も佐和もだ。二人は大人だから、親に近い思いで見守ってくれていると感じていた。
夏樹があんなに明るく、めげないのは、二人の影響なのかもしれない。
やたら名前呼びを求められるのは辟易しているけれど。
そんな友だちみたいなこと、恥ずかしくてできない。冬樺と夏樹は同僚であって、友人ではないのだから。
*
「‥‥‥か。と‥‥‥か」
三人の姿が見えなくなったことで、冬樺は自身の心の奥深くに潜ってしまっていた。名前らしきものを呼ばれてはっとし、意識を浮上させる。
声が聞こえた背後を振り返ると、
「岩倉さん?」
そこには全身ぼろぼろの夏樹が立っていた。木に手をつき、よろよろと歩いてくる。
顔の半分は血に塗れ、左手は骨が折れたのか関節が外れたのか、力なくぶらんと揺れている。左足をひきずりながら少し進んだが、すぐに力尽きたように、木にもたれた。
はあはあと激しい呼吸を繰り返している。
「だ、大丈夫ですか」
どうみても満身創痍で、大丈夫には見えないのに。言葉が出てこなくて、ありきたりな声掛けをしてしまった。
救急セットは用意していない。車に戻ればあるのかもしれないが、こんな状態で下山できるのだろうか。
「肩‥‥‥貸して」
消え入りそうな声。
そうか。支えが必要なんだ。
夏樹らしくない光景に気が動転してしまい、助けを求められるまでその必要性に気が回らなかった。
「そちらに行きます」
ゆっくりと近づいていく。
壮絶な顔で、夏樹が手を伸ばしてくる。その手を取ろうとして――
「冬樺!!!」
大声で制され、冬樺は動きを止めた。手を伸ばしたまま、固まる。
目の前にいた夏樹が、一瞬で姿を消した。
幹に所長の弓が二本突き刺さる。
がさがさと草をかきわける音が素早く遠ざかっていった。
「冬樺。騙されんな」
夏樹は違う場所にいた。怪我ひとつしていない、元気そうな姿で。
「あの‥‥‥怪我は?」
「さっきのは川獺や。冬樺は騙されたんや」
「川獺?」
「冬樺が言うたんやで。川獺は化かすことが得意って」
「そうですけど‥‥‥今のあなたが川獺でない証拠はあるんですか?」
「呆然としとったくせに、急に冬樺節ぶちこんでくんなや。オレがあんな無様なやられ方するわけないやろ。オレ強いんやで」
「一つ目入道も相当強そうでしたけど」
「体でかいだけ、全然大したことなかったわ」
「とどめをさしたのは俺だけどな」
所長の返答が、どこかから響いてきた。
「矢の効果が出るまで弱らせたんは、オレや」
夏樹が言い返す。
「そうだな。よくやった」
「そういうことや。一つ目入道は退治した。鳥も所長が退治した。あとは佐和さんの野寺坊だけ」
「そうでしたか。お疲れ様でした」
「信じてくれたん」
「はい。一応」
「一応って、疑い深いな。それをさっきも発揮してほしかったな」
苦笑しながらも、冗談めかした口調で言う。
夏樹たちのことを考えていたタイミングを突かれて騙された。とは口が裂けても言えない。
こぼしてしまえば、喜んでからかってくるだろう。「実はオレらのことめっちゃ好きなんやん」とか「ツンデレか」とか、にこにこしながら言うに違いない。肩に腕を回しながらとか。
べとべとするのもされるのも苦手だから、つけ込まれないようにしないと。
「川獺の化け方が秀逸だったんですよ」
なぞに川獺を褒める返事になってしまった。
「そんなにそっくりやったん? オレ一瞬しか見てないねん。ちょっと見たかったかも」
「友だちになったらどうですか? カマイタチと仲良くなれたんですから、川獺だって似たようなようなものでしょう」
「できるかもしれへんな。おーい川獺、オレと仲良うせえへん?」
歩きながら呼びかける夏樹。
「ちょっと、呼びかけないでくださいよ。本当に来たらどうするんです」
「友だちになるんやったら、来てもらわなあかんやん」
「また誰かに化けたらどうするんですか」
「妖力と霊力は見たら違うんやから、騙されへんよ。おーい、川獺」
「区別できるんですか」
「できるよ。なんかこう、ゆらめき方が違うっていうか」
手でゆらめき方を表現しながら説明しようとする。
「妖力はこんな風に尖がってて、霊力は波みたいで」
ぜんぜんわからない。
「マジでわからへんの?」
冬樺を見て、体をのけぞらせた。
その途端、夏樹の姿がまた冬樺の視線から消えた。
もしかして騙されていたのかと身構えたが、
「いたたた」
足を滑らせただけらしく、夏樹は尻もちをついていた。
「何やってるんですか」
やれやれと助け起こすために近寄ろうとしたところに、
「人間めえ!!!」
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「やっば」
夏樹が焦った声を出すが、立ち上がらない。足でもくじいたのだろうか。
山姥の見た目は老婆だが、足は俊敏だった。冬樺が三歩ほど先にいる夏樹を助け起こしたところで、すぐに追いつかれそうだ。
「そうだ。珠」
冬樺は右手に握りしめていた小さな珠を、山姥に向かって投げつけた。
「ぐえっ」
小さな珠が額に命中した直後、銀色の光がほとばしった。
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