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番外3
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――夏の陽射しを浴びて光り輝く海。南国の鮮やかな花が咲く海辺の白浜と、上空を流れ棚引く桜島の噴煙。
朝から畑に出ている夫と子ども達に昼飯の弁当を届けに行く途中、背中の赤子が泣き出した。こうなることを見越して出かける前にたっぷり乳を飲ませてきたというのに、まったく、たいした大食漢の赤ん坊だ。産着の中で顔を真っ赤にして、泣いてわめいてあまりにうるさいので、風呂敷包みを地面に置き、切り株に腰かけて襟をくつろげた。赤子は小さな手を目いっぱい伸ばして、母の乳房に一心不乱に食らいついている。お小夜がこれまでに生んだ子は三人――今の夫に嫁ぐ前、密かに産み落とした赤子を入れれば四人目だが、この子はこれまでに産んだどの子よりも、食欲旺盛のように思う。
お小夜は元々、過去に摂政や関白も勤めた藤原家の傍流の傍流のそのまた傍流――くらいの貴族の出身である。女子の成人である裳着の時には、祖父は「時代が違えば、お前は時の帝のお妃になっていたかもしれないのに」と言って嘆いていた。ちなみにこの祖父と父はその数年後、娘が家の役に立つのは当然のことだと言って、お小夜を堺の遊郭に売り飛ばそうとした。反対した母が必死で伝手を辿って、仁孝天皇の妾妃であった観行院の実家に押し込んでくれなかったなら、今頃はきっと、豪商の妾にでもなるか、堺の商人達を相手に身体を売って暮らしていたことだろう。
――そう、お前、お小夜というの。わたし、ずっと妹が欲しかったのよ。どうか姉だと思って。仲良くしましょうね。
女主人となる和宮とは、観行院の実家である橋本邸で出会った。
和宮はまだ母の胎内にいるうちに、父・仁孝天皇を亡くしている。生まれる前に父を亡くした薄幸の皇女は、母親や祖父だけでなく、異母兄の孝明天皇にもたいそう可愛がられていた。
皇族の一つ有栖川宮家への縁組が決まっていた和宮に将軍家への輿入れの話が来た時、兄天皇は実の父の顔を知らない可哀想な妹に、そんな苦労はさせられないと激怒したそうだ。――父親が生きていたって、その父親に売り飛ばされる娘もいるというのに、何がそれほど可哀想なのか。お小夜はその頃から和宮と周囲の人間達の様子を呆れながら見ていた。天皇の怒りも虚しく江戸への輿入れが決まった後、悲劇の主人公気取りで泣いて暮らしている和宮に対しては、馬鹿らしい……としか思わなかった。しかも散々泣いて嫌がっていたくせに、いざ江戸にやってきて夫の家茂に優しくされたら、すっかり絆されてすぐに心寄せるようになったのだから、笑い話にもなりはしない。
肉親の愛情をたっぷり受けて、何不自由なく育てられた「薄幸」の姫宮。
お小夜はずっと和宮が大嫌いだった。だから奪ってやったのだ。彼女が何よりも欲していた――夫・家茂の心を。
お小夜は家茂を嫌ってはいなかったが、特段、男性として好いてはいなかった。家茂自身は政略結婚で娶った正室を愛そうと努力していたようだったから、お小夜がそのつもりで近づかなかったなら、案外あっさり相思相愛の夫婦になったのではないだろうか。悪いことをしたとは微塵も思っていない。和宮だって「上さんの御望みや」の一言だけで、こちらの意思などまるで聞かずお小夜を家茂の閨に送り込んだのだから、お互い様だろう。
「――あ、母上だ!父上、母上が来ましたよ!」
赤子に乳を含ませていると、長男の声がして、畑仕事を一段落したらしい夫が手拭いで顔を拭いながら道を歩いて来るのが見えた。夫は元・薩摩藩士であり、お小夜が家茂の子を身ごもって薩摩島津藩邸に匿われていた頃に知り合った。生まれた子は子どものいない商人の家に貰われて行った。お小夜にも産んだ子に対する情はあったので、何度かこっそり様子を見に行って、義理の両親に実の子のように可愛がられていることを確認した上で薩摩に来た。きっとあのまま徳川とも島津とも関係のないところで、元気に育って行ってくれることだろう。
「――母上、弁当はこれですか?お腹が空きました、早く食べましょう!」
「待て待て、そう慌てるな。一気に食うとまたむせるぞ」
「父上の言う通りですよ。たくさんあるから。たんとお上がりなさい」
ようやく赤子が乳から離れたので背中をさすってやると、可愛らしくけぷっ……とげっぷをした。先ほど夫と息子が通ってきたあぜ道を、少し遅れてやってくる娘の姿も見える。武家の世が終わった後、刀を鍬に持ち替えた夫は、案外そちらの方が向いていたようで、毎日せっせと畑仕事にいそしむ彼の身体は、出会ったころよりも逞しく頼もしくなっている。
没落貴族の娘でも皇女の侍女でも――将軍家の側室でもない。愛する夫と可愛い子ども達に囲まれた百姓の妻の頭上に、目に沁みるほどの青が広がっていた。
朝から畑に出ている夫と子ども達に昼飯の弁当を届けに行く途中、背中の赤子が泣き出した。こうなることを見越して出かける前にたっぷり乳を飲ませてきたというのに、まったく、たいした大食漢の赤ん坊だ。産着の中で顔を真っ赤にして、泣いてわめいてあまりにうるさいので、風呂敷包みを地面に置き、切り株に腰かけて襟をくつろげた。赤子は小さな手を目いっぱい伸ばして、母の乳房に一心不乱に食らいついている。お小夜がこれまでに生んだ子は三人――今の夫に嫁ぐ前、密かに産み落とした赤子を入れれば四人目だが、この子はこれまでに産んだどの子よりも、食欲旺盛のように思う。
お小夜は元々、過去に摂政や関白も勤めた藤原家の傍流の傍流のそのまた傍流――くらいの貴族の出身である。女子の成人である裳着の時には、祖父は「時代が違えば、お前は時の帝のお妃になっていたかもしれないのに」と言って嘆いていた。ちなみにこの祖父と父はその数年後、娘が家の役に立つのは当然のことだと言って、お小夜を堺の遊郭に売り飛ばそうとした。反対した母が必死で伝手を辿って、仁孝天皇の妾妃であった観行院の実家に押し込んでくれなかったなら、今頃はきっと、豪商の妾にでもなるか、堺の商人達を相手に身体を売って暮らしていたことだろう。
――そう、お前、お小夜というの。わたし、ずっと妹が欲しかったのよ。どうか姉だと思って。仲良くしましょうね。
女主人となる和宮とは、観行院の実家である橋本邸で出会った。
和宮はまだ母の胎内にいるうちに、父・仁孝天皇を亡くしている。生まれる前に父を亡くした薄幸の皇女は、母親や祖父だけでなく、異母兄の孝明天皇にもたいそう可愛がられていた。
皇族の一つ有栖川宮家への縁組が決まっていた和宮に将軍家への輿入れの話が来た時、兄天皇は実の父の顔を知らない可哀想な妹に、そんな苦労はさせられないと激怒したそうだ。――父親が生きていたって、その父親に売り飛ばされる娘もいるというのに、何がそれほど可哀想なのか。お小夜はその頃から和宮と周囲の人間達の様子を呆れながら見ていた。天皇の怒りも虚しく江戸への輿入れが決まった後、悲劇の主人公気取りで泣いて暮らしている和宮に対しては、馬鹿らしい……としか思わなかった。しかも散々泣いて嫌がっていたくせに、いざ江戸にやってきて夫の家茂に優しくされたら、すっかり絆されてすぐに心寄せるようになったのだから、笑い話にもなりはしない。
肉親の愛情をたっぷり受けて、何不自由なく育てられた「薄幸」の姫宮。
お小夜はずっと和宮が大嫌いだった。だから奪ってやったのだ。彼女が何よりも欲していた――夫・家茂の心を。
お小夜は家茂を嫌ってはいなかったが、特段、男性として好いてはいなかった。家茂自身は政略結婚で娶った正室を愛そうと努力していたようだったから、お小夜がそのつもりで近づかなかったなら、案外あっさり相思相愛の夫婦になったのではないだろうか。悪いことをしたとは微塵も思っていない。和宮だって「上さんの御望みや」の一言だけで、こちらの意思などまるで聞かずお小夜を家茂の閨に送り込んだのだから、お互い様だろう。
「――あ、母上だ!父上、母上が来ましたよ!」
赤子に乳を含ませていると、長男の声がして、畑仕事を一段落したらしい夫が手拭いで顔を拭いながら道を歩いて来るのが見えた。夫は元・薩摩藩士であり、お小夜が家茂の子を身ごもって薩摩島津藩邸に匿われていた頃に知り合った。生まれた子は子どものいない商人の家に貰われて行った。お小夜にも産んだ子に対する情はあったので、何度かこっそり様子を見に行って、義理の両親に実の子のように可愛がられていることを確認した上で薩摩に来た。きっとあのまま徳川とも島津とも関係のないところで、元気に育って行ってくれることだろう。
「――母上、弁当はこれですか?お腹が空きました、早く食べましょう!」
「待て待て、そう慌てるな。一気に食うとまたむせるぞ」
「父上の言う通りですよ。たくさんあるから。たんとお上がりなさい」
ようやく赤子が乳から離れたので背中をさすってやると、可愛らしくけぷっ……とげっぷをした。先ほど夫と息子が通ってきたあぜ道を、少し遅れてやってくる娘の姿も見える。武家の世が終わった後、刀を鍬に持ち替えた夫は、案外そちらの方が向いていたようで、毎日せっせと畑仕事にいそしむ彼の身体は、出会ったころよりも逞しく頼もしくなっている。
没落貴族の娘でも皇女の侍女でも――将軍家の側室でもない。愛する夫と可愛い子ども達に囲まれた百姓の妻の頭上に、目に沁みるほどの青が広がっていた。
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