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「――上様は、宮様に冷たすぎます」
手を腰に、桜色の唇を愛らしくすぼませた少女にそう言われたのは、大陸からやってきた珍しい色の小鳥を籠に入れ、妻の居室に届けにきた時のことだった。
時刻は正午を少し回ったところで、大奥の居室に妻の和宮はいなかった。母親の観行院と共に、庭にでも出かけているのかもしれない。そもそも、政務の合間の息抜きをかねてのことで、夜のお渡りとは違うのだから、訪ねた時間に妻がいなくとも責めるいわれはない。
それでも顔くらい見てから戻ろうかと、妻の部屋に腰を落ち着けた家茂に、たすきがけをして、白い腕をむき出しにした少女が与えたのが、冒頭の一言だった。女主人二人がいない間に、部屋の掃除でもしていたのだろう。勇ましく頬かむりをして、手には、はたきを持っている。
「――安(やす)」
和宮は彼女の主人で、家持はその夫だ。歓迎せよ、とまでは言わずとも茶の一杯くらい振舞ったところでバチはあたらない。しかし、征夷大将軍、部門の頭領、そして自らの女主人の夫を相手に啖呵を切って見せた少女は悪ぶれもせず、手にしたはたきを、ぱさり、と揺らして見せた。
「さあ、そこをどいて下さいまし。お二人が戻ってくるより先に、掃除を終わらせなければならないのですから」
「そんなものは後回しでよい。俺のどこか冷たいのか、是非とも教えてもらいたいものだな」
少女の振ったはたきから、埃の塊が振って出る。高いところにある陽の光に照らされて、さながらそれは、触れれば消えてしまう粉雪のようにも見えた。
「冷たい、がお嫌なら、薄情と言い換えてもよろしゅうございますよ。宮様はわたくしにとって姉君にも等しいお方です。そんなお方を泣かせている殿方が、情に厚いお方であるはずもありませんもの」
「俺はわざわざ昼日中、政略結婚で娶った妻に土産をもってご機嫌うかがいにやってくる男だぞ?こんな男のどこか薄情だというのだ」
「――そういうところがです」
まさしく一刀両断、竹で割ったようでもある。立ったまま、はたきで窓の桟を叩きながら、それでも視線だけは真っ直ぐに、家茂を見据えている。
「上様は宮様にお優しくされる。きつい言葉は決しておっしゃらないし、宮様が嫌だと言えば、側室だってお持ちにならない。政略結婚で娶った妻に、政略の為の知略すらお求めにならならない。それが優しさだと思っていられるのでしょう?」
「――そうだ、それのどこがいけない」
「宮様は、上様や他の方々が思っておられるより、ずっと賢くいらっしゃいます。上様がご自分にしてくださることの意味と重みは、すべて承知していらっしゃるんです」
――してもらうことの、意味と重み。家茂にとっての和宮は、妻である以前に、皇室からの大事な預かりものだ。彼女に臍を曲げられて、都に帰るなどと言われた日には、既に求心力の落ちている幕府としては目もあてられない。だから腫れ物に触れるように、決して機嫌を損ねないように、彼女がこの江戸で心安らかに暮らして行けるよう、家茂としては誠心誠意心を配ってきたつもりだ。
――が。
「していただいたことの意味を常にかみ締め、常にそのことに感謝して生き続けなければならないのなら、そんなもの、ただ辛いだけです」
黒く潤んだ瞳にまっすぐに射抜かれて、不覚にも一瞬、家茂は怯んだ。
お安は皇女和宮の侍女、観行院の生家の家司を勤めていた男の姪に当たるとかで、公家といっても下級も下級、ほとんど地下人と代わりのない生まれであったと聞いている。
そんな娘が、蜘蛛の糸より細い縁を伝って天皇の妹の侍女となり、共に江戸に渡って将軍御台所の侍女となった。人が聞けば羨むだろう。妬むだろう。何と言う幸運、その幸福を与えてくれた者たちに感謝し、心より仕え続けることだけが、その恩に報いるたった一つの方法であると。
だが果たしてそれが本当に幸福だろうか。生母と散歩に出かけている姉の居室を掃き清めている自分は恵まれているのだと、他でもない己の胸に言い聞かせて過ごさなければならない日々は。
「……わかった。これからはなるべく、宮様を粗略に扱うよう努力しよう」
「――そういうことを、言っているわけではありません!」
返答に窮した上の戯言に、あまりにも素直すぎる反応をしてくれる。家茂の含み笑いを見て、話が終わったことを感じ取ったのだろう。はたきを手にした少女は今度は箒を手にとって、縁側に下り立った。やっぱり殿方には、女子の心なんかわからないんだわ……などと呟いているところがやけに愛らしい。
「してもらうことの意味と重み、か……」
脇息に片腕をあずけ、持参してきた籠を目の前に翳してみる。妻への贈り物である小鳥は、軽やかな声で鳴いていた。その声に耳を傾けながら、家茂は、たった今自分の目の前から消え去っていった少女を、己が胸で泣かせてやりたいと、思っていた。
手を腰に、桜色の唇を愛らしくすぼませた少女にそう言われたのは、大陸からやってきた珍しい色の小鳥を籠に入れ、妻の居室に届けにきた時のことだった。
時刻は正午を少し回ったところで、大奥の居室に妻の和宮はいなかった。母親の観行院と共に、庭にでも出かけているのかもしれない。そもそも、政務の合間の息抜きをかねてのことで、夜のお渡りとは違うのだから、訪ねた時間に妻がいなくとも責めるいわれはない。
それでも顔くらい見てから戻ろうかと、妻の部屋に腰を落ち着けた家茂に、たすきがけをして、白い腕をむき出しにした少女が与えたのが、冒頭の一言だった。女主人二人がいない間に、部屋の掃除でもしていたのだろう。勇ましく頬かむりをして、手には、はたきを持っている。
「――安(やす)」
和宮は彼女の主人で、家持はその夫だ。歓迎せよ、とまでは言わずとも茶の一杯くらい振舞ったところでバチはあたらない。しかし、征夷大将軍、部門の頭領、そして自らの女主人の夫を相手に啖呵を切って見せた少女は悪ぶれもせず、手にしたはたきを、ぱさり、と揺らして見せた。
「さあ、そこをどいて下さいまし。お二人が戻ってくるより先に、掃除を終わらせなければならないのですから」
「そんなものは後回しでよい。俺のどこか冷たいのか、是非とも教えてもらいたいものだな」
少女の振ったはたきから、埃の塊が振って出る。高いところにある陽の光に照らされて、さながらそれは、触れれば消えてしまう粉雪のようにも見えた。
「冷たい、がお嫌なら、薄情と言い換えてもよろしゅうございますよ。宮様はわたくしにとって姉君にも等しいお方です。そんなお方を泣かせている殿方が、情に厚いお方であるはずもありませんもの」
「俺はわざわざ昼日中、政略結婚で娶った妻に土産をもってご機嫌うかがいにやってくる男だぞ?こんな男のどこか薄情だというのだ」
「――そういうところがです」
まさしく一刀両断、竹で割ったようでもある。立ったまま、はたきで窓の桟を叩きながら、それでも視線だけは真っ直ぐに、家茂を見据えている。
「上様は宮様にお優しくされる。きつい言葉は決しておっしゃらないし、宮様が嫌だと言えば、側室だってお持ちにならない。政略結婚で娶った妻に、政略の為の知略すらお求めにならならない。それが優しさだと思っていられるのでしょう?」
「――そうだ、それのどこがいけない」
「宮様は、上様や他の方々が思っておられるより、ずっと賢くいらっしゃいます。上様がご自分にしてくださることの意味と重みは、すべて承知していらっしゃるんです」
――してもらうことの、意味と重み。家茂にとっての和宮は、妻である以前に、皇室からの大事な預かりものだ。彼女に臍を曲げられて、都に帰るなどと言われた日には、既に求心力の落ちている幕府としては目もあてられない。だから腫れ物に触れるように、決して機嫌を損ねないように、彼女がこの江戸で心安らかに暮らして行けるよう、家茂としては誠心誠意心を配ってきたつもりだ。
――が。
「していただいたことの意味を常にかみ締め、常にそのことに感謝して生き続けなければならないのなら、そんなもの、ただ辛いだけです」
黒く潤んだ瞳にまっすぐに射抜かれて、不覚にも一瞬、家茂は怯んだ。
お安は皇女和宮の侍女、観行院の生家の家司を勤めていた男の姪に当たるとかで、公家といっても下級も下級、ほとんど地下人と代わりのない生まれであったと聞いている。
そんな娘が、蜘蛛の糸より細い縁を伝って天皇の妹の侍女となり、共に江戸に渡って将軍御台所の侍女となった。人が聞けば羨むだろう。妬むだろう。何と言う幸運、その幸福を与えてくれた者たちに感謝し、心より仕え続けることだけが、その恩に報いるたった一つの方法であると。
だが果たしてそれが本当に幸福だろうか。生母と散歩に出かけている姉の居室を掃き清めている自分は恵まれているのだと、他でもない己の胸に言い聞かせて過ごさなければならない日々は。
「……わかった。これからはなるべく、宮様を粗略に扱うよう努力しよう」
「――そういうことを、言っているわけではありません!」
返答に窮した上の戯言に、あまりにも素直すぎる反応をしてくれる。家茂の含み笑いを見て、話が終わったことを感じ取ったのだろう。はたきを手にした少女は今度は箒を手にとって、縁側に下り立った。やっぱり殿方には、女子の心なんかわからないんだわ……などと呟いているところがやけに愛らしい。
「してもらうことの意味と重み、か……」
脇息に片腕をあずけ、持参してきた籠を目の前に翳してみる。妻への贈り物である小鳥は、軽やかな声で鳴いていた。その声に耳を傾けながら、家茂は、たった今自分の目の前から消え去っていった少女を、己が胸で泣かせてやりたいと、思っていた。
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