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徳川幕府十四代将軍である家茂と正室和宮の仲は睦まじかった。それが公武合体を望む周囲の思惑に添ったた夫婦仲であったことは否めない。しかし誰の目にも、同じ齢の若夫婦の語らいは、微笑ましく、好ましく見えた。
「そのお安とやらに上様のお手がついた、と申されるのか」
「いえ」
「……?」
「わたくしが、上様にお安を進めました」
家茂に公式の側室はいない。跡継ぎを心配するには家茂はまだ若すぎるほどに若かったし、朝廷に請い願って娶った和宮の手前、周囲も強いて側妾をすすめようとしはしなかった。
――それが。
「宮様、あなた様、何故、そのような――」
「……上様が、お安を好いておられたからです」
そこではじめて、目の前の女人の目の下が、酷く黒ずんでいることに気がついた。白目が充血し、瞼の上が腫れぼったい。
この人は泣いたのか。政略結婚であてがわれた夫の死を悼んで、たった一人で。
お安は下級の公家の娘で、親を亡くして遠縁にあたる観行院に引き取られ、侍女というよりは和宮の妹のように育てられて江戸に来た。妻の妹分とも呼べる少女を、家茂もはじめは、実の妹のように可愛がっていたという。
「あの方はおっしゃいました。皆がわたし達が仲良い夫婦であることを望んでいる。だから末永く、仲睦まじく過ごそう……と。幾度も、幾度も、まるで誰かに言い聞かせるかのように。ある時、気づいてしまったのです。わたしに向ってそう言いながら、目ではいつもお安のいる場所を追っていることを」
それは妻の侍女に心惹かれている自分自身に対する、戒めの言葉であったのか。随分と惨いことを言ったものだ。和宮が真実家茂を好いていたならば、これほど酷い言葉もあるまいに。
心の奥底で他の女子を思いながら、触れて欲しくなどなかった。皆が望むから、無理をしてわたしを抱くくらいなら、真実好いた人の許へ行っていただきたかった……」
他の女を胸に触れられるのは辛い。だが自分ではない相手を胸に抱く彼(か)の人を思いながら過ごす夜もまた、身を切られるように辛かったに違いない。
「あなた様はそれほど……」
上様を愛しておられたのか。
言葉は空に溶け、音となって流れることはなかった。
愛した相手に、愛さなければと思いつめられて過ごす日々は、さぞかし、辛く、苦しいものであったことだろう。
篤姫の夫家定にも、お須賀の方という側室があった。否、正室を三人も取り替えた家定の側にあって、常に妻でい続けたお須賀こそ、真に家定の正室であったといえる。お須賀にお渡りがあったと知った夜、まんじりともせず明かした夜の長さを、篤姫は未だに忘れてはいない。
「上様の死には、水戸や京方の手が係わっていると聞き及びました。今、お安のことが知れたなら、お安も、上様の御子もただではすみますまい。どうか、どうか。この通り、お願いいたします。お安と上様の御子の命を、お守り下さい」
既に次代の将軍は、水戸の血を引く徳川慶喜に内定している。慶喜は策士だ。亡き家茂の忘れ形見を徳川の子として、そのままにしてはおくまい。
「わかりました。亡き家茂様の御子であれば、わたくしにとっても孫。手を尽くして、お守りしましょう」
余程気を張り詰めていたのだろう。その瞬間、ぱたり、と透明な雫が、尖った顎を伝って手の甲に落ちた。彼女の真意が知れたとはいえ、今更、親しみわくところまでは至れない。けれども、互いに今、同じ相手を脳裏に描いていることだけは間違いがなかった。
「あなた様もわたくしも、大切な方を亡くしてしまったのですね……」
後はもう、言葉にはならないようだった。篤姫は黙って、かつては嫁であった少女が、声もなく泣き伏せる姿を見た。
「そのお安とやらに上様のお手がついた、と申されるのか」
「いえ」
「……?」
「わたくしが、上様にお安を進めました」
家茂に公式の側室はいない。跡継ぎを心配するには家茂はまだ若すぎるほどに若かったし、朝廷に請い願って娶った和宮の手前、周囲も強いて側妾をすすめようとしはしなかった。
――それが。
「宮様、あなた様、何故、そのような――」
「……上様が、お安を好いておられたからです」
そこではじめて、目の前の女人の目の下が、酷く黒ずんでいることに気がついた。白目が充血し、瞼の上が腫れぼったい。
この人は泣いたのか。政略結婚であてがわれた夫の死を悼んで、たった一人で。
お安は下級の公家の娘で、親を亡くして遠縁にあたる観行院に引き取られ、侍女というよりは和宮の妹のように育てられて江戸に来た。妻の妹分とも呼べる少女を、家茂もはじめは、実の妹のように可愛がっていたという。
「あの方はおっしゃいました。皆がわたし達が仲良い夫婦であることを望んでいる。だから末永く、仲睦まじく過ごそう……と。幾度も、幾度も、まるで誰かに言い聞かせるかのように。ある時、気づいてしまったのです。わたしに向ってそう言いながら、目ではいつもお安のいる場所を追っていることを」
それは妻の侍女に心惹かれている自分自身に対する、戒めの言葉であったのか。随分と惨いことを言ったものだ。和宮が真実家茂を好いていたならば、これほど酷い言葉もあるまいに。
心の奥底で他の女子を思いながら、触れて欲しくなどなかった。皆が望むから、無理をしてわたしを抱くくらいなら、真実好いた人の許へ行っていただきたかった……」
他の女を胸に触れられるのは辛い。だが自分ではない相手を胸に抱く彼(か)の人を思いながら過ごす夜もまた、身を切られるように辛かったに違いない。
「あなた様はそれほど……」
上様を愛しておられたのか。
言葉は空に溶け、音となって流れることはなかった。
愛した相手に、愛さなければと思いつめられて過ごす日々は、さぞかし、辛く、苦しいものであったことだろう。
篤姫の夫家定にも、お須賀の方という側室があった。否、正室を三人も取り替えた家定の側にあって、常に妻でい続けたお須賀こそ、真に家定の正室であったといえる。お須賀にお渡りがあったと知った夜、まんじりともせず明かした夜の長さを、篤姫は未だに忘れてはいない。
「上様の死には、水戸や京方の手が係わっていると聞き及びました。今、お安のことが知れたなら、お安も、上様の御子もただではすみますまい。どうか、どうか。この通り、お願いいたします。お安と上様の御子の命を、お守り下さい」
既に次代の将軍は、水戸の血を引く徳川慶喜に内定している。慶喜は策士だ。亡き家茂の忘れ形見を徳川の子として、そのままにしてはおくまい。
「わかりました。亡き家茂様の御子であれば、わたくしにとっても孫。手を尽くして、お守りしましょう」
余程気を張り詰めていたのだろう。その瞬間、ぱたり、と透明な雫が、尖った顎を伝って手の甲に落ちた。彼女の真意が知れたとはいえ、今更、親しみわくところまでは至れない。けれども、互いに今、同じ相手を脳裏に描いていることだけは間違いがなかった。
「あなた様もわたくしも、大切な方を亡くしてしまったのですね……」
後はもう、言葉にはならないようだった。篤姫は黙って、かつては嫁であった少女が、声もなく泣き伏せる姿を見た。
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