空蝉

横山美香

文字の大きさ
上 下
2 / 8

1-2

しおりを挟む
 徳川幕府十四代将軍である家茂と正室和宮の仲は睦まじかった。それが公武合体を望む周囲の思惑に添ったた夫婦仲であったことは否めない。しかし誰の目にも、同じ齢の若夫婦の語らいは、微笑ましく、好ましく見えた。
「そのお安とやらに上様のお手がついた、と申されるのか」
「いえ」
「……?」
「わたくしが、上様にお安を進めました」
 家茂に公式の側室はいない。跡継ぎを心配するには家茂はまだ若すぎるほどに若かったし、朝廷に請い願って娶った和宮の手前、周囲も強いて側妾をすすめようとしはしなかった。
 ――それが。
「宮様、あなた様、何故、そのような――」
「……上様が、お安を好いておられたからです」
 そこではじめて、目の前の女人の目の下が、酷く黒ずんでいることに気がついた。白目が充血し、瞼の上が腫れぼったい。
 この人は泣いたのか。政略結婚であてがわれた夫の死を悼んで、たった一人で。
 お安は下級の公家の娘で、親を亡くして遠縁にあたる観行院に引き取られ、侍女というよりは和宮の妹のように育てられて江戸に来た。妻の妹分とも呼べる少女を、家茂もはじめは、実の妹のように可愛がっていたという。
「あの方はおっしゃいました。皆がわたし達が仲良い夫婦であることを望んでいる。だから末永く、仲睦まじく過ごそう……と。幾度も、幾度も、まるで誰かに言い聞かせるかのように。ある時、気づいてしまったのです。わたしに向ってそう言いながら、目ではいつもお安のいる場所を追っていることを」
 それは妻の侍女に心惹かれている自分自身に対する、戒めの言葉であったのか。随分と惨いことを言ったものだ。和宮が真実家茂を好いていたならば、これほど酷い言葉もあるまいに。
 心の奥底で他の女子を思いながら、触れて欲しくなどなかった。皆が望むから、無理をしてわたしを抱くくらいなら、真実好いた人の許へ行っていただきたかった……」
 他の女を胸に触れられるのは辛い。だが自分ではない相手を胸に抱く彼(か)の人を思いながら過ごす夜もまた、身を切られるように辛かったに違いない。
「あなた様はそれほど……」
 上様を愛しておられたのか。
 言葉は空に溶け、音となって流れることはなかった。
 愛した相手に、愛さなければと思いつめられて過ごす日々は、さぞかし、辛く、苦しいものであったことだろう。
 篤姫の夫家定にも、お須賀の方という側室があった。否、正室を三人も取り替えた家定の側にあって、常に妻でい続けたお須賀こそ、真に家定の正室であったといえる。お須賀にお渡りがあったと知った夜、まんじりともせず明かした夜の長さを、篤姫は未だに忘れてはいない。
「上様の死には、水戸や京方の手が係わっていると聞き及びました。今、お安のことが知れたなら、お安も、上様の御子もただではすみますまい。どうか、どうか。この通り、お願いいたします。お安と上様の御子の命を、お守り下さい」
 既に次代の将軍は、水戸の血を引く徳川慶喜に内定している。慶喜は策士だ。亡き家茂の忘れ形見を徳川の子として、そのままにしてはおくまい。
「わかりました。亡き家茂様の御子であれば、わたくしにとっても孫。手を尽くして、お守りしましょう」
 余程気を張り詰めていたのだろう。その瞬間、ぱたり、と透明な雫が、尖った顎を伝って手の甲に落ちた。彼女の真意が知れたとはいえ、今更、親しみわくところまでは至れない。けれども、互いに今、同じ相手を脳裏に描いていることだけは間違いがなかった。
「あなた様もわたくしも、大切な方を亡くしてしまったのですね……」
 後はもう、言葉にはならないようだった。篤姫は黙って、かつては嫁であった少女が、声もなく泣き伏せる姿を見た。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】斎宮異聞

黄永るり
歴史・時代
平安時代・三条天皇の時代に斎宮に選定された当子内親王の初恋物語。 第8回歴史・時代小説大賞「奨励賞」受賞作品。

【完結】女神は推考する

仲 奈華 (nakanaka)
歴史・時代
父や夫、兄弟を相次いで失った太后は途方にくれた。 直系の男子が相次いて死亡し、残っているのは幼い皇子か血筋が遠いものしかいない。 強欲な叔父から持ち掛けられたのは、女である私が即位するというものだった。 まだ幼い息子を想い決心する。子孫の為、夫の為、家の為私の役目を果たさなければならない。 今までは子供を産む事が役割だった。だけど、これからは亡き夫に変わり、残された私が守る必要がある。 これは、大王となる私の守る為の物語。 額田部姫(ヌカタベヒメ) 主人公。母が蘇我一族。皇女。 穴穂部皇子(アナホベノミコ) 主人公の従弟。 他田皇子(オサダノオオジ) 皇太子。主人公より16歳年上。後の大王。 広姫(ヒロヒメ) 他田皇子の正妻。他田皇子との間に3人の子供がいる。 彦人皇子(ヒコヒトノミコ) 他田大王と広姫の嫡子。 大兄皇子(オオエノミコ) 主人公の同母兄。 厩戸皇子(ウマヤドノミコ) 大兄皇子の嫡子。主人公の甥。 ※飛鳥時代、推古天皇が主人公の小説です。 ※歴史的に年齢が分かっていない人物については、推定年齢を記載しています。※異母兄弟についての明記をさけ、母方の親類表記にしています。 ※名前については、できるだけ本名を記載するようにしています。(馴染みが無い呼び方かもしれません。) ※史実や事実と異なる表現があります。 ※主人公が大王になった後の話を、第2部として追加する可能性があります。その時は完結→連載へ設定変更いたします。  

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

よあけまえのキミへ

三咲ゆま
歴史・時代
時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。 落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。 広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。 京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。

幕末レクイエム―士魂の城よ、散らざる花よ―

馳月基矢
歴史・時代
徳川幕府をやり込めた勢いに乗じ、北進する新政府軍。 新撰組は会津藩と共に、牙を剥く新政府軍を迎え撃つ。 武士の時代、刀の時代は終わりを告げる。 ならば、刀を執る己はどこで滅ぶべきか。 否、ここで滅ぶわけにはいかない。 士魂は花と咲き、決して散らない。 冷徹な戦略眼で時流を見定める新撰組局長、土方歳三。 あやかし狩りの力を持ち、無敵の剣を謳われる斎藤一。 schedule 公開:2019.4.1 連載:2019.4.19-5.1 ( 6:30 & 18:30 )

帰る旅

七瀬京
歴史・時代
宣教師に「見世物」として飼われていた私は、この国の人たちにとって珍奇な姿をして居る。 それを織田信長という男が気に入り、私は、信長の側で飼われることになった・・・。 荘厳な安土城から世界を見下ろす信長は、その傲岸な態度とは裏腹に、深い孤独を抱えた人物だった・・。 『本能寺』へ至るまでの信長の孤独を、側に仕えた『私』の視点で浮き彫りにする。

水野勝成 居候報恩記

尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。 ⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。 ⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。 ⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/ 備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。 →本編は完結、関連の話題を適宜更新。

幕末レクイエム―誠心誠意、咲きて散れ―

馳月基矢
歴史・時代
幕末、動乱の京都の治安維持を担った新撰組。 華やかな活躍の時間は、決して長くなかった。 武士の世の終わりは刻々と迫る。 それでもなお刀を手にし続ける。 これは滅びの武士の生き様。 誠心誠意、ただまっすぐに。 結核を病み、あやかしの力を借りる天才剣士、沖田総司。 あやかし狩りの力を持ち、目的を秘めるスパイ、斎藤一。 同い年に生まれた二人の、別々の道。 仇花よ、あでやかに咲き、潔く散れ。 schedule 公開:2019.4.1 連載:2019.4.7-4.18 ( 6:30 & 18:30 )

処理中です...