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慶応二年夏、江戸に届けられた突然の訃報は、江戸城に激震をもたらした。遠征の為に大阪の地にあった、将軍家茂死去。享年二十一。
外国の圧力に、内部の不満因子。内憂外患の幕府を必死に立て直そうとした青年将軍の早すぎる死によって、徳川幕府の支配力は急速に低下する。
同時にその報せは、長く続いた二人の女の戦いに、終止符を打つものでもあった。
「一体、何の御用でございますか」
江戸城大奥にある自らの居城の一室で、亡き将軍家茂の嫡母、天璋院篤姫は一人の女人と向き合っていた。相手は御台所――亡くなった家茂の正室、和宮親子内親王である。
遠く九州薩摩の島津家から十三代将軍家定に輿入れし、家定亡き後は落飾して大奥を守ってきた篤姫にとって、京からやってきた義理の息子の嫁は、常に頭痛の種であった。
江戸風を嫌って、御所風の生活を改めない。実母の観行院とべったりで、婚家の人間と馴染もうとしない。あげく、和宮直筆の手紙に天璋院と呼び捨てられるにいたって、篤姫は彼女を嫁と思うことを止めた。
その頭痛の種が、家茂の遺体も未だ戻らぬ夏のこの日、自ら姑の居室を訪れでいるのだ。それもおつきの侍女さえ一人も連れぬ、正真正銘のたった一人で。
「黙っておられては、話が見えぬ。宮様じきじきにわたくしの居室に脚を運ばれるとは、よほどのこと。こうして人払いもすんだのじゃ。ご用件を言いなされ」
目の前の豪奢な衣の中に、縮こまった雛のような女人を、扱いかねていささかじれる。京の女子の特徴なのか、はたまたこの宮様自身の性格なのか、覇気というものが欠片も感じられない、篤姫の目から見れば、愚鈍、と呼びたくなるような言動だった。そもそも、この宮様がもう少しうまく立ち回って、朝廷と幕府の仲立ちをしてくれていたならば、身体の弱い家茂を、みすみす遠征になど出さずに済んだのだ。
「……こたびは」
「此度は?」
「天璋院さんに、お願いがあって参りました」
衣に埋もれた雛人形が、蚊の啼くような声で囁いた。意地でも姑(はは)とは呼びたくないのか。それとも「さん」づけになっただけでもましだと思うべきなのか。しかし紡がれた言の葉の内容は、篤姫の想像の範疇を超えていた。
「お安、と申す女子がおります。もとは母上の侍女で、今はわたしの身の回りの世話をさせております」
それがどうした、と棘を含んだ思考で思う。広い大奥にあって顔を合わせる回数は少ないものの、御台所と大御台所、共に並んで儀式に参列することもある。そんな折、和宮の身辺につき従って世話を焼いていた京方の侍女を見ることもあったが、その名を知るところまではいっていない。
「わたしは、江戸に知り合いがおりません。ですから、天璋院さんにお安を預かってもらいたいのです」
「何故(なにゆえ)、わたくしがあなた様の侍女を預からねばならぬのですか」
口調がいささかぞんざいになったことは否めない。将軍、息子、夫の突然の死。幕府にとっても、また徳川という家にとっても一大事のこの時に、この宮様は一体何を言い出すのか。
白塗りの雛人形が、そこではじめて生身の人の顔になって首(こうべ)を上げた。瞳の奥に、光るものが宿る。
「――お安は腹に、上様のやや子を宿しております」
外国の圧力に、内部の不満因子。内憂外患の幕府を必死に立て直そうとした青年将軍の早すぎる死によって、徳川幕府の支配力は急速に低下する。
同時にその報せは、長く続いた二人の女の戦いに、終止符を打つものでもあった。
「一体、何の御用でございますか」
江戸城大奥にある自らの居城の一室で、亡き将軍家茂の嫡母、天璋院篤姫は一人の女人と向き合っていた。相手は御台所――亡くなった家茂の正室、和宮親子内親王である。
遠く九州薩摩の島津家から十三代将軍家定に輿入れし、家定亡き後は落飾して大奥を守ってきた篤姫にとって、京からやってきた義理の息子の嫁は、常に頭痛の種であった。
江戸風を嫌って、御所風の生活を改めない。実母の観行院とべったりで、婚家の人間と馴染もうとしない。あげく、和宮直筆の手紙に天璋院と呼び捨てられるにいたって、篤姫は彼女を嫁と思うことを止めた。
その頭痛の種が、家茂の遺体も未だ戻らぬ夏のこの日、自ら姑の居室を訪れでいるのだ。それもおつきの侍女さえ一人も連れぬ、正真正銘のたった一人で。
「黙っておられては、話が見えぬ。宮様じきじきにわたくしの居室に脚を運ばれるとは、よほどのこと。こうして人払いもすんだのじゃ。ご用件を言いなされ」
目の前の豪奢な衣の中に、縮こまった雛のような女人を、扱いかねていささかじれる。京の女子の特徴なのか、はたまたこの宮様自身の性格なのか、覇気というものが欠片も感じられない、篤姫の目から見れば、愚鈍、と呼びたくなるような言動だった。そもそも、この宮様がもう少しうまく立ち回って、朝廷と幕府の仲立ちをしてくれていたならば、身体の弱い家茂を、みすみす遠征になど出さずに済んだのだ。
「……こたびは」
「此度は?」
「天璋院さんに、お願いがあって参りました」
衣に埋もれた雛人形が、蚊の啼くような声で囁いた。意地でも姑(はは)とは呼びたくないのか。それとも「さん」づけになっただけでもましだと思うべきなのか。しかし紡がれた言の葉の内容は、篤姫の想像の範疇を超えていた。
「お安、と申す女子がおります。もとは母上の侍女で、今はわたしの身の回りの世話をさせております」
それがどうした、と棘を含んだ思考で思う。広い大奥にあって顔を合わせる回数は少ないものの、御台所と大御台所、共に並んで儀式に参列することもある。そんな折、和宮の身辺につき従って世話を焼いていた京方の侍女を見ることもあったが、その名を知るところまではいっていない。
「わたしは、江戸に知り合いがおりません。ですから、天璋院さんにお安を預かってもらいたいのです」
「何故(なにゆえ)、わたくしがあなた様の侍女を預からねばならぬのですか」
口調がいささかぞんざいになったことは否めない。将軍、息子、夫の突然の死。幕府にとっても、また徳川という家にとっても一大事のこの時に、この宮様は一体何を言い出すのか。
白塗りの雛人形が、そこではじめて生身の人の顔になって首(こうべ)を上げた。瞳の奥に、光るものが宿る。
「――お安は腹に、上様のやや子を宿しております」
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