96 / 102
後日談
陽のあたる坂道 4
しおりを挟む
「――おゆいちゃん!おけいちゃん!」
そうこういるうちに賑やかな気配がして、先ほど通ってきた畦道の方角からご近所の猪助一家がやってきた。女ばかり三人姉妹の長女は最近父親が炭を卸している店の息子と縁談がまとまり、時折、るいに行儀作法を習いに来ている。娘の嫁入りが決まってほっとする反面、あの跳ねっ返りが人の妻に……と寂しくも感じている父親の姿は、間違いなく、そう遠くない未来の雅勝自身の姿でもある。
「まあ、綺麗な秋茄子。油揚げまで。ありがとうございます。でもこんなにもらっていいんですか?」
「こないだ樋口様が、うちの障子を直してくれたお礼よ。まったくうちの宿六ときたら、酔っぱらって乱暴に閉めるもんだからさ。しかも壊すだけで、直すってことができないんだから。樋口様がうらやましいわ、まったく」
「おみよちゃん、おさよちゃん、あっちで一緒に遊ぼう!」
「おゆいちゃんちょっと待って。ねえねえ、おるいおばさん。おけいちゃん、抱っこしてもいい?」
女三人寄れば姦しいとはよく言ったものだが、三人どころか両家の妻を含めて六人――赤子もいれると七人もいるので、その騒々しさたるや姦しいを通り越してすさまじい。葉を落とした枝の上で休んでいた鳥たちが、驚いて一斉に飛び去って行くほどの勢いである。猪助は生まれた時には父なし子だったゆいの父親代わりを勤めてくれていて、家族ぐるみで付き合っている。恩義も感じているし人として尊敬もしている。同時に二つの家における男性と女性の比率がありえない割合の為、数の少ない肩身の狭いもの同士としての感情もあった。
「……樋口殿のところの下のお子には期待していたのだがなぁ。お宅はまだ二人とも若いから、ぜひとも三人目には男子をお願いしたいものだ」
「前にも言ったと思うが、人の家の子の性別に勝手に期待をするのはやめてもらいたい。――息子が欲しいのなら、自分で挑戦すればよかろう」
猪助の妻はまだ三十代であり、子どもを望めない年齢ではない。世間では年の離れた末っ子を「恥かきっこ」などと揶揄するむきもあるが、猪助は次の里長候補と目されるほど甲斐性のある男だから、もう一人くらい子がいても何の問題もないだろう。
「いやぁ、三人目までは俺もそう思って頑張ったんだけどさ。これからもう一人こさえてもなぁ……また娘が生まれちまいそうで」
「それはうちも同じ気がするのだが……」
互いの妻が聞いたなら、命懸けで産むのはこちらだと目をむいて怒り出すこと確実なので、肩身の狭い男同士、ささやき声で語り合った。男が生まれるか女は生まれるかは天の配剤である。そういえばこないだ、里で暮らす若夫婦にめでたく元気な男児が生まれたと聞いたから、きっと広い世のどこかには、男ばかりが生まれている家もあるのだろう。そうでなければ、娘達の嫁ぎ先がなくなってしまう。
「そういえば先日、お宅に外からの客人があったようだが、あの客人はこれからもたびたびやって来るのか?」
さすがは次期里長候補殿である。先ほどまでの情けなくも慈愛に溢れた父親の顔はなく、険しい眼光には忍び特有の底光りするような鋭さがある。どうやらそのことを確かめる為に、妻子を連れて家族総出で訪ねてきたらしい。
「……昔の知り合い、いや、弟のような者だ。丁重にもてなして帰ってもらったから、もう二度とこの里に来ることはないはずだ」
――行仁、お前は忠雅のことを見くびっていないか。あいつが本当に俺の力を必要としているのなら、自分でそう言って寄越すはずだ。影衆なんてものはなくとも、あいつなら己の力で為すべきことを成し遂げる。清水忠雅はそういう男だ。
義父はなかなか手広く商売を行っており、その手伝いをしている雅勝も最低限の世の流れは把握している。第四代藩主・武智雅久の死によって君水藩は消滅した。明野領が君水藩の一部であることを逆手に取った雅久が死の直前、その土地を弟の武智行久に譲ってしまった為、明野領の自治はかろうじて守られたが、最近、領主の行久が病に伏し、後を継ぐべき男子はいない。明野領の家老職である忠雅が難しい立場に立たされていることは、想像がついていた。
だが雅勝は行仁の誘いを断った。隠密稼業はもうこりごりだという己の心情はもちろん、忠雅自身が求めていないのにしゃしゃり出たところで、良い目は出ないと判断したからだ。
もしも忠雅が自ら、雅勝に力を貸して欲しいと求めてきたならば。その時には何を置いてでも手を差し伸べようと思っている。そのことについては既に夫婦で話し合い、るいもまた「清水様を助ける為であれば、家のことは気にせずに行ってくれ」と言ってくれた。だが忠雅の性格を考えると、この先何が起こっても、雅勝にだけは何も言って来ないような気がしないでもない。
「……そうか。樋口殿はこの里に骨を埋める覚悟したか」
「いや、覚悟も何も俺にはここより他に行くところなどないからな……頼むから、追い出さないでもらいたい」
ちなみに「丁重に」という言葉は嘘でも偽りでも何でもない。久しぶりの再会だし、せっかくここまで来たのだからと家に入れて飯を食わせてやったら、人見知りもなければ物怖じもしないゆいに遊んでくれ、町の話を聞かせてくれ、海とはどんなところかとまとわりつかれて大汗をかいていた。しまいには膝の上でけいに大泣きされて、一刻もたたないうちにほとんど逃げるようにして帰って行ったから、もう自主的にやってくることはないだろう。後でるいに、我が子を嫌がらせの道具に使うなと叱られたが、嫌がらせをしたつもりは毛頭ない。多分そうなると思って子ども達をけしかけたのは事実だが、奴だってこの先、好いた女と所帯を持って子を儲けることがあるだろうから、将来の為のよい経験としてもらいたい。
「お母様!けいがおしっこしちゃった!」
「襁褓を変えるから、こっちに連れてきて!」
昨年の冬には晴れた雪の朝に、娘と雪遊びをするという楽しさを教えてもらった。雪が溶ける頃には山で山菜を取り、青葉の季節には里人総出で田植えをして――その頃にはきっと下の娘も元気に歩き回っていることだろう。
誰に命じられたわけでも、押し付けられたわけでもない。生まれて初めて得た己の居場所。いずれ地獄に落ちるその時まで、今ここにある幸せを全身全霊で守って行こう。
暖かな陽射しと青い空。笑っている妻と娘。今日の後に続いて行く明日。
――本当に欲しかったものが、ここにあった。
そうこういるうちに賑やかな気配がして、先ほど通ってきた畦道の方角からご近所の猪助一家がやってきた。女ばかり三人姉妹の長女は最近父親が炭を卸している店の息子と縁談がまとまり、時折、るいに行儀作法を習いに来ている。娘の嫁入りが決まってほっとする反面、あの跳ねっ返りが人の妻に……と寂しくも感じている父親の姿は、間違いなく、そう遠くない未来の雅勝自身の姿でもある。
「まあ、綺麗な秋茄子。油揚げまで。ありがとうございます。でもこんなにもらっていいんですか?」
「こないだ樋口様が、うちの障子を直してくれたお礼よ。まったくうちの宿六ときたら、酔っぱらって乱暴に閉めるもんだからさ。しかも壊すだけで、直すってことができないんだから。樋口様がうらやましいわ、まったく」
「おみよちゃん、おさよちゃん、あっちで一緒に遊ぼう!」
「おゆいちゃんちょっと待って。ねえねえ、おるいおばさん。おけいちゃん、抱っこしてもいい?」
女三人寄れば姦しいとはよく言ったものだが、三人どころか両家の妻を含めて六人――赤子もいれると七人もいるので、その騒々しさたるや姦しいを通り越してすさまじい。葉を落とした枝の上で休んでいた鳥たちが、驚いて一斉に飛び去って行くほどの勢いである。猪助は生まれた時には父なし子だったゆいの父親代わりを勤めてくれていて、家族ぐるみで付き合っている。恩義も感じているし人として尊敬もしている。同時に二つの家における男性と女性の比率がありえない割合の為、数の少ない肩身の狭いもの同士としての感情もあった。
「……樋口殿のところの下のお子には期待していたのだがなぁ。お宅はまだ二人とも若いから、ぜひとも三人目には男子をお願いしたいものだ」
「前にも言ったと思うが、人の家の子の性別に勝手に期待をするのはやめてもらいたい。――息子が欲しいのなら、自分で挑戦すればよかろう」
猪助の妻はまだ三十代であり、子どもを望めない年齢ではない。世間では年の離れた末っ子を「恥かきっこ」などと揶揄するむきもあるが、猪助は次の里長候補と目されるほど甲斐性のある男だから、もう一人くらい子がいても何の問題もないだろう。
「いやぁ、三人目までは俺もそう思って頑張ったんだけどさ。これからもう一人こさえてもなぁ……また娘が生まれちまいそうで」
「それはうちも同じ気がするのだが……」
互いの妻が聞いたなら、命懸けで産むのはこちらだと目をむいて怒り出すこと確実なので、肩身の狭い男同士、ささやき声で語り合った。男が生まれるか女は生まれるかは天の配剤である。そういえばこないだ、里で暮らす若夫婦にめでたく元気な男児が生まれたと聞いたから、きっと広い世のどこかには、男ばかりが生まれている家もあるのだろう。そうでなければ、娘達の嫁ぎ先がなくなってしまう。
「そういえば先日、お宅に外からの客人があったようだが、あの客人はこれからもたびたびやって来るのか?」
さすがは次期里長候補殿である。先ほどまでの情けなくも慈愛に溢れた父親の顔はなく、険しい眼光には忍び特有の底光りするような鋭さがある。どうやらそのことを確かめる為に、妻子を連れて家族総出で訪ねてきたらしい。
「……昔の知り合い、いや、弟のような者だ。丁重にもてなして帰ってもらったから、もう二度とこの里に来ることはないはずだ」
――行仁、お前は忠雅のことを見くびっていないか。あいつが本当に俺の力を必要としているのなら、自分でそう言って寄越すはずだ。影衆なんてものはなくとも、あいつなら己の力で為すべきことを成し遂げる。清水忠雅はそういう男だ。
義父はなかなか手広く商売を行っており、その手伝いをしている雅勝も最低限の世の流れは把握している。第四代藩主・武智雅久の死によって君水藩は消滅した。明野領が君水藩の一部であることを逆手に取った雅久が死の直前、その土地を弟の武智行久に譲ってしまった為、明野領の自治はかろうじて守られたが、最近、領主の行久が病に伏し、後を継ぐべき男子はいない。明野領の家老職である忠雅が難しい立場に立たされていることは、想像がついていた。
だが雅勝は行仁の誘いを断った。隠密稼業はもうこりごりだという己の心情はもちろん、忠雅自身が求めていないのにしゃしゃり出たところで、良い目は出ないと判断したからだ。
もしも忠雅が自ら、雅勝に力を貸して欲しいと求めてきたならば。その時には何を置いてでも手を差し伸べようと思っている。そのことについては既に夫婦で話し合い、るいもまた「清水様を助ける為であれば、家のことは気にせずに行ってくれ」と言ってくれた。だが忠雅の性格を考えると、この先何が起こっても、雅勝にだけは何も言って来ないような気がしないでもない。
「……そうか。樋口殿はこの里に骨を埋める覚悟したか」
「いや、覚悟も何も俺にはここより他に行くところなどないからな……頼むから、追い出さないでもらいたい」
ちなみに「丁重に」という言葉は嘘でも偽りでも何でもない。久しぶりの再会だし、せっかくここまで来たのだからと家に入れて飯を食わせてやったら、人見知りもなければ物怖じもしないゆいに遊んでくれ、町の話を聞かせてくれ、海とはどんなところかとまとわりつかれて大汗をかいていた。しまいには膝の上でけいに大泣きされて、一刻もたたないうちにほとんど逃げるようにして帰って行ったから、もう自主的にやってくることはないだろう。後でるいに、我が子を嫌がらせの道具に使うなと叱られたが、嫌がらせをしたつもりは毛頭ない。多分そうなると思って子ども達をけしかけたのは事実だが、奴だってこの先、好いた女と所帯を持って子を儲けることがあるだろうから、将来の為のよい経験としてもらいたい。
「お母様!けいがおしっこしちゃった!」
「襁褓を変えるから、こっちに連れてきて!」
昨年の冬には晴れた雪の朝に、娘と雪遊びをするという楽しさを教えてもらった。雪が溶ける頃には山で山菜を取り、青葉の季節には里人総出で田植えをして――その頃にはきっと下の娘も元気に歩き回っていることだろう。
誰に命じられたわけでも、押し付けられたわけでもない。生まれて初めて得た己の居場所。いずれ地獄に落ちるその時まで、今ここにある幸せを全身全霊で守って行こう。
暖かな陽射しと青い空。笑っている妻と娘。今日の後に続いて行く明日。
――本当に欲しかったものが、ここにあった。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
消された過去と消えた宝石
志波 連
ミステリー
大富豪斎藤雅也のコレクション、ピンクダイヤモンドのペンダント『女神の涙』が消えた。
刑事伊藤大吉と藤田建造は、現場検証を行うが手掛かりは出てこなかった。
後妻の小夜子は、心臓病により車椅子生活となった当主をよく支え、二人の仲は良い。
宝石コレクションの隠し場所は使用人たちも知らず、知っているのは当主と妻の小夜子だけ。
しかし夫の体を慮った妻は、この一年一度も外出をしていない事は確認できている。
しかも事件当日の朝、日課だったコレクションの確認を行った雅也によって、宝石はあったと証言されている。
最後の確認から盗難までの間に人の出入りは無く、使用人たちも徹底的に調べられたが何も出てこない。
消えた宝石はどこに?
手掛かりを掴めないまま街を彷徨っていた伊藤刑事は、偶然立ち寄った画廊で衝撃的な事実を発見し、斬新な仮説を立てる。
他サイトにも掲載しています。
R15は保険です。
表紙は写真ACの作品を使用しています。

大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
百物語 厄災
嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。
小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。

お江戸を指南所
朝山みどり
歴史・時代
千夏の家の門札には「お江戸を指南所」とおどけた字で書いてある。
千夏はお父様とお母様の三人家族だ。お母様のほうのお祖父様はおみやげを持ってよく遊びに来る。
そのお祖父様はお父様のことを得体の知れない表六玉と呼んでいて、お母様は失礼ね。人の旦那様のことをと言って笑っている。
そんな千夏の家の隣りに、「坊ちゃん」と呼ばれる青年が引っ越して来た。
お父様は最近、盗賊が出るからお隣りに人が来てよかったと喜こぶが、千夏は「坊ちゃん」はたいして頼りにならないと思っている。
そんなある日、友達のキヨちゃんが行儀見習いに行くことが決まり、二人は久しぶりに会った。
二人はお互いの成長を感じた。それは嬉しくてちょっと寂しいことだった。
そして千夏は「坊ちゃん」と親しくなるが、お隣りの幽霊騒ぎは盗賊の手がかりとなり、キヨちゃんが盗賊の手引きをする?まさか・・・
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。


【完結】側妃は愛されるのをやめました
なか
恋愛
「君ではなく、彼女を正妃とする」
私は、貴方のためにこの国へと貢献してきた自負がある。
なのに……彼は。
「だが僕は、ラテシアを見捨てはしない。これから君には側妃になってもらうよ」
私のため。
そんな建前で……側妃へと下げる宣言をするのだ。
このような侮辱、恥を受けてなお……正妃を求めて抗議するか?
否。
そのような恥を晒す気は無い。
「承知いたしました。セリム陛下……私は側妃を受け入れます」
側妃を受けいれた私は、呼吸を挟まずに言葉を続ける。
今しがた決めた、たった一つの決意を込めて。
「ですが陛下。私はもう貴方を支える気はありません」
これから私は、『捨てられた妃』という汚名でなく、彼を『捨てた妃』となるために。
華々しく、私の人生を謳歌しよう。
全ては、廃妃となるために。
◇◇◇
設定はゆるめです。
読んでくださると嬉しいです!

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる